プロローグ
「んで、あっちの賑わってるのがミレアンの市場でこの通りが隣町へ続く道です。多分僕達の感覚で行くと20キロはあると思うんですけど、皆さん健脚なので往復する人もいたりして。でもそういった遠出の時は象に似た動物のカゾマフルっていう生き物に幌付きの車を引かせています。馬車とほぼ変わらないデザインなんですよ、面白いですよねぇ。あっ、それから」
マシンガントークを続けるマコトと名乗った少年が葛城の前を行く。
通り過ぎゆく人はみながみな見慣れない格好をしていて、携帯端末や仕事鞄を持っている者などひとりもいない。スーツ姿の葛城がむしろ浮いている見えるほど。
顔立ちは欧州からアジア、アフリカ系、中東系まで様々な人種が目につき、だからこそ話す言語が聞き慣れた日本語であることにかなり違和感を覚えた。
マコトが言うには、脳回路をいじる「魔法」で言語中枢に処理倉庫を設け、数秒のタイムラグもなく自分自身で翻訳し母国語として聞き取っているシステムを構築したのだという。
しかし聞いたところでさっぱりな内容だったので、そういうものだと思うことにした。ここでは何もかもが自分がいた世界とは違う。違いすぎる。
「僕、喋りすぎですかね? すみません、初めて日本人に会えたのが嬉しくて嬉しくて。ペーパー戦隊ドライブファイブっていう戦隊ものの最終回前にここに飛ばされちゃったんですけど、観ました?」
「ドライブ……何だって?」
「ああ、やっぱりそういうの観るタイプじゃないですもんね。僕学校でも変人ってずっと呼ばれてたんですけど、高一で戦隊ヒーロー観たって別に変人じゃないと思いませんか。そろそろアシュルさんの店ですよ! ここのグラタンは世界一なんです。元の世界も含めて」
このマコトという少年は終始小鳥のように喋り倒し、喋りすぎですか? と自重して謝罪したのちまた喋り出す。
元来無口なほうなので特に問題はないが、元の世界で葛城にここまで忖度も遠慮も畏れもなく話しまくる人間はいなかった。従えていた大勢の男ですらそうなのだから、時折通りすがった学生と思わしき少年など尚更。
新鮮でついつい話に耳を傾ける。
彼はおよそ櫛が通りにくそうな天然パーマにそばかすの目立つ肌、身長は165センチほどだろうか。185センチのこちらとすれば、20センチも差がある。まるで親子のようだった。年齢差も然りだ。
ひょろっともしていないが筋肉がついているわけでもない。他の住民よりだいぶ地味な麻の衣服に身を包み、足下は革のブーツを履いている。だぼっとしたショルダーバッグには分厚い本が何冊も入っているのを見た。魔法書ですよ、と病室で気軽に言っていたが、やはりさっぱりだ。
「ちょっとこっち見て下さい。眉間の皺は無しですよ、ただでさえ顔が怖いんですから! あっ、ごめんなさい、今のは嘘っていうか、いや嘘でもないんですけど……とにかく笑顔で! アシュルさんって結構ノミの心臓なので」
「こっちの世界にもノミが?」
素朴な疑問を口にすると、マコトは顔をぱっと輝かせて「そうなんです! ダニもいますよ!」とまくし立てた。
人々が行き交う通りを横切り露店や店舗が建ち並ぶ区画へとやってくると、一際繁盛しているらしい店の前で二人は止まった。昼時を過ぎてこの人気なら相当味がいいのだろう。病院で粗食しか胃に入れていなかった葛城は、この世界に来て初めて空腹を感じた。
美しく磨かれたガラスのはめ込まれた窓の外にはテラスが設けられ、テラス屋根のせり出した影がちょうどいい日陰をつくる居心地のいい場所をつくっている。そのおかげか外は満席のようだった。
頬を優しく撫でる風が吹くたびうまそうな料理の匂いが鼻をくすぐる。
「やっぱり服は着替えてもらえばよかったな。目立ちまくってますよ」
「別にいい。腹が減った」
「ま、待って下さい、あと笑顔! 忘れずにお願いしますよっ」
葛城は料理の匂いにつられて解放されているドアの内側に身を滑り込ませた。
――適度な密集と適度な雑音、カウンター席とテーブル席に別れて座る客達は午後三時の遅い昼食かデザートのケーキに舌鼓を打っている。
こちら側に顔を向けている客の数人は葛城を見て一瞬ぎょっとしたが、すぐに食事に戻って大した騒ぎにはならなかった。
やはりこの世界の人々は「外部」からやってくる者に慣れている。専用の病院があることからもそれは窺い知れたが、建物や道路からみても文化的進歩は元の世界でいうところの中世辺りに思えた。
こちらと地球ではどこかで大きく分岐がずれた部分があるのだ。
極めつけは葛城の言語能力にも劇的な影響を与えた魔法とやら。どうみてもアメリカ人にしか見えない顔で日本語を喋っている光景は最初も今も衝撃的としか言いようがない。
