119話 モンドセレクションノミネートが崩れました
「ちょーっとね、顔貸してくれないかしら? 和平協議まだ時間あるでしょ、すぐ終わるから。たぶん」
ジョズエ・レヴィ先生です。王様が送り込んでくれた三人のお医者さんのひとりの。わたしの右腕をとってドアから出ようとしたら、左腕を他の方につかまれて止まりました。
「――ミタ秘書官に、どんなご用ですか」
鋭く響いたのはオリヴィエ様の……ぎゃあああああああああああああああああああああああああつかまれてるううううううううううううううううううううううう!!!!
「あら、宰相閣下ね! ウワサ通りのイケメン! ちょっと困ったことになっていてね。ソノコちゃんに関係ないわけでもないから、声かけしてもらおうかと思って」
「なにがあったか、はっきりとお伝えください。当方の職員を不当に連れ回すようなことは許可できません」
ひだりうでえええええええええなんて幸せなやつだおまえはあああああああああ!!! ひやあああああああああああああ!!! わたしの頭上をオリヴィエ様とレヴィ先生の声が行き交います。なにをおっしゃっているのかわかりません。オリヴィエ様そこそこ握力強いいいいいいいいいい!!! つかまれてるぎゃあああああああああああ!!!
「……ううーんと。言っていいのかしら。いいわね、この際。ここのお館の奥様、メラニー様の主治医のセンセ。おじいちゃんヴィゴ先生。辞任するとか言ってんのよ。今引き留めてる真っ最中」
耳に飛び込んできた言葉に時間差で反応できて、「ええっ⁉」とちょっと自分でもびっくりするくらいの大きな声が出ました。
ばったばたと小走りでヴィゴ先生のお部屋へ。いえ、レヴィ先生は普通に歩いているんですけど。足長いんですけど。そしてなぜかオリヴィエ様がついてきているんですけど!
「で、どうして、そんなことに、なったんですか⁉」
「んーとねえ」
走りながら聞くと、レヴィ先生は多少言いづらそうに口を開きました。
「ソノコちゃんの肌に合う美容液作ってあげるわって約束したじゃない? 僕。で、ソノコちゃんが好きだって言ってた、タツキの花を使おうと思ったのよ。葉っぱの部分。ここの庭にも生えてるし。てゆーか、メラニー夫人が毎朝飲んでいる処方薬に必要だから、ヴィゴ先生の管理で植えてあったんだけどね」
一度口を閉じて逡巡したのち、レヴィ先生はおっしゃいました。
「……ここのタツキからさあ……出ちゃいけない成分が出たのよ」
……わたしには専門的なことはわかりません。それでも、レヴィ先生の重い口ぶりから、それが本当にあってはならないことなのだということはわかりました。わたしにはなにも言えませんでした。
ちょうど廊下でヴィゴ先生が歩いているところに行き合いました。手には大きな鞄。それに、白衣ではなくて、今にでもどこかへ行ってしまいそうな旅装。ホームズみたいな帽子までかぶってる。本当だ。本気だ。引責辞任ていうやつだ。隣にはレヴィ先生といっしょにレテソルへ来られた他のお医者さん。ひっしになにかを話しかけて説得しているようです。そりゃそうですよ。メラニーの、お医者様だもん。
「ヴィゴ先生!」
わたしが声をあげると、足をとめてこちらを振り向いてくださいました。「やあ、お嬢さん。あなたにごあいさつできるとは光栄だ。老いぼれは去ることになったよ。あなたの聡明さに感謝する」そう言うと、わたしがまだ走っている間にまた歩き出しました。ひどっ。「まってくださいよ!」と、全速力でその元に行きます。わたしも並んで歩きました。
「先生が辞めちゃうとか、ありえないじゃないですか! メラニーを小さいころから診ていたって、先生おっしゃってたじゃないですか!」
「そのわたしがまさにありえない事態を見過ごしていたからね。首をはねられたって文句は言えないというのに、こうして辞することで責任を取ることを許してくださった元帥閣下のおやさしさには頭が上がらないよ」
「クロヴィスが許した⁉」
「ああ、もちろん。でなければ、わたしはそのまま警察へ出頭するつもりだった」
言葉を失いました。それだけのことだったんだ。もしかしなくても、メラニーがゲームシナリオよりも病状の悪化が激しかったのって、それが原因だったということなんでしょうか。どうしてそんな。そんな、薬の材料がおかしいなんてイベント、クロヴィスシナリオはもちろん、リシャールシナリオにもなかった!
