179話 師匠の教えに従います
「どうぞ」
わたしが言うと、勇二さんはためらうように口ごもって、もう一度ジョッキをぐいっとしてから言いました。ノリタケさん用に、塩をかけていない白焼きのささみ串を頼もうかな。食べたいって目が訴えてる。
「俺が小五のとき……殴ったことを」
心にかかっているんでしょうね。わたしとしてはもう終わったことだし、そもそも二十年も前の話なので、どうでもいいんですけど。時効だって言おうかと思ったけれど、勇二さんがすっきりしたいなら、それでいいんじゃないかなと考え直し、なにも言いませんでした。
勇二さんは言葉を探すように視線をさまよわせていました。ノリタケさんはわたしの手のひらから、ささみを食べました。かわいい。
「――あのころ……ゆとり教育が導入されたばっかで、第二次中学受験ブームって言われて。英語の授業が小学校でも始まって」
独白に近い言葉でした。そういえば、以前は小学校で英語の授業はなかったんだそうですね。わたしの世代は三年生から必修化されていたけれど。じゃあ、勇二さんは途中から課程が組み込まれたのかな。
「俺の代から公立の中高一貫校もできるって話で、それまで勉強とかぜんぜんしてなかったやつまで、塾に通い始めて」
そんな感じだったんですね。わたしが塾に通い始めたときは、もうゆとり教育真っただ中で軌道に乗っていましたのでね。塾の授業内容は本気で理解できませんでした。だって、学校でやる内容とぜんぜん違うんだもん。小一からのゆとりサラブレットなめんな。わかんないって言っても怒られるだけなので、わたしはわかんないってことを隠すようになりました。それがいけなかったんですけれど。
「いろいろ……焦ってました。母も、他のやつらに追い抜かれないようにって、週のほとんどに塾の予定入れてきて。でもクラスメイトはもっと楽してたし、なんで俺だけって思ってた」
「それはしんどいですねー」
いちおう合いの手を入れました。トマトおいしい。ノリタケさんがじっと見ていましたけど、ダメです。あげない。
「秋くらいに、金曜だけは塾休みたいって、頼んだんです。でも聞き入れてもらえなかった。かえって金曜を中心にカリキュラム組み直されて」
「なんで金曜なんです?」
「……みたいアニメがあったんです」
「へー!」
勇二さんも人の子だったんですね! ちょっと意外。あのころの金曜アニメってなにかな。「それで、ひっしに課題とか終わらせて帰った。それでも間に合わなくて」そう言ってから、勇二さんは息をひとつ呑みました。
「……家についたら、あなたがそのアニメを観ていて……かっとなってしまった」
「あー」
点と点が線でつながりました。あー、そういう。やつあたりで、ペンケースで殴っちゃった系男子ですか。ストレスも相当かかっていて、きっと子どもなりに、心のよりどころにしていたんだろうな。そうだよね、アニメって小学生にとったら、学校での話題にあがる筆頭だしね。観てなかったらけっこうヒエラルキーにも影響が。わたしはあった。
「――あれから、何度もあやまろうと思ったけれど、タイミングがつかめなくて。そのうち時間が経ってしまって……気がついたら、あなたはいなくなっていた」
あー……。わたしが福岡に送られたのって、勇二さんたちには寝耳に水ってやつだったんでしょうか。そうなんだ。まあ、兄たちが親権持ってるわけじゃないから、事前情報あってもどうにもならなかったでしょうけど。
わたしは結局それから今に至るまで視聴していない、そのアニメのタイトルを口にしました。
「NARUTOですか」
「NARUTOです」
複数名のお客さんがいらして、「わんこー」「いぬー」と言いながら入店されました。店内から聞こえるBGMとガヤガヤとした声が、わたしたち二人の間を取り持つように横たわりました。
「そっかー。それはしゃあないですねえ」
心底そう思ったのでそう言いました。勇二さんが前置きしたように、たしかに言い訳だなって思ったけど。わたしの中ではもう終わったことになっていたのも大きいかもしれない。なんの禍根もなく言ったのがわかったのか、ちょっとびっくりしたような口ぶりで、勇二さんが「怒ってないんですか?」と尋ねました。