「いらっしゃいませー! 今カウンターしか空いてないんですけどいいですか? あら?」
「こんにちは! 約束通り来ましたよ」
「まあ、じゃあそちらの大きい方ってもしかして」
「葛城さんです。顔は怖いんですけど、いい人です」
「カツラギ……発音が難しいのね。歓迎するわ、いらっしゃい!」
胸元に青と赤をあしらい、肩口に膨らみのあるウェイトレス衣装が似合っている二十代後半にみえる女性は、溌剌として早速二人をカウンター席に案内した。バックヤード側とフロア側の境目がすぐ隣にある、店で一番奥まった場所だ。
葛城はいつもの癖でそこから店全体を見渡した後、出口への導線を脳内でいくつも考えながら席に座る。
「この高い椅子に足がつくんですか! いいなぁ、僕もいつか葛城さんくらい背が高くなりたいです」
「手がデカいから身長は伸びる」
「えッ、ホントに!?」
予想以上に食いつくマコトに口の端を上げて微かに笑んでみせ、運ばれてきたコップになみなみ注がれた水を飲んだ。
病院にいたときも思ったが、ここは水がうまい。上水道と下水道の整備もされているようだから、水に対する意識が高いことが分かる。
「グラタンにする? それともウェンデルスト?」
「グラタンでお願いします。僕達の世界にもあって食べ慣れてるから」
「分かったわ、待っててカツラギさん。美味しすぎて目を回すわよ」
茶髪と同じ色の瞳が印象的なウェイトレスは、指を銃の形にして葛城に向けおまけにウィンクも飛ばして厨房に消えていく。葛城は足をぶらぶらさせているマコトに話しかけた。
「なあ、ノミの心臓ってこっちじゃ小心者って意味じゃないのか」
「え? あ、いやあの人はランバさんです。アシュルさんはランバさんの旦那さんで、体はすごく大きいのに料理だけが取り柄の気が小さい人なんですよ。残念、今日はお客さん多くて忙しいから会えないかも」
さらっと酷いことを言う。
響きからして女性名だと思ったが、“ランバ”が女性なら響きだけで性別を判断するのは早計そうだ。そうか、と一言返して頭上の壁にかかるメニューを見つける。木材に直接塗料で書いているらしく、大胆な筆致がなんとも味があった。なんとなく料亭の玄関先にある流木を思い出す。
しかし言語は魔法でどうにかなっても、文字のほうまではカバーできないようだった。直線と曲線が絶妙に交わった、英語に似ていなくもないメニューが並んでいる。
「ウェンデルストは大雑把に言うとお好み焼きみたいなものなんですけど、お酢がたっぷりかかってる上にチマカっていう酸っぱい実を刻んで上に乗せてるんです。僕はちょっと無理でした」
「まさかグラタンも」
「いえいえ! グラタンは絶品! 僕が保証します」
どん、と胸に拳を当てて得意顔を見せるマコトに、アルコールはあるのかとはまだ聞けなかった。店内ではそれらしきグラスをテーブルに置いている客もいる。
腹に傷さえなければ今すぐにでも注文するのだが。そう思いながら腹部に手をやると、すぐに気付いたマコトが不安げに顔色を窺ってきた。
「大丈夫ですか? 痛みます?」
「問題ない。ほとんどお前に塞いでもらったしな」
「あの治療魔法は本人の生命エネルギーを燃料に使ってますから、ちょっとしたことで解けてしまう可能性があるものなんです。大魔術師クラスになると他からエネルギーを持ってこられるけど、僕はまだ見習いだから……ごめんなさい」
お前が謝ることじゃない、とくるくる巻いている天然パーマの頭に手を乗せる。まだ十七、八の子供だ。親元から引き離されてひとりこんな場所で生きていくのは苦労続きだっただろう。
自分だってそうだ。これからここでどう過ごしていくか考えなければならない。元の世界に戻るすべは、今のところ確立されていないようだし。
葛城は腹に刃物を突き込んできた部下の顔を思い出す。
東と名乗っていた。
カタギもヤクザも経済的な損失が大きかった年、小さい組があっという間に大手の傘下に下る中、葛城の属する源龍会は少人数ながら独立して商売を展開していた。東は去年入ってきたばかりの新参者で、半グレがとうとうヤクザに身を落としたかと体現している風体だった。
年は三十二、顔がよくいつもオンナを連れている。自分ならオンナ絡みのシノギで一発当てられると豪語し、実際任せた店は繁盛していた。だがある時からアダルトビデオにまで手を出すようになり、ついには怪我人を出した。出演していた女優から訴えられて敗訴し、その腹いせに女優をバットで――当然東は逮捕され数年間服役した。
葛城が東に刺されたのは、奴が出所した直後のこと。
若頭! と舎弟達の声が響く事務所で、ビルの上へ逃げる東を痛みも忘れて追いかけた。階段を昇る東は「アンタが悪ィんだよ! 俺をクソ裁判なんかに叩き出すから!」と喚いていたので、下らない逆恨みからの刃傷沙汰というわけだった。
