第二十三話 対決
翌日、朝から俺は、モレク師匠の下へと赴く。早くもこの時間から、鵬先輩も師匠を訪ねていた。
「師匠、昨日の夕方、俺、例の怪物に遭遇しました」
「うん、知ってるよ。独楽子さんから妖術を使って連絡があったからね。あの子、これも妖術だけど、岳君のことずっと見張っているから。直ぐに助けに行ってと頼まれたけど、私には手出しできない理由があるんだ」
「それなら私に連絡してくれれば。稲富さん、大丈夫だったんですか」
「なんとかね。それで師匠、ゴールデンウィークあと二日あるんで、その間に俺にあの怪物を退治させてください」
「私も手助けくらいなら出来るけど、それでも危険だよ。昨日も命を落としかけたって?」
「やらせてください」
「う~~ン」
「私と一緒に行動するならどうでしょうか。稲富さん、何か思う所があるんでしょう」
鵬先輩は、意外と侠気に理解のある人だった。
「それに、あの犬を連れて行きます」
なんのことは無い。昨日、俺はあの犬に、一方的に助けられた。俺はあの犬と対等のパートナーでありたい。アイツ、あの犬と肩を並べて立つために、もう一度、怪物とリベンジマッチがしたいんだ。
くだらない見栄だ。
だが飼い主が、飼い犬の前で見栄を張らなくてどうする。俺のこの見栄の為に、また再び犬を危険にさらす可能性だってある。アイツはこんなことに巻き込まれたくないかも知れない。
だが、ただ楽しい時間だけを共有する間柄になってしまったら、この先、俺たちは一緒には生きて行けないと思う。はた迷惑な飼い主でごめん。
俺のこの思考を読み取った師匠は、
「仕方ないなァ」
と言って、段取りを示してくれた。
「あの怪物、巨大な猿のような姿をしていました」
あの闇が、一瞬だけ取り払われた瞬間に見たものだ。
「恐らくあれは、『狒狒』って妖怪だよ」
「ヒヒ?」
「人をさらって引き裂くのを好む妖怪。人を引き裂いたり、場合によっては食したりすることに飢えをもった獣の妖怪。特に若い女性を好む。それに執念深い性質を持っているから、昨日手傷を負わせた岳君とその犬、それに鵬君が一緒に山入りすれば、必ず襲いに来るだろうね」
「生身の俺たちでも怪物を仕留める方法は、有りますか」
「ふふ、鵬君がいれば全く問題ないよ。引き裂こうにも鵬君の腕力の方が圧倒的だし。牙や爪を突き立てられても致命傷にもならない。ハーフ吸血鬼の超回復で直ぐに治るね」
「そうですよ、稲富さん。怪物としての格は、私の方が上ですよ」
(以前からは考えられない程、生き方がポジティブになってるな)
「岳君、自分の手でとどめを刺したいって訳でも無いんでしょ。あの怪物の最後を見届けるだけで、納得してもらえないかな」
「はい、途中で手を引いたのでなく、最後までやり遂げたって事実が得られるなら、それで構いません」
この事件、鵬先輩が動けば、余裕で解決できる話だったようだ。もっともただの高校生に過ぎない俺が関わって命を拾ったことは、充分大した事らしい。
ここは自分を鵬先輩と比べて卑下するより、さすがドラキュラの娘だと、鵬先輩の凄さを認めるべきところだろう。そこで見栄を張るほど、俺の器は小さくは無い。
狒狒とやらに鵬先輩の凄さを見抜くほどの知力は無く、俺たちがアイツの根城に近づけば、昨日の獲物と新しい獲物が一緒に来たと、嬉々として襲い掛かって来るはずだ。
そういう段取りで、作戦と呼べるような策も無く、俺たちは昨晩、狒狒が逃れて行った山の中へと向かうことにした。
俺と先輩と犬、二人と一匹は、徒歩で蓮華寺池の裏山へと分け入る。蓮華寺池と言うのは昨日この犬(その時はカッコいいおねえさんの姿だったが)と散歩に行った例の池のことで、その池を囲む様に山裾が迫っている。
その池の入り口から山の中へと登って行き、尾根伝いにお姫平、富士見平、若王子古墳群がある古墳の広場と、普通にみんなが散歩やジョギングに来ている、賑わいのある遊歩道を進んでいく。
