最終話 飛び立つ
「岳くんが迷ってる理由って、親に掛ける経済的な負担だけが理由じゃないよね。高校卒業後もこの街に残りたい気持ちが、以前より強くなってるでしょ」
そうなのか。それは自分でも気がつかなかったが。
「この二か月の間に、岳くん、いろんなことがあったからね。それまでの、ここに居ても何も無く、ただ熱意をため込んでいただけの日々から逃れるために、ここでは無い遠くに行きたかったんだから、ここに居ても情熱を燃やせるなら、出て行く理由、挑戦する意義は、以前ほど強くは無いよね」
情熱を燃やす…………。
確かにモレク師匠に会って、鵬先輩や独楽子さんや白馬さんに出会えて、俺はその日々を楽しむことにエネルギーを費やすことが出来た。
それともう一つ、あの犬に守ってもらえて、俺の命は続いている。今の俺の心の中に、あの犬がこの街の、この街での生活の象徴として、宿っている。
そうか。師匠に言われて気づく。
俺はそれらの記憶を思い出に変えて、次のステージへと踏み出すことをためらっている。次に踏み出す挑戦が、今以上の幸福を自分にもたらす保証が無いことに、恐れを懐いているのだろう。
でもやはり、ずっと今のままでいられる訳では無い。時が来れば、否応なく、今のこの日々の記憶はただの思い出になり、次の舞台、次の人生が訪れるのだ。
この街を出るか残るか。
それは俺の生活環境を、自分から変えるか、時と共に自然と変わって行くのを待つかの違いでしかない。
「でも岳くん、この街に残って地元の大学に行くことだって、何かを変える為の挑戦の一つではあるんだよ。話を振り出しに戻して考えさせて悪いけど」
ああ、そうか。なんだかまた、考える取っ掛かりが無くなったな。
「もう一つ。出て行きたいにせよ、どこに行って、何をしたいのか、挑戦したい課題が全く具体的な形を未だに描けていない事が、この街を出たいモチベーションを下げているのかもね」
そう、この街に残る挑戦の方が先に、地元の国立大学という、ハッキリとした具体的なイメージを創り出してしまったのだ。出て行くにしてもどこを目指すのか、そっちは全く見当が立っていないのに。
「それが決まればまた、出て行きたい意志が強くはなるだろうね」
最初から師匠は、俺の悩みに結論を出さない。あくまで、俺自身に決断させようとしている。でも、俺が聞きたいのは、
「師匠、師匠が俺にさせたいことって何ですか。師匠は俺に何を望んで弟子にしてくれたんですか。トペテの祭壇のことを、教えてください」
俺は師匠と出会った時、師匠がそれを説明しようとしたのを拒んだ。いま、改めて、その事情を知りたいと願った。
古代の伝承に聞く、モレク神。己を信仰する者に、その者自身の子を人身供犠として、業火の祭壇に捧げさせた神。
それなる神は、恐らくモレク師匠その人だろう。数千年の時を生き抜いた魔術王モレク。今またその供犠を焼き尽くす、業火の塔トペテの溶鉱炉が再び蘇える。
あるいはそれこそが、モレク師匠を永遠に生き永らえさせるための魔術装置なのかもしれない。ならば、俺の果たす役割は一つしかない。
それでモレク師匠が生きながらえるなら、俺はゲヘナの炎で焼かれても構わないと思った。あの日、この場所で、師弟の絆を結ぶと誓った日から、その覚悟はあったのだ。
だから――――――
「私は、トペテの祭壇を使って最後の大魔法を実現したかった。供犠を捧げた全ての者の願いをかなえる劫火の塔。それを完成させることで、最終魔法をかなえたかった」
「最後の大魔法って」
「みんなが幸せになれる魔法」
そんなこと、不可能だ。
「だから、私の魔術で岳くんやこの街の人々を幸せにしてあげたかった」
いつからなのだろう。この人が、この少女の姿をした人外が、その願いにたどり着いたのは。古代の経典に描かれる、モレクの祭祀が行われていたその時には、すでにその為にトペテの祭壇を築いたのだろうか。
だがその時すでに、人々は、己が欲望を満たす為に、誤った願いを唱えて贄を投じていた。
「トペテの祭壇に供える物は、人身供犠でなくても良かったんだよ。ただの願掛けの代償、思いを込めるだけでよかったのに」
「――――――――」
「だから私は誰かを幸せにして見せたかった。そうすれば、それが出来れば、ゲヘナを創造した私の罪過が、あるいは許される日が来るかもしれないと、夢にすがった」
「俺は師匠に救われましたよ」
「でも私は一匹の犬をまた、見殺しにした」
ああ、師匠も苦しんでいたのか。なのにあの時、師匠は俺が犬を死なせた責任に向き合えるようにするために、俺があの犬の死に対し正面から罪の意識を背負えるように、あの犬を死なせたのは俺のせいだと責めてくれたんだ。
自分にも責任があると思っていたのに俺だけを責めた。
それはどんなにつらくて、惨めな思いだった事だろう。
そんな卑怯なまねを、誰だってしたくは無いだろうに。
この傷だらけの少女は、俺の為にそこまでしてくれた。
「愛おし過ぎるよ、モレク師匠」
もしまた再び、トペテの祭壇が復元したとして、誰がそれを何の為に用いるのか。
「あらゆる魔術師が、最後にたどり着く願い。それが最後の大魔法。すべての魔術師が目指す最終魔法、すべての人を幸福にする魔法。
分かっているよ。トペテの祭壇も、それでは無いことくらい」
師匠が目指す最後の大魔法、そこに至るには、トペテの祭壇では追い付けない。ならば師匠は、トペテの祭壇を踏み台にして、次の魔術を講じるはずだ。
その為にこそ俺がいる。俺を弟子にし、魔術を教え、俺の人生を変えてくれたのは、その為の布石。そうまでして、俺にさせたいことって。
「ただ私は、君一人を、私の全てを費やして幸せにしてあげたかった。そこに最後の大魔法へとつながる可能性を、見出したかった。自分の魔術の不可能を、最後の大魔法への可能性が完全に閉ざされてはいない事を、ただ信じたかった」
「俺は信じますよ。師匠がいつの日か、すべての人々を幸福へと導けると。俺をこうして幸せにしてくれたように。だから俺は二年後、この街を出ます。そして師匠がしてくれたように、他の誰かを、その先で出会えた誰かを幸せにしてみせます」
何かが見えた気がした。
「だからその後、再び師匠に出会った時には、ずっと師匠と二人で幸福をみんなに分け与えて行きたいです。師匠、その時には俺の生涯のパートナーになってください」
自分の目指す人生が、未来の理想の自分が、いま、描けたと思う。
「そう、そうか、そうだね。岳くん、君が今から高校卒業まで、鵬くんや独楽子くん、白馬くんの誘惑に勝てたら、考えてあげる」
「負ける気がしねえ」
これが俺の青春の序章。
これがこの俺、稲富岳の波乱万丈な青春時代開幕の物語だ。
次回作、ローファンタジー、『ウシュムガル伝』もよろしくお願いします。