171話 覚めちゃった
たとえば空が落ちてくるかもって心底思えるくらい世の中を憂えることができたら、わたしも、もっと普通の人間になれていたのかな。
実際にはこんなに適当なやつだから、目の前にあるような危機だって手触りを感じなかった。泣いて、叫んで、殴りつけているその瞬間でさえ、わたしの中のどこか遠い部分がそんなわたしをじっと見据えていた。わたしは、一体どんな人間なのだろう。
どこか不格好で、どこか欠けていて、ひどくアンバランスな。それでいて平気な顔で平行棒をこなしてしまえるような存在。わたしは歪だ。
でも、なんとかこれまでやってこれたのは、ひとえに多くの良い人たちに助けられてきたからだろう。そうでなかったら、きっとわたしはわたしのままではなかった。なにか別の人間になって、世のため人のために身を削って、どこかの裏路地で倒れていたに違いない。その方がよかったかな。そうかもな。
一滴もお酒を飲んでいないわたしは、きっとたくさん飲んだ一希さんと同じくらい指先が冷たくて、お店の外に出たとき雨の温かさが目に沁みました。ああ、わたし、これまでこうやって生きてきたんだ、と追想が尾を引きます。
「これから群馬に帰るのはたいへんだろう? 近くに知人が経営しているホテルがあるんだ。……よかったら」
濡れた子犬みたいにおっしゃるので、いくらかかわいそうに思えてわたしはうなずきました。もちろんわたしが考えていたようなビジホじゃなくて、自分じゃネットで眺めたことがある程度の高級ホテル。
高いところは怖いから、なんて口実をつけて、低層階をお願いしました。じゃなかったらきっとサインひとつでスイートとか取られてた。一希さんはそのまま、ご自身のマンションに帰られるとのことでしたけど、その前にとホテルのロビーで向き直って言われました。
「園子。今日来てくれて、ありがとう。いろいろ話せてうれしかったし、いろいろ知れて、やっぱりうれしかった」
わたしはその顔を見上げました。浅黒い肌の、少しさみしい瞳の人。そのキレイなほほえみはわたしに向けられて、その唇はわたしへの言葉をつむぎました。
「……私は、君の兄を名乗るのに、ふさわしい人間ではないとはっきり理解した。君も、私を兄だと思いはしないだろう」
「そんなことは、ないですけど」
兄、という識別記号がついている人。その程度の認識でよければ。それについてごめんなさい、と思う気持ちはあります。血縁って、もっと切実ななにかがあるものだと思うから。そう考えながら、オリヴィエ様のことを思い浮かべます。実の兄であるブリアックから、あれだけ疎まれていても、それでも呼びかけることをやめなかったオリヴィエ様。あの哀切な声のひびきは、お芝居なんかじゃなくて。その心情を、わたしには想像するくらいしかできなくて。
そして、美ショタ様……弟のテオフィル様。同じご両親から生まれたわけではないのに、あんなにご兄弟で思い合っていらっしゃる。……家族ってそういうものなんだと思う。
わたしには、ムリだなあ。できなきゃ、だめかなあ。
わたしの言葉が、本当だけれど一希さんの望むようなものではないことについて、きっと気づいていらっしゃる。だから、その提案はやぶれかぶれな気持ちから出たのかな、とぼんやりわたしは思いました。
「――こんな形になってしまったから。私と、友だちに、なってくれないか。……園子さえ、よければだけれど」
どのみち、一希さんとの血縁が消えることはないです。それがどう呼ばれることになろうとわたしにはあまり重要ではなかったので、「ああ、はい」とお答えしました。うれしそうに笑った一希さんのその笑顔はとてもキレイでした。
「じつは、来週には現場に戻らなくてはならないんだ。だから、今日と明日は園子の時間にしたい。明日の朝、迎えに来るから、デートしよう?」
ちょっと小首をかしげるような感じでお願いされました。お願いですけどたぶん強制だと思います。てゆーか実の兄妹でデートって表現どうよ。話すこととかもうまるでないし、友人という肩書がわたしたちの間をどう変えるのかもよくわかりません。それでもわたしがうなずくと、やっぱり一希さんの笑顔はキレイでした。
借りてくださったのは五階のお部屋でした。それより下はラウンジとかバーとかで。一人で一泊するだけなのに二間もある豪華なお部屋でした。アメニティがね、すっごいの。なんか整髪料まであるの。使わないけど。バスタブにお湯を張って、半身浴をしてから寝ました。わりとさくっと寝落ちたと思います。
……声。声が聞こえます。とても聞き慣れた。怒鳴り声。でもこれまでとは違って、本気の、本当の怒りがこもった。
「――あんたが、兄さんが着いていて、どうしてこんなことになったんだよ⁉」
わたしはそっと目を開けました。一瞬だけ視界がブレて、でもすぐにクリアになって。どこかのお家の応接間みたいなところ。すぐに目についたのはオリヴィエ様の背中と銀髪。ああ、色が戻ってる。じゃあ、きっとルミエラに無事に着いたんだ。夢の中の話とわかってはいましたが、それでもわたしはほっとしました。よかった。……本当によかった。
「なんとか言えよ!」
オリヴィエ様の、怪我をされていない方の左肩が傾いで、向こう側が見えました。美ショタ様。険しい表情でオリヴィエ様へと詰め寄って、グーパンされました。おいおいおいおい、穏やかじゃねえな?