明らかにハイキングだ。本当にこれから妖怪退治をするのか。
「確かにこんな場所に、仮にも妖怪が姿を現すはずはありません。このまま人気の無い山中深くまで進みましょう」
「となると、音羽山・清〇寺へ向かう道の中ですか」
鵬先輩の先導で山道へ入ってしばらく、山の中に昨日と同じ獣の存在感。
「私から離れないでください」
昨日はコイツの移動する気配から居場所を読み取ったが、今回は今のところそういう気配は感じ取れない。どこかでジッと待ち伏せしているのか。俺たちに気づき次第、襲い掛かって来るという読みは外れた。
「焦る必要は無いよな。人を引き裂きたいって飢餓感に、ヤツはいずれ耐えられなくなる」
「ええ。ここで向こうから襲い掛かるまで待ちましょう」
犬もこの戦法の意図を理解しているらしく、真剣な眼差しで身動ぎせずに待ち構えている。問題はひとつ。何も事情を知らない、関わりの無い一般人のハイカーがここに入り込んでしまうこと。
ここはハイキングコースなのだ。山道の入り口に人除けの呪いを仕掛けて置いたが、効力は一時間のみ。あの怪物、獲物を前に一時間も我慢していられる程、利口な獣ではないはずだ。
だが、
だが、信じがたいことに、五十分間、ヤツは移動する気配を出さなかった。
「やむを得ないな。俺が囮になります。俺が先行してヤツを引き付ける。五分先を歩きます。五分後に俺の後をつけてください」
「危険過ぎますっ!」
「ヤツが警戒しているのは、恐らく鵬先輩です。昨日はいなかった獲物を、自分に対する新たな備えだと判断しているんでしょう。俺が先輩から離れれば、ヤツはもう耐えられない。これが最後の駆け引きです。ヤツの移動の気配を察知し次第、すぐに居場所を特定して駆けつけてください」
「でも…………」
「大丈夫。この犬も連れて行きます」
なんとか先輩に納得してもらい、犬と俺は山道を先行する。進むほどに獣の臭気は強まって行く。どこかにいる。しかしどこにいるのか、動いてくれなくては探り出せない。
早く向かってこい。どこだっ。
「ブワウッ」
「来たかっ」
しまった⁉ 獣が姿を現したのは、俺たちのホンの直ぐ目の前だった。ヤツは森の中では無く、ハイキングコース沿いの藪の中に潜んでいたのだ。
「近過ぎたっ‼」
後方から、鵬先輩が人の身にはあり得ない速度を突破して、駆けつけようとしているのが分かる。だが、間に合うか。
狒狒は、狡猾そうな笑みをニタニタと浮かべながら、俺の首に腕を伸ばす。昨日の引き千切られかけた記憶が、脳裏にフラッシュバックで過る。
俺はこの時、この瞬間、会心の笑みを狒狒に返す。たとえ俺の首をねじ切ろうと、その隙に必ず鵬先輩が駆けつけ、お前を退治するだろう。
俺がどうなろうと、お前はもう終わりだ。この勝負、俺の勝ちではなくとも、必ずお前は負けるんだ。その時、ゴールデンレトリバーは、俺の首をつかみ取ろうとしていた狒狒の腕に、喰らいつく。
「ギギーーッ」
自分の首の痛みを思い出し、怒りと共にもう一方の腕を犬の首へと伸ばす、妖怪狒狒。
「やめろォォォーーーっ」
狒狒は片腕に喰らいつく犬の首を、もう一方の腕で締め上げ、筋肉を膨れ上がらせるように力を籠めるや、その犬の頸骨を、
「――――――――――――――」
犬のアギトは狒狒の腕に喰らいついたままだ。狒狒はそれでもまだ、その腕で俺の首をつかみ取ろうと、俺が記憶にとどめているのは、そこまでだった。
「お、おおと……りせんぱ、い」
「稲富さん…………」
気がつくと、辺り一面、血の海だった。ところどころに散らばる、毛の混じった肉片。それは全て、あの狒狒の物だった。血の海の中心で横たわる、犬の死骸。
それはとても穏やかで綺麗な死に顔だった。戦いのさなかに命を落としたとは思えない程、落ち着いた、安らかな死に顔だった。