139話 少しだけ、わかった気もします
「たのしかったね。リッカー=ポルカのさ。ハルハルの大会」
まだふた月くらいしか経っていないのに、もうとても遠い過去のような気がします。サルちゃんも懐かしそうな声色でした。わたしはあのとき、マディア北東部事変を起こさないようにとひっしでした。なのでいろいろな記憶があいまいなのですが、その中でひときわはっきりとしたイメージとして思い浮かぶのは、激しくなぎつける雪の中、読めない表情でたたずむサルちゃんの姿でした。あのとき、サルちゃんは『シキイ様 』を怒らせに行こうとしていて、その理由をわたしに「退屈だから」と告げました。覚えています。
あのときも今も、わたしはサルちゃんがわかりません。きっとサルちゃんは、わかってもらおうともしていません。でも、尋ねずに見送るのはぜったいに後悔するから。
わたしが黙っていると、サルちゃんは苦笑いしながら「ソナコはなかなか強情だな」と言いました。ちょっと自覚あります。
「どうしてソナコは、僕を愛してくれるの」
「愛してはいませんが。嫌いじゃないしどちらかと言うと好きなだけですが」
「あのとき僕を引き留めて、今こうして僕のことを知ろうとしてる」
「知りたいです。知りたいですよ。わからないですもん。サルちゃんがなに考えてるのか、さっぱり。どうしてこんなとこに入っているのか、さっぱり」
「趣味って言ったら信じる?」
「まさか」
はぐらかそうとしているわけではないのはわかります。どちらかというと、どうでもいいという空気。破れかぶれとも違う、でも明確に損なわれているなにか。疲弊しているのとも違う、悲しみもそこにはなく、ただわたしがはっきりとサルちゃんについて理解できたのは、そこにゆるやかな否定があることでした。
「趣味……とはちょっと違うな。でも、感覚的にはそんな感じなんだよ」
「死のうとすることがですか?」
「それちょっと違う。べつに死のうとはしてないよ」
「じゃあ生きようとしてます?」
「まあ。してないねえ」
その言葉の意味もどう理解したらいいのかわかりませんでした。サルちゃんがどんな人生を歩んできたかなんて、わたしには想像することしかできない。
「生きるのも死ぬのも、そんな変わらないからね」
その言葉もまた、わたしにはわからなくて。
今のわたしとさして変わらない年のときに終戦で、サルちゃんはそのときに英雄として担ぎ上げられ、今に至るわけです。……と考えて、わたしははっとしました。
前作……『The King’s Grail of Eternal 』、通称『無印』は、純然たる戦争シミュレーションゲームでした。わたしはやっていませんけれど、どういうシステムなのかは知っています。一年を四つの期間に分けて、それぞれの時季の作戦を設定し、実行します。一年でひとつのターンと考え、出た結果に基づいて次の年の作戦を調整していきます。――愕然としました。無印……全部で十ターンなんです。
「……失礼ですがサルちゃん。おいくつですか」
「四十九だよー。ソナコは?」
「今年二十八です」
「さすが若いねー。幼妻ってみんなに嫉妬されちゃうなー。まいったな」
――ああ、この人。泣きそうになったけれど、わたしにそんな資格はありませんでした。きっとわたしの想像なんか追いつかない。それで測ることも量ることもできない。でもその事実はわたしの心を重くしました。……二十代のすべてを、戦場で過ごしたんだ、この人は。それってどういうことだろう。……それって、どういうことだろう。
「ソナコ。泣かなくていい」
「泣いてません」
「泣きそうな顔してる」
「泣きません」
「僕のこと大好きなんだ?」
「はい」
「家の登記簿謄本と権利証、一番上の左側の引き出しに入ってるから」
いっそ、サルちゃんが悲しんでくれていたらよかったのに。自分の境遇を嘆いて、お涙ちょうだいしてくれたら。そしたらわたしもおおっぴらに同情して、「つらかったね」って言えるのに。強さかな。これは強さなのかな。違う気がするけれど、どう違うのかはわたしには説明できませんでした。伸びやかで、緩慢で、どこかここではないところを見ているサルちゃんを、わたしが本当の意味で理解できることはないのだと思います。その目にはきっと、わたしが見たことのないものが映っている。
「――手を見せてよ。ソナコ」
言われて、わたしは格子越しに右手を差し出しました。前かがみに、サルちゃんがわたしの手を取りました。そして「僕ね、あなたの手が好きだ」とつぶやきました。
「小さくて、とてもきれいで、働きものだ。おばあちゃんになって、しわしわになっても、きっとそうなんだろうな」
ただ、じっとわたしの手を見て、サルちゃんは言いました。どうしてかそれが無性に悲しくて、さみしくて、堪えられなくなってわたしは泣いてしまいました。わたしがおばあちゃんになるころ、この人はいないんだろうな。それいやだな。すごくいやだな。
ぎゅっと握って、サルちゃんはわたしの手を放しました。そして「有価証券類は一番下の大きい引き出しだから」と言いながら、涙を指でぬぐってくれました。
「あなたに会えて、きっとよかったよ。ソナコ」
「きっと、なんですか」
「うん、きっと。会わなかったら僕はあなたのことを知らなくて、そのままの僕を続けていただろうから」
「わたしに会ってなにか変わった?」
「いやべつに」
「なんだそれ」
わたしがつっこむと、サルちゃんは笑いました。そして「――ただ、これからきっと何回も、白くてちっちゃい手が、僕を引っ張っていたことを思い出すと思う」と言いました。
「――長生きしてください。サルちゃん」
「どうかなー。わからん」
「じゃあ死なないでください」
「難しいこと言うね、あなた」
「これでお別れとかいやですから」
「一般動産類まとめてる貸金庫の鍵も一番下だから」
結局なにもわからなくて、でもなにかがつかめたような気もして、わたしはごしごしと手の甲で目をこすりました。サルちゃんは穏やかな、あの窓際係長の空気感のまま座っていました。そしてちょっと笑って、「元気で、ソナコ」という決別と思える言葉をつぶやきました。わたしはそれに返せませんでした。
「サルちゃん、ひとつ訂正したいことが」
「なんだい」
「わたしの名前、ソナコじゃなくて、ソノコです」
「知ってるよ。ソノコ・ミタちゃん」
え、知ってたの。サルちゃんはとても静かな瞳で笑いました。
「たくさんの人を助けて回ってる、お人好しの、みんなのソノコちゃん。……でもね、僕を引っ張っていたあの子は、ソナコなんだ」
とてもきれいに、笑いました。






