193話 どんなこれからになるだろう
え、わたし今怒られたんだ。
びっくりしました。親から怒られるの、生まれて初めてです。たぶん。彩花ちゃんママにはよく叱られたけれど。みんなといっしょに。ちーちゃんママは、どちらかというとたしなめるって感じだったな。
五年前に戸籍の関係でちょっと会ったというか、ちらっと顔を見たはずなんですけれど、出来事の記憶があるだけで容姿とか覚えていなかったです。興味がなくて。なんかすみません。
とりあえず「失礼しました、おひさしぶりです。とてもお若くて、勘違いしました」と言うと、鼻を鳴らして笑い、もう一度座りました。はい。ということは、先ほど迎え入れてくださった方はお手伝いさんですかね。そりゃ、会ったことないのにおひさしぶりですとか言われたら変な顔しますよね。納得。
「で。なにしに来たのよ、あんた」
は……? えっ、わたしなにしに来たんだろう、そういえば。えっと。なんか謝ってくれるって聞いたんですけどそれが誤りな気がするムーブですね。うむ。どうしよう。
「そちらから、お話があると、伺いました。一希兄さんから」
「――あんた、いったい一希になに言ったのよ!」
また怒り始めました。えっ、なに。脈絡なく感情上下しすぎじゃない? なにそれ更年期障害? クッションを警戒してちょっと浅めに腰掛けました。なんかあとみっつもあるし。母はわたしをにらみながら「あんなにいい子だったのに、わたしに、わたしに……」と言い、さめざめと泣き始めました。情緒不安定すぎだろ……。
お手伝いさんがさっとやってきて、レースのハンカチみたいのを差し出しました。母はそちらを一瞥もせずに受け取り目元へあてがいます。なにそれ、なんかなろう異世界恋愛っぽい。公爵夫人って呼ぶぞ。
お手伝いさんがもう一度やってきて、今度はローテーブルへティーカップを置いて行かれました。母とわたしの前に。コーヒーじゃなくて紅茶。やっぱ異世界恋愛っぽい。じゃあわたしはなんだ、あれか。社交界で目をつけられて呼び出された貧乏子爵令嬢あたりか。ヒーローは一希兄さんと。なるほど。わかりました、それでいこう。
「あんなひどいことを言うような子じゃなかったのに。やさしくて、賢くて、しっかりしていて。とても聞き分けのいい、反抗なんかこれまでしたことのない子。――あんたが、あの子を洗脳したんでしょう! この疫病神が!」
洗脳ときたー。まじかー。しかも子爵令嬢どころか神級だったー。わたし、なにしただろう。まあ異世界恋愛っぽいお買い物デートもどきはした。はい。あとなんか、超高級ディナーにカフェも行った。はい。あとNARUTO観た。観劇だな。よし、異世界恋愛イベントほぼクリア! ……してどうするんだよ実の兄に。
とりあえず、「一希兄さんは、どんなことをおっしゃっていたんですか?」とお尋ねしました。マスカラばっちりの目でわたしをガン見しながら、母は「――あたしが、悪いって言ったのよ!」と叫びました。
「あたしが! なにもかもあたしが! あんたのことを放っておいて、世話をしなかったって! それに、勝手に物を処分したって! ――ぜんぶ悪いって、あたしが! ――あたしが!」
「え? 自覚したんじゃなかったんですか?」
思わずつっこんでしまいました。大きく見せている目をもっと見開いたので、わたしは腰を浮かせました。わたしが横にズレたのと、熱々紅茶のカップが飛んできたのは同じくらい。はい。無事です。
たぶんマイセンとかそんな感じのカップなのになー。背後で割れた音がしました。あと、ソファが思いっきり汚れた。これも高そうなのに。わたしは、さっき投げつけられたクッションを膝に置いていたこともあり、跳ね返ったお茶も直接はかかりませんでした。よかった。
「――あんたも、あたしが悪いって言うの⁉」
「いえべつに。ただ……そうですね。理由は聞いてみたいです。どうして、じいちゃんたち……あなたのお父さんとお母さんに、連絡取らなかったんですか?」
「なによ、突然」
「ずっと、疑問だったので。わたしを預けたということは、縁を切っていたつもりではなかったんでしょうし」
母は笑いました。人を見下した笑い。そして「そんなこと、決まっているじゃない」と言い、わたしには思いつくこともできない言葉を吐きました。
「あんな恥ずかしい両親、外に出せないわ。三田へ嫁いだあたしに、あんな田舎者の親がいるだなんて、だれに言えるっていうのよ」
「は……?」
本当に理解できなくて。わたしは言葉を失いました。背後でお手伝いさんが割れたカップを集めている音がやけにはっきり聞こえました。
「あたしは、都会に来て成功したの! 三田の後継者を産んで、三田の妻になったのよ! あの人だって、三田にふさわしく振る舞えって!」
「待ってください、じいちゃんばあちゃんの、どこが恥ずかしいって?」
「親だけじゃないわよ! あんな、田舎! JRもなければ、デパートもない! コンビニだって満足にないようなところだった。早く出たくてしかたがなかった。思い出したくもないわ!」