オリヴィエ様は黙っていらして、こちらに背を向けたまま、その表情は窺えませんでした。
「ソノコも、レアも――あんたを助けるために行動してたんだ。あんたのために犠牲になったんだよ。ふざけんな!」
えっ、待ってどゆこと? わたし生きてますが。犠牲ってなに。レアさんどうしたの。なにがあったの。え、ちょっと待って情報量多い。ひとつのセリフにどんだけ未知が詰まってるの。言葉の燃費いいな美ショタ様。
オリヴィエ様が、ステキなバリトンボイスで「……わかっている」と苦渋に満ちたひとことを述べられました。
「……ソノコについては、今、王国直轄領とマディア側での合同捜索が行われている」
「当然だろ。だけど足跡ひとつ見つけられていない。どいつもこいつも使えない」
美ショタ様のお口が悪化の一途。君いいところのおぼっちゃんでしょう。いいのかそれ。お姉さんは心配だよ。
美ショタ様は身を翻して、お部屋の戸口へと向かわれました。オリヴィエ様はその背に「どこへ行く」とおっしゃいました。
「マケトスへ。レアの見舞いに」
「待て、ひとりではだめだ」
「わかってるよ、侍従を待たせてる」
「もしかして領境まで行くつもりか」
「行かない。……領境警備隊が探して見つからないなら、僕が行ったところでどうにもならない」
扉を開けて出るときに、こちらを振り向いて「兄さん」と美ショタ様は呼びかけました。
「……ソノコもレアも、僕の大切な友人だ。どちらかひとりでも欠けてしまうようなことがあってみろ。――僕は、兄さんを許さない」
蒼い瞳でオリヴィエ様をにらみつけて、美ショタ様は去って行かれました。あらー、まあー、大切な友人ですってー。あらー。それもそうだけどレアさんどうしたの。なにがあったの。お見舞いってなに。あまりにも気になりすぎるお願い詳細プリーズ。
オリヴィエ様は部屋の真ん中に立ち尽くして、上を向いてから、下を向かれました。こころなし肩も落ちた気がします。ゆっくりとこちらを振り向かれました。その表情には、隠しきれない陰りがあって。
「――きっついっすね、あんたの弟」
ふっとわたしの隣あたりから声と姿が現れて、ガチでびびりました。はい。アベルですね。びびっても体は動きませんでしたけど。オリヴィエ様は「そうだろう」とおっしゃいながら、わたしの方へと歩いて来られました。うきゃあ。
「半分は、私がおまえに言ってやりたい」
「はい、受け取りました。で、あと半分は、俺からあんたへ」
「存分に」
わたしの前まで来られて、オリヴィエ様はじっとわたしを見下されました。そしてわたしをつまみ上げて口元へ。ぎゃあああああああああああ‼ ちゅーされる感じで匂いを嗅がれました。いやああああああああああ、半身浴したけどいやああああああああああ‼ たしゅけてええええええええええ‼
「……そういえば、好きな花ひとつ、聞いていなかったな」
そう言ってわたしをご覧になる瞳はとても悲しそうで。どうしたらいいかわからなくてわたしは硬直していました。アベルは「あんたそんなことも知らんのですか。元彼の俺が教えてしんぜましょう。あんたが今持ってる、ラキアンサが好きだって言ってましたよ。故郷の国にも似たような花があったって」と言いました。
「そうか……だから。ソノコを感じるのか」
オリヴィエ様はせつなそうに目を眇めて、そしてわたしへともう一度唇を寄せました。うっきゃああああああああああ‼
「庭いっぱいにラキアンサを植えようかな」
「案外それで釣られて出て来ないですかね」
「だといいな」
ふっとオリヴィエ様がほほえまれました。すてき。ぐっときた。夢なら覚めないで。そういや夢だった。
と、考えたときにスマホアラームが聞こえました。朝七時。はい。おはようございます。