133話 私はそれなりに重い男だからね、覚悟してほしい
「兄さん、ソノコのことはどう思ってんの」
和平協議のためにレテソルへやって来たとき、公使館にて弟のテオフィルと同室で過ごすことになった。二十八年、いや、そろそろ二十九年になる人生の中で初めてのことだ。兄の威厳を保たなければと多少なりとも思ってはいた。けれどベッドがふたつ搬入されていくらか手狭に感じる室内で二人きりになった途端、弟が口にしたのは予想もつかない言葉で、絶句してしまった。
「……え、なにその反応。もしかして兄さんもソノコのこと好きなわけ? まじで? もうちょっと趣味良くなかったっけ?」
待ってくれ、情報過多だ。まず、『も』ってなんだ。ひとつずつ紐解いて尋ねた。……どうやら弟の言によると、私はかなりソノコに好かれているらしい。もちろん、これまでも嫌われてはいないことはわかってはいたが。こちらに来るまでの間、緊急通信で何度もやりとりをした。その流麗な文章からは、私への好意も、深い敬意も感じ取ることができた。
「崇拝、とか言ってたし。意味わかんないくらい兄さんのこと好きだよ、ソノコ。部屋に兄さんのポスターまで貼ってる。怖いよね」
ポスター、とは。思い当たるものがなくて困惑する。ファピー選手や歌手でもあるまいに。「なんか、兄さんが講演したやつ」と言われて、経団連フォーラムのものだと気づく。……そんなもの、どうやって入手したんだ。
「それにさ、兄さんのことが書いてある新聞記事を切り抜いてノートにまとめてる。けっこう古いのまで。いったいどこから見つけてくるんだろうね」
そこまでとは思ったが、悪い気はしなかった。信用され、心の上で頼られているのだ。私は彼女の身元引受人であるし、外国の地でただひとりの身である女性だ。きっと心細くあることだろう。とりわけ彼女は経団連フォーラムでの私の講演内容を心に深く受け止めてくれていたし、寄る辺ない気持ちから私を偶像視してしまうことは考えられた。そう伝えると、弟は「偶像視ねえ……」と納得していないような声をあげた。
「なんか、まあ。言いたいことはわかるんだけどさ。兄さんは偶像じゃない、人間じゃん。ごはん食べるしトイレ行くし、喜怒哀楽のある人間じゃん。それを崇拝ってなんだよ。意味わからん。結局は好きってことだろ」
その言葉がずっと心に残っていた。あらためて考える。そうか、ソノコは私が好きなのか。そう思って彼女を観察すると、たしかにそうなのだろうという感触がある。けれど、以前から彼女と私の間には不思議な溝があって、彼女はそこに橋を架ける気がないどころか、その溝の存在をよろこんでいるようですらあった。私が一歩踏み込めば、一歩半引く。じゃあ私が引けば踏み込んでくるかと思いきや、そうでもない。ただじっとこちらを観察しているだけだ。そしてしばらく放っておくと近くにいる。警戒心が強い野生の小動物のようだ。
「――サルちゃん‼ かぁあっこいい‼」
和平協議の際。軍服のラ・サル将軍の姿を見てソノコが言った。聞いた瞬間、その言葉を腹立たしく思った。愛称で呼び合う仲であることもそうだが、かっこいいとはなんなのだ。たしかに、将軍は男性の私から見ても惹きつける魅力のある人ではあった。けれど、ソノコは私のことが好きではなかったのか。
そう考えて会議の間いくらかそっけない素振りになってしまったように思う。そしてそんな自分に驚きもした。公私混同はなはだしいこともさることながら、そのふてくされた子どものような振る舞いは、いったいどういうことだろう。恥ずかしいことこの上ないが、私のその変化に気づいた人がいなかったようなのは幸いだった。
私は、ソノコを気に入っているのだろう。かわいらしいと思うし、女性として好ましくもある。我ながらなかなか面白い転身ぶりだ。彼女が現れた当初、リシャール殿下に仇をなす可能性のある人物として特別な警戒をしていたというのに。今も定期的な報告をレアから受けてはいる。リシャール殿下からもそうするようにとのことだ。危険人物ではない、とはわかってはいるが、その動向はなぜか我々が歩む道の先を行くかのようだからだ。
「和平協議が終わったら……今日、公使館に帰ってから、お願いがあるんです。お話聞いてくださいますか」
ソノコが、私の腕を両手でつかまえてそう言った。必死な様子で、泣きそうな表情ですらあった。爆発騒ぎがあってうやむやになってしまったが、直前にリシャール殿下が私のマディア入りを反対しなかったかと尋ねてきたことから、おそらく彼女なりに和平協議の成り行きに思うところがあって、それを相談したいのだろうと思えた。私はすぐに了承した。彼女が思い悩む姿は、どこか痛々しかったから。
