169話 ちょっと聞きました奥さん、わたし素敵な女性ですって
「――あの、わたしのことをお伝えする前に、お尋ねしてもいいですか」
するっと口からそうこぼれました。一希さんは「もちろん」とちょっと裏返った声でおっしゃって、背を正されました。
「なんで、わたしのこと心配されたりするんですか。わたしたち、いっしょに住んでいなかったし、付き合いがあったわけでもないですよね」
ショックを受けたような表情をされました。わたしはそれが不思議だった。どうしてだろう。もしかしたらわたしはひどいことを言ったのかもしれないけれど、率直なわたしの気持ちはそれでした。だって、あなたはわたしの『家族』じゃない。
兄も、父も、母も。ずっとわたしに関わりがなかった。わたしにとっては全員、架空の存在なんです。
一希さんは、なにかを言おうとして口を閉ざされました。そのしぐさを何度かされてから、小声で「それでも、君は私の妹だよ」とおっしゃいました。
「……信じては、もらえないのだろうか。私も、勇二も、ずっと君のことを想っていた」
「そうなんですね」
とりあえず合いの手としてそう答えると、一希さんはじっとわたしをご覧になりました。信じて差し上げたいのはやまやまですが、そうするには義理も義務感も足りませんでした。ただ血縁であるからという理由だけでは、わたしたちの距離はひらき過ぎだと感じます。一希さんのおっしゃることが本当だとしたら、それは情なのでしょうか? とても、信じられないくらいに滑稽だな、と思いました。
一希さんと勇二さんが、わたしのことを想っていたとしたら、そのわたしもきっと架空の人物なのでしょう。
デザートが運ばれてきました。オレンジをくり抜いて器にしたシャーベットでした。おいしかったです。
言いあぐねたように、一希さんはずっとなにかを口にしようとされていました。わたしはべつにそれを待つわけではないですけれど、じっくりとシャーベットを食べて「これおかわりできますかね?」とお尋ねしました。すぐに来ました。なんかお皿の飾りが豪華になってました。はい。
「――君が生まれたときのことを覚えている」
ぽつり、と一希さんはおっしゃいました。わたしは覚えてないです。どこか遠くをご覧になって「学校から帰ってきたら、生まれたという伝言があって。まだ四歳くらいだった勇二と手をつないで、病院へ会いに行った」とつぶやきます。ふーん。当時一希さんは小六ショタですかね。わたしと十二違うはずなので。
「……小さくて。かわいくて。勇二といっしょに、がんばってお世話しような、と約束した」
へーそうなんだーと思ったので、「へーそうなんだー」と言いました。お世話されていたかどうかは覚えていませんが、たしかにわたしが小学校に上がる前は、兄は二人ともわたしにやさしかった気がします。入学のころには、一希さんは家にいなかったし、勇二さんは受験勉強でピリピリしていました。そのイメージの方が、ずっと強いのはしかたがないと思います。
「私は、留学してしまったし、いっしょに暮らせたのは君が六歳のときまでだったね。積極的に園子に関われていたわけではない……わかっている」
愛してくれていたのは、覚えています。長兄も、次兄も。おぼろげにある幼いころの記憶は、たくさんの人が集う場所に連れて行かれたこと。たぶん、わたしは二歳くらいでしょうか。長兄がわたしを抱っこして、顔の見えないだれかに「園子です」と紹介して回っていたこと。次兄がそれについて回って、だれかがわたしについて質問したら大きな声で答えていたこと。長兄がお手洗いへ行くときにわたしを任せられて、次兄が深刻な真剣さで壁際の椅子に座りわたしを抱っこしていたこと。
でも、わたしにとってのその記憶は、昔観た映画みたいな感覚で。
「そして……なにも言い訳するつもりはないが、君を母たちの暴挙から、守れなかった。……すまなかった」
「あ、それはもういいです。終わったことなんで」
わたしがそう言うと、一希さんはびっくりしたような顔をされました。「なにも、気に病んでいないのかい?」と聞かれたので「まったく考えるな、と言われたら、それはムリですけど。でも、どうこう言ったところで過去を変えられるわけじゃないし」と返しました。