口元も血で汚しながらビルの屋上へと東を追い詰めた葛城だったが、そこで予想外の事態に巻き込まれることになる。
狼がいた。
真っ白な毛並みにブルドーザー程もあるかというほどの巨躯を持つ、眼光鋭い狼だ。あまりの非現実な光景に一瞬背後への注意を怠った。東は何を思ったか「ウラアアァア!」と声を上げ肘を抱えて葛城の背中に突撃し、狼の足下へと突き飛ばした。
その刹那に、黄色い目と目が合う。凪いだ湖面のように静かな瞳だ。今にも人語を話しそうなその狼の目から視線が外せないまま、倒れていく自分が妙に鮮明に脳裏に浮かぶ。そして伸ばした手がついたのは、雨風に晒されて黒く変色した硬いコンクリートではなく。
「はい、お待たせしました! グラタンふたつね。244ギリーよ」
「ありがとうランバさん。はい、ちょうど244ギリー」
「こちらこそありがとう。美味しくてびっくりするわよ、カツラギさん」
再びのウィンクに、思考の縁に沈んでいた意識が引き上げられる。今も瞼を閉じればあの狼の静謐な瞳が目に浮かぶ。東はどうなっただろうか。組は、事務所は。若頭が消えたことで今頃大混乱だろう。すべてのシノギの統括を担っていた。
組長は長くこの世界を生き抜いてきた男だが、トップに立って下々を率いていく才はあるが統括という部分での理論的な思考がまだ古くさい。感情論でものを言っても、若い衆はぽかんとするか跳ね返る。ヤクザが何をと組長は言うだろうが、時代というやつなのだ。
「アツアツですね、美味しそう」
隣ではマコトが湯気の立つグラタンにスプーンを差し込んでいた。あまりに自然で言及できていなかったが、葛城は倣ってスプーンを手に取りながら声をかけた。
「金、すまないな。まさかお前くらいの年のガキに驕ってもらう日がくるとは思わなかった」
「いいんです。昨日ギルドで給料もらったばっかりなんで! この上のホワイトソース、ゴギっていう牛から取れる牛乳も入ってるんですけど、それがまた美味しいんですよ。あ、小麦粉はこの世界にもあって主食になってます。病院で固いパン食べましたよね? あれ最安値の保存食なんですよ。スープに入れて柔らかくして食べたりします」
「244ギリーってのは高いのか?」
高い!? とんでもない。
マコトが目を丸くして言う。彼がランバに手渡していた金は硬貨だった。硬貨はここでも小銭らしい。
「ほとんど日本円と変わらないんじゃないかなって思うんです。卵が10個で188ギリーですもん。ちなみにここの卵って鶏じゃないんですよ、もちろん鶏もいるんですけど」
マコトが鶏と卵を産む鳥に関しての違いをマシンガントークで喋り倒しているのを聞きながら、湯気の立つ白いグラタンにスプーンを差し込んだ。掬って鼻に近付け匂いを嗅ぐと、チーズと牛乳のまさしくグラタンの香りがする。
ぱくっ、と口に入れると、一瞬で体全体に旨味が行き渡った。
これはたまらない。空腹という調味料があったとしても、スプーンを運ぶ手が止まらない。美味い。ごろっと入っている芋は甘く、ブロッコリーは歯がいらないほどくたくたに柔らかい。マカロニは入っていないが、その分野菜がふんだんに使われていて体に染み渡った。
「よかった、気に入ってくれたみたいで。お腹にも優しいですから。お代わりしてもいいですよ? あ、でももしかして傷に悪いかな。あとでまた傷口を診せて下さい、魔法のかけ直しが必要ならそうしますから」
あっという間に皿の中身を完食し、グラスの水を飲み干してはーっと息を吐く。ここにやってきて五日経ったが、ようやく人心地ついた気分だった。
この味で122ギリーは確かに安い。肉体はそれなりに弱っていたらしいので満腹感を感じるが、普段なら三杯はいけそうだ。
「よくこの速さでいけましたね!? こんなに熱いのに!」
「マコト」
「あっ、はい!」
葛城は横を向くと、くりくりした目の少年に微笑みかけた。
「恩に着る」
「……へへ、へへへ。いいんです。だって僕、嬉しいから。それと葛城さん、こういうときは恩に着る、じゃなくてありがとうでいいんですよ。恩に着るじゃあ時代劇みたいだ」
「そうなのか? 知らなかった。十二の頃からこうだったから」
「僕が何でも教えてあげます。ペーパー戦隊ドライブファイブの話もしたいし、安田信夫監督のアニメ映画の話もしたいです。葛城さんが好きなアニメって何ですか? 映画でもいいですよ。やっぱり極道ものですか。でも僕極道ものって怖くて観てないんです。ほんとに小指切っちゃうんですか、ドスって持ち歩いてたんですか」
グラタンを食べる手も止まらないのに、喋る口も止まらない。
そんなマコトの話し声を聞きながら、何故かここ数年で感じたことのなかった平穏とやらに片足が浸かっている気がした。
◇ ◇ ◇