それに少しだけ、もしかしたらこの機会に彼女が距離をつめてくるのではないか、という期待のような淡い感触があった。和平協議が終わり、私がテオとともにルミエラへ帰れば、また遠く離れた公人と私人に戻るのだ。ここまで親しく話をするような、関係ではなくなる。そう思った。
彼女の涙を見たとき心が揺れたし、担架で私自身が運ばれていくとき、青ざめた顔で駆け寄ってきてくれた姿を見て安堵を覚えもした。
そして、今に至る。
ソノコからの話は、予想の斜め上の事柄ではあった。なぜその発想に至ったのかははたして謎だが、真剣に蒸気機関車での移動が危険だと考えているらしかった。では、どのようにルミエラへ戻れというのだろう。ミュラがレテソルへ来たときのように、自動車で数日かけて長距離移動をすべきだということだろうか。なんと滑稽な話だろう。その方が時間も警護の手間も格段に上がるというのに。けれど彼女は大真面目で、それに一途なくらいの情熱で私へと願い出てくる。私の身の危険を、真に案じている。なんてかわいらしいことだろう。これは、メラニー夫人の安否を思って泣いていたのとは違う感情によるものだ。そんな風に、考えてしまう。
テオが、なにかソノコへと言ったことはすぐに察した。病室を出る際に目配せをしてきたし、彼女へもそれらしいことを告げて送り出してきたから。妙なところで気を利かせてくる弟だ。まだまだ子どもだと思っていたのに。
ソノコにとって、私は「恩人」とのことだった。自分の行動指針として仰ぎ、手本とし、尊敬しているのだと。
「なにか迷ったとき、オリヴィエ様ならどうするかな、って、頭の中で思い描くんです」
ああ、彼女は。そうやって常々私のことを想っているのか。
「それがわたしにもできそうなら、する。できなさそうなら、それに近いわたしにとっての最善はなにか、考える。そんな風に、今までやってきて。それで、とても尊敬している方です、ということをお伝えしました。そういう意味で、『恩人』です」
こちらの心をくすぐる言葉を並べながら、それが恋愛感情だとは露とも考えていない口ぶりで。それでも赤面してうつむいたところを見ると、口にした内容がとても告白じみていることは自覚したのだろう。かわいらしかった。
「進言してくれたこと、感謝する。ありがとう」
ほっとしたのだろう、脱力して深いため息をついたソノコは泣き笑いのような顔をしていた。いじらしく感じながらも、どこか肩透かしをくらったような気持ちになった。これだけ私を思ってくれているのに、彼女と私の間には距離がある。彼女が願うのはただ私の無事と安寧のみで、私たちの間を埋めるという考えなど、彼女にはさらさらないのだ。好きならば、相手の心が自分に向くことも願うものではないのか。そんな素振りがまるでなくて、想われているのは私のはずなのに、片想いをしているような気分だった。八つ当たりじみた被害者意識から、私はいじわるをしてみたくなって口にした。
「いや、本当に私を心配しての言葉だというのはわかるけれどね。せつないな。あなたの『お願い』は、きっとデートのお誘いだと思っていたのに」
ソノコは硬直した。そのまましばらくの間彫像のように身動ぎせず、面白く感じて私もじっとその姿を眺めていた。沈黙の時間すら心地よい。けれどずっとそうしているわけにもいかないので、私は自由になる左手で、彼女の手をとった。一拍置いて彼女は「ぎゃあああ!」と言った。
「――今週中には公使館へ戻るよ。でも、しばらくは公務も満足にできないだろうから、時間ができるかもね。私の気晴らしに付き合ってくれる? ソノコ」
酸欠の魚みたいにぱくぱくと声なく口を開閉する彼女は、じっとつながれた手を見ていた。ぎゅっと握って「ソノコ? 返事は?」と急かすと、「はっはっはっはいいいいいいいいいいいい!!!!」と断末魔の叫びのような返事があった。私は声をあげて笑った。愉快で、笑った。
手をつないだまま病室へ戻る。放したら絶対に逃げてしまうから。迎えたレアは「あらあ? あらあらあら」と笑い、テオは訳知り顔でそっぽを向き、シリルは「はっはっは、それはそれは、いいねえ」とにこにこしていた。
――「ソノコのことはどう思ってんの」というテオの質問を、思い出した。
ごめんね、ソノコ。きっと逃してあげられない。私の気を引くつもりなんかないのに、するりと私の心に侵入してきた異国の不思議な女性。これは今さっき気づいたばかりのことだけれど。思っている以上に私は、あなたのことが好きみたいなんだ。ソノコ。