急速に。わたしの心が冷えていくのがわかりました。鞍手町。わたしの故郷。たいせつな、たいせつな思い出の場所。緑が深い、ぶどうの町。個人情報保護法はやんわり守られてるけれど希薄で、町内みんな顔見知り。役場の広報には毎回近所の子どもの顔と名前が載るし、みんな同じ中学を卒業する。のどかで、伸びやかで、みんな地元が大好きで。――なんで、そんなこと言われなきゃならないの。どうしてこの人、わたしのたいせつなものを傷つけるの。
わたしは、どこか自分の声じゃないような声で「じゃあ、わたしを鞍手町に送ったのは、わたしが恥ずかしいからですか」と尋ねてみました。
「――じゃなきゃ、なんだっていうのよ。あんたが受験に失敗したから。本当に恥ずかしい。あんたのせいで、あたしが責められたのよ! やっぱりあんたは三田の子じゃないんだって!」
ソファの紅茶染みが広がっていくのを眺めながら、わたしは「やっぱりって、なんですか」とつぶやきました。なんだかどうでもいい気持ちだけれど、たぶん聞いておいた方がいい気もしたから。すると母は、すすり泣きました。とても悲しそうに。悔しそうに。
「――あんたが、あの人の……三田義嗣の子じゃないって、言うやつらがいたのよ!」
このたびも、わたしは「は?」としか言えませんでした。どういうことでしょうか。母の顔をまじまじと見ます。そうですね、美人です。わたしは似ていないけれど、一希兄さんが似ていると思います。
以前三田の会社のサイトで父を見ましたが、そちらには勇二兄さんがわりと似ていたように思います。はい。そして、わたしは自他ともに認める、勇二兄さん似です。はい。
「……いや、わたしは義嗣さんの子でしょうよ」
「……そうよ! あんたは、あの人の子よ!」
ちょっと澄ました顔で高らかに宣言されました。とても表情豊かな人ですね、母は。いちおう「不貞を疑われたってことですか?」と確認しました。悔しそうに母はうなずき、「そうよ……あんたが優秀だったら、ちゃんと疑惑を解消できたのに」とまたわたしをにらみました。ふえー。できがわるくてすんませーん。
……母と、ちゃんと会話したのはこれが生まれて初めてです。どんなひととなりなのか、これまでまったく想像しなかったわけではありません。そのどれとも違って、わたしは驚きを通り越してしまって、感想をうまく言語化できませんでした。
そうだな。とてもかわいらしい人。三田の父のことが、きっと好きなんでしょう。だから、自分の価値が三田に依存してしまっている。かわいそうな人。大人になりきれなかった、かわいそうな人。
見た目年齢は四十代ですけれど、一希兄さんを産んだことを考えると、きっと六十代です。もしかしたら、本当に若いうちに結婚してしまって、社会で揉まれて成長するという過程を踏めなかったのかもしれない。
わたしは、彼女の背後の棚に飾られているたくさんの賞状やトロフィーを見ました。すべてが見えて確認できたわけではありませんが、一希兄さんの名前が刻まれているものばかりでした。それが、とても悲しくて。
わたしのものはないのは知ってる。でも、勇二兄さんのものは? それに、写真が一切ないんです。表彰物だけ。
一希兄さんは、たしか両親の希望で海外の大学へ行ったと言っていました。わたしとは違って、その希望を叶えることができる優秀な人。きっとずっと、親の願い通りまっすぐに進んで来たんでしょう。じゃあ、一希兄さんは愛されて来たのかな。背の高いトロフィーが、無表情にわたしを見返していました。
――こんな、歪な、お城を築いて。
この人にとって、子どもってなんなんだろう。
一希兄さんと、勇二兄さんが、かわいそうで。答えを知りたくない気持ちでした。
そしてわたしは、この際だからわたしにとってたいせつなことを聞いておこうと思いました。もう、結論は出ているような気もしたけれど。
「……じいちゃんと、ばあちゃんがしんじゃったとき。どうしてお葬式に来なかったんですか」
「なんで、あんな田舎にあたしが。行くわけないじゃない」
「……じゃあ。鞍手町のお家のもの、どうしてぜんぶ処分したんですか」
「要らないでしょ?」
あっけらかんと。本当に悪気なく。母は「あんな田舎にあったものなんて、必要ないじゃない。あんたが戻ってくるなら、受け入れてあげようと思っていたわ。でも、へんなもの持ってこられたら困るのよ。三田の娘にふさわしいものを持たなければ。だから処分してあげたのよ」と言いました。わたしは母を見ることができなくて、自分の側に出されたカップを投げつけないよう左手で右手を抑え込みました。
思わずわたしは「あなた、最低ですね」と言いました。ちょっとだけびっくりした顔をしてから、母は言葉になっていない罵倒をわたしへと浴びせました。クッションも飛んできた。わたしはぼんやりと、母親ってなにかな、と考えました。とりあえずわたしにとっての母親はそういうことだ、と割り切って、「産んでくださってありがとうございました」と言いました。母は黙って、わたしをうさんくさそうに見ました。
「……なによ。なに考えてんのよ」
ぼんやりとながめていた壁。デジタルで日時が表示されている電波時計がかかっていました。わたしはその数字を見ながら「べつに」と答えました。
「ただ今日、わたしの誕生日なことを思いだしただけです」
わたしは二十八でした。わたしの前に、わたしにとっての未知の前途が、おびやかすように伸びていました。