「――メラニーは!」
わたしは声を張り上げました。なにかおかしい、ぜったいとめなきゃ。
「メラニーは、いいって言ったんですか? 先生が辞めること、メラニーがいいって言ったんですか?」
「会っていないよ」
ヴィゴ先生は小声ながらはっきりとおっしゃいました。「合わせる顔が、あるわけがないだろう」
「なに言ってるんですかありえなさすぎ! せめて顔見て本人に了承得てくださいよ!」
「あのな、お嬢さん。わたしにはそんな資格はないんだよ。医師でありながら、命を縮めるようなことをしていた。どう弁明しようが、起こしたことは、起こしたことだ」
「そんなの、ただの意気地なしですね!」
「なんとでも言いなさい」
ふあっ! 渾身の煽りがさらっとかわされた! さすがおじいちゃん年の功! ええー、どうしろと? これどうしろと⁉ レヴィ先生も他の先生もなぜかオリヴィエ様もついてきていて、大学病院の大名行列みたいです。
玄関ホールにさしかかりました。とりあえず階段を降りる前に止めなきゃと思って走って先に行ったら、階下にクロヴィスの頭がありました。でかいのですぐ見えます。「クロヴィスさん、ヴィゴ先生を止めてください、メラニーさんが――」わたしの声に、クロヴィスが顔を巡らせてこちらを見、そして振り返りました。わたしははっと息をのみました。
わたしに追いついたヴィゴ先生も同じように。……クロヴィスはメラニーを抱き上げて、そこに立っていました。
ヴィゴ先生は、そっと帽子をとりました。クロヴィスが……メラニーが、こちらを見上げています。ゆっくりとヴィゴ先生が階段を降り、二人の前に立ちました。
「――これにて、おいとまいたします。数々の不出来、不徳……お役全うできなかったこと、陳謝いたします」
深々と、ヴィゴ先生が頭を下げました。ためらうような、それでいてすがるような瞳で、メラニーが指を伸ばしました。
「……パパ。パパ・ドク」
小さな声がホールに響きます。ヴィゴ先生が腰を折ったまま、帽子を持つ手で顔を隠しました。
「……まだそう呼んでくれて、ありがとう。メラニー」
ぐわっともらい泣きしました。ぐわっと。パパだって。メラニー、ヴィゴ先生のことパパって呼んでたんだって。むりなにこれエモい。ハンカチ。ない。バッグ置いてきた。さっと横から差し出されました。ありがとう鼻水拭いていいですかお借りします。
メラニーもぽろぽろ泣いています。いっしょうけんめいなにかを言おうとして、でも言えないかんじで、クロヴィスが少しだけあやすように抱き直しました。
「――いかないで、パパ・ドク」
……こんなん泣くやろ!!! ふざけんなどうにかしろいくなパパドク!!!
ホールが静まり返ります。さすがに鼻をすする音をたてられないのでわたしはハンカチで鼻を押さえています。その中、レヴィ先生ののんびりとした声が響きました。
「……と、いうことで。メラニー夫人ご本人が、あなたに続投を希望しているの。それでも辞めるっていうのは、心療内科的側面から僕は断固反対なんだけど? ヴィゴ先生」
今ならだいじょうぶそう、とおもってわたしは鼻をすすりました。なにこのハンカチめっちゃいい匂い。