「まあ、当時は。なんで殴られたのかわからなくて、ひたすら怖かったですけど。理由もわかったし、いいですよ」
「でも、あれからあなたは、テレビを観なくなった」
「うーん。遅かれ早かれ、そうなったと思います。勇二さんに対してだけではなかったので、締めつけは」
オレンジジュースをちびちびしながらわたしが言うと、勇二さんははっと息を呑みました。
日はとっぷりと暮れました。日曜だからか客足はゆったりとしていて、通行人の方もときどき「わんこー」とおっしゃいました。ノリタケさんはしっぽふりふりで応えてました。
なんとなくなんですけど。聞いてみようと思ったんで、聞いてみました。
「NARUTO、その後観ました?」
「……いえ。観てないです」
だろうなあ、と思いました。わたしもなんだかんだ言って、エンタメコンテンツを幅広く摂取せよとのよしこ師匠の教えに背いて、未履修のままでした。うん。なんとなく。心残りというには淡くて、嫌気がさしたと言うには透明で。禍根がないのは本当だけれど。……まあ、どう言い換えたところで同じかもしれないですね。わたしも、きっと傷ついていた。勇二さんといっしょに。
お店の方が「ドリンクどうですかぁー?」とわざわざ聞きに来てくださいました。ありがとうございます。わたしは同じのをお願いして、勇二さんは「お茶系あったらください」とおっしゃいました。店員さんが「ウーロンと緑茶、ジャスミン茶ありますねー」とおっしゃったので、「じゃあ、緑茶で」と勇二さんは答えました。ノリタケさん用のささみ白焼きを二本、いっしょに頼みました。
――わたしは、勇二さんに提案してみようっていう気になりました。たぶん、わたしたちにはそれが必要なんだと感じたから。
「――あの。勇二さん」
「はい!」
びくっとされました。びくっと。それと同時にスマホのバイブ音がしました。革っぽい勇二さんのワンショルダーボディバッグから。勇二さんはあわてて立ち上がってスマホを取り出し、ちょっと道路側へ進み出て「はい、もしもし」と応じました。
「はい、すんません。……え、あ、今、園子さんと中川さんと、メシ食いに来ていて……はい。あっ、すんません。えっと、八丁堀駅からすぐのところです。まじですぐです。はい。店名は――」
一希さんだなーってすぐにわかりました。なんで勇二さんはいっつもそんなにへこへこしてるんだろうと思ったんですけど、一希さんとは年齢差もありつつ、会社内では上司と部下の関係なんだそうで。まあそういう感じだよね。一希さんも、かわいくていじってる感あるけど。
「あー……あの。兄貴が、来るそうです」
「承知しましたー」
「ちょっと中川さんに伝えてきます」
店内に入って、ちょっとしてから両手にジョッキを持たされて勇二さんが戻って来ました。オレンジジュースを受け取ります。
「……あの。それで、さっき……なに言おうとされたんですか」
「あー」
勢いが削がれましたね。でもまあ、気を取り直して。勇二さんの顔を見て、わたしは言いました。
「あの、NARUTO、観ません?」
「え?」
「今から。マンション戻って。頭から。たぶんアマプラあたりにあると思うし」
勇二さんはちょっとあっけにとられてましたけど、わたしの言葉を否定するっていう手段がないかのように「いいっすね」と言いました。わたしはジョッキの甘いオレンジジュースを口に含んで、子どものころにほしかったものはなにか、なんてことを考えました。そのうちいくつを、手にすることができただろう。
わたしたちは、過去に未練を残しちゃいけない。あのころ理不尽に傷つけられていた、子どものわたしたちは慰められなければならない。今まで放ってきてしまったけれど。
わたしたちはもう大人で、どうしたって、顔を上げて歩かなきゃいけないんだから。だってそうでしょう? 自分の人生へ、うずくまる大義名分をだれかがくれることなんかない。しっかり立って、歩こう。先が見えなくても。自分の足で。自分の意志で。
ノリタケさん用の白焼きが来ました。めっちゃしっぽふりふりしていました。かわいい。
次はいつも通り木曜の更新ですー
よろしくお願いいたします