第三十三話 踏み出す
空には薄雲が掛かり、五月の終盤にしては妙に肌寒いその日。
苔むす岩場と清流には冷気が滞り、息を切らして駆け上がりながらも汗も湧かない。陽射しが届かないせいで、景色も薄暗い。まるで今の自分の心情を表しているようで、今日くらい快晴でいてくれてもいいだろうと、大宇宙の大いなる意志に愚痴をこぼす。
木々の葉も新緑の時期を遠に過ぎ、黒々とした濃緑の季節を迎えている。
色々なことが、あったな。懐かしさと言う名の疲労感に浸ることは出来ない。自分はまだ若い、若さの自覚が己を鼓舞する。自分で自分を奮い立たせねばならない程度には、日々の日常が、精神と肉体双方のエネルギーを消耗させる。
だがやはり、自分は若い。その日の疲労は、その日の内に回復する。エネルギーの消耗を翌日まで持ち越した経験を、未だに知らない。のみならず、余剰エネルギーは己を駆り立てる、焦らせる。
未来の、未だ見定まらぬ自分の姿に焦りを覚え、早く結果を、結論をと急き立てる。なぜ有り余るエネルギーは、自分に余裕をもたらさず、真逆の精神状態へと導くのか。
自分が己の将来に不安を懐いている事を自覚させる程度には、余裕がある。あるいは自信が無い。永遠に子供ではいられない事を、自身の身体的な成長により、実感的に理解しだした頃から、ずっと続く、徐々に強まって行く不安だった。
期待や希望という幸福感を起こさせるポジティブな展望は、持ち合わせていなかった。理想の自分、自分が憧れる自分を、思い描いたことが無かった訳では無いが、本気にはなれなかった。
本気になれるほど熱望した訳でも無かった。
不可能な願望を描いたのでも無かったが、不可能でも無い願望に、一生を託すほどの情熱は湧かなかった。
自分の未来像に具体的な指標が欲しい。不安も焦りも、それで幾分かは解消できるだろう。それが無いが為の不安であり焦りである。
自分の未来に指標を建てるとは、そこを自分の限界と見定めることでもあるだろう。やはり、自分の限界を超えるような挑戦を期待する、幼い、実に幼稚な野心は、俺程度の人物にもあるのだった。
ならば、自分の野心を充たせるだけの高さのある指標、その一つには、この生まれ育った町を出たい、という憧れ、あるいは願望もあるにはあった。
この、俺が生まれ育った町。
ここでは俺は夢を描けない。
描いた夢を追い掛けられない。
ここでは俺は、ここでは無い遠い世界を夢見るだけだ。
そんな時、俺は師匠に、あの少女に出会った。
「私が君を特別にしてあげる。この街を二人で、ここでは無い遠い世界に創り変えよう」
その少女の指し示す未来に満たされたのでは無かった。その言葉とその少女の居る今現在に、俺の焦りと不安は満たされた。その時から俺は、この街を出る覚悟を決意できた。
残りの高校生活二年間の間に、この街を出て行く為の条件を調えようと、覚悟を決めた。それからの二か月、俺の日常は常識から逸脱した。
アリエナイと諦めていた、不可能な願望、憧れてすらいないような自分像でいられた。悲しい事もつらい事も、傷つく事もあったが、悲しめた事もつらかった事も、傷つけられた事も、自分を高め、満たしてくれた。
ゆかいな仲間たちに出会えた。俺の日常が、常識から外れることが、常識を突破することが出来たのは、あの奇妙な人たちに出会えたからだ。その二か月の間、俺は全力で今を生きることが出来た。
だが、
中間テストの答案が返却され、先日、テスト結果が通達された。信じ難いことに、俺のテストの総合結果は、学年三百人中九位まで伸びていた。
俺も驚いたが、教師陣はもっと驚いたようだ。
それはそうだろうな。俺は自分が、今まで以上に努力していたことが分かっているが、周囲から見れば特に変化の無い、クラスの輪から外れたような、地味で存在感の薄い生徒のままだからだ。
何があったなどとは、さすがに詮索されなかったが、急な変化を訝しむ声はあったようだ。それでも概ねは好意的に受け取られ、そこそこ励まされもした。
だが、
「稲富、お前この調子なら、地元の国立大学も狙えるんじゃないか」
その、担任からの一言は、俺を、俺の想像以上に大きく揺さぶった。地元の国立大学なら、自宅からでも通える。親に掛ける経済的負担は、最も軽いルートだ。
そして、そのルートを選択すれば恐らく、この街を離れる機会は、少なくとも四年間は遠ざかるのだ。ありえない日常から現実へ、俺は一気に直面させられていた。
その日、つまり今日、今こうして俺は、白藤の滝を目指してこの道を駆けあがる。
揺らぐ、この街を出て行く決意。早くあの少女に、魔術師モレクに会いたい。あの子なら、あの人なら、俺に進むべき道を諭してくれるはずだ。
山道を抜け出し、農道をまたぎ、滝へと続く岩場に入る。
「師匠っ」
いつものように俺が一声かけると、岩場の影からモレク師匠が顔をのぞかせる。ピョコピョコと岩から岩へと飛び移り、俺の下へと降りて来た。
「なんだか今日は、いつもと違うね。何となく、悩んでる感じだ」
これは心を読んだのではなく、もともと観察力や洞察力、直観力が鋭いのだ。俺はなるべくシンプルに、高校卒業と同時にこの街を出るべきか、ここに残って地元の国立大学へ進学すべきかで迷っていると、説明しながら訊ねた。
何も、師匠に決断を下してもらおうなどとは思っていない。ただ、自分で決断するための、目安や判断材料を助言してもらえたらいいな、と思って相談している訳だ。
もっとも、師匠がこの先ずっと俺の傍に居てくれる為に、進むべき道を断定してくれようものなら、否応なくその決断に従ってしまいたいが。
「う~~~ん」
えっ、俺のその心を読んだと思しき師匠が、腕組をして眉間にシワを寄せ、何やら考えて下さっている!