わたしだって、自分がかなり特殊な環境に置かれたことを自覚しています。それを考えて、他のだれかと比べて、泣いたことがないとも言いません。でも、どうしようもないことなので。起こってしまったことは、起こってしまったことなので。
群馬に来てからすぐのとき。まだ愛ちゃんと知り合う前は、理由もなく突然涙が出ることもしばしばありました。家にいる間はごはんを食べながらでも食器を洗いながらでも、ずっと泣いていることもありました。専門学校の授業に出ているときに突然涙が出現して、周囲をぎょっとさせたこともあります。でもわたしが平然とした表情だったことと、「どうしたの⁉」と先生にあわてて尋ねられて「いやーなんか涙と鼻水がどばどば出てきてー」とそのままのことを告げると、だれかが「鼻炎だ!」と声をあげてくれて。なーんだ、という空気になりました。はい。それで事なきを得て、その後はわたしが無表情で号泣していても「ティッシュ、ボックスで持ってきたら?」という至極真っ当なアドバイスをいただくだけでした。はい。
たぶん、わたしの中のストレス除去装置が、体内に侵入したわるいものを外に押し出していたんだと思います。なので、二年もすればそんなこともなくなりました。そして就職が決まって、次のステップへ踏み出そうとしたとき。
当時住んでいたワンルームアパートの、真ん中に正座して考えました。それまでの自分のことを改めて。ちょっと待て、と。どうしてこうなった、と。
わたしか? わたしがなにかわるかったのか? だからこんなにハードモードなんか? 前世で極悪人だったとか? まじで? 転生チート知識ないんだが? なにかわるかったとしたら、それは頭。でもそれは努力の上でそうなんだからもうしかたがない。なんでだ? なんでこんな、ザ・ノンフィクションに無審査でシード権がありそうな人生になった? おかしいだろ。親兄弟はなんか特別なのかもしれないが、わたしはいたって普通。もし芸能人と結婚するとしたら一般女性って報道されてそれ以上はみんなつっこまないで祝福してくれるくらい普通。なんでこうなった?
とにかく、いろんなしがらみとか思いとかぜんぶ置いといて、なぜか、を客観的に考えました。その結果、わたしがわるいわけじゃない、という結論になりました。では、なぜこうも波乱万丈なのか。しばらくの時間悩んで。
すーごく得心が行きました。はい。得心が行くと人間って本当に手を打つんだってことも知りました。わたしですね、三田の両親から生まれたんです。あの母の腹から出てきたんです。だから三田園子なんです。あー、なるほど。わたしあの腹から出てきた三田園子だ。それでか。――そりゃ苦労するわ! わたし、三田園子だもん!
そうです。わたしはそれ以外に存在し得ませんでした。なので、わたしがこういう人生を歩むのは、ある意味当然なんです。あの両親の元に生まれた存在なんだから! あーびっくりした。あたりまえすぎて気づかなかったー。
生まれてきたことを恨んだり後悔したりはしません。それってなんか違うと思うから。これまで生きてきて、一度もたのしい思いをしたことがないなんてこともありません。なので生んでくれたことについては両親に感謝したいと思います。もうちょいイージーモードにしてほしかった気もしなくはないですが、なにせあの両親ですから。あの両親からじゃなきゃ存在しないのがわたしですから。そして、あの両親から生まれてくる子どもが、苦労しないわけがないですから。あー、これデフォのシナリオだわー。それじゃあしかたないわねー。
二十代の初めに、そう結論できてよかったと思います。その後の人生を鼻炎で過ごさなくてよくなりました。あきらめとはちょっと違う、達観と言うには大人げない、やぶれかぶれと言われそうな心持ちになりました。とても、気が楽になりました。
一希さんは、まっすぐにわたしをご覧になって言います。
「――謝るのは、私の驕りだね。……君は驚くほど、素敵な女性になってくれた」
ちょっと涙ぐんでいらっしゃる。乱視、乱視なのか。どこを見てそう思われたんでしょうか。オレンジシャーベットの食べっぷりからかな。もうひとついけますけどどうですか。一希さんが違うお酒をたのまれたので、そのときにわたしもキリッと「違うスイーツはありますか」とお尋ねしました。はい。お手洗い行ってこよう。
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