第二十二話 闇と犬
鬼や吸血鬼の知り合いがいるんだぞと、自分を励ましたところで、最悪、命の危険すらある状況。今すぐ大声を上げて錯乱するか、走り出して逃れたい衝動を必死に抑える。
相手が移動を始めたのが、不思議と分かった。その動きから相手の位置や距離を掴もうと、直感を研ぎ澄ませる。
捉えた。
ヤツは木の上だ。枝伝いにこちらに近づいて来ている。遅い。本当に動きが遅いのか、わざとゆっくり近づいて来ているのか。何もせずにここで待っていても、上から飛び掛かられたら対処できない。
ヤツは俺が、魔術の心得のある、善くないモノとしての相手の存在を知っている者だとは、分かっていないはず。
俺は密かに周囲の樹に紋を刻んでいく。師匠が使う魔法陣と同じ、指でなぞった後の光跡だ。後退りながら、紋を印した樹を増やしていく。
これから怪物と一介の高校生の俺が、一戦交える訳だ。歯の根が合わず、アゴがガタガタと鳴る。恐怖から逃れたくて、早く襲ってこいとすら思う。
(見えた‼)
まだ距離があるが木々の枝を透かして見えるそいつの姿は、真っ黒い闇の塊。影に被われてそう見えるのではなく、正しくそれがヤツの姿だった。もう少し、あと少しだけ近づいて来い。
向こうも俺の姿を捕らえているのか。俺が動かないのを嘲笑うように、澱みなく迫って来る。まだか。いや、今だ! ヤツは俺が紋を付けた樹の枝に手を掛けた。
「ギッ、ギギャ」
奇怪な悲鳴を上げ、ヤツの前進が止まった。のみならず、ヤツはフラフラと身を揺さぶりながら、次の枝に手をかけようとして掴み損ね、木の上の高みから、地上へ落下する。
妖怪退治伝承で語り継がれるある種のパターン。怪物にたらふく酒を呑ませ、酔いつぶれて前後不覚に陥った隙に、とどめを刺すと言う形式。
俺が密かに樹に印した紋は、その樹に触れた異形の者の五感を狂わせ惑わし、酔い潰れて酩酊状態になるのと等しい状況へと落とす、トラップだったのだ。今日、先程、師匠に習った怪物退治の法。
これでコイツに頭上から飛び掛かられる危険は脱した。それにコイツはそれ程素早く走れる怪異でも無さそうだ。それでなくても、俺の呪法で酔わされ、まともに動ける状態でも無い。
逃げるなら今だ。だが、俺は迷う。
今の状況なら俺の力だけでもこの怪物を倒せるのではないか。ここでコイツを放置して行けば、この後、何を仕出かすか分かった物では無い。
この岡の周りは、普通の民家が囲んでいるのだ。以前に師匠から習ってきた魔術を駆使すれば、まともな行動がとれなくなっているこの怪物を仕留めるくらい――――
その臆断が、まさしく失策だった。
「ギキッー」
「なにっ」
五感を狂わされながらも、怪物は俺目掛け、真っ直ぐに飛びついて来た。獣の本能を甘く見過ぎた。
その巨大な闇の塊は、俺の右腕と左足を掴み取り、信じられない怪力で、俺の体を引き裂こうとする。幻惑術もこの状態では意味をなさない。俺に逃れる術は無い。
(殺される‼)
手足を引き千切られる直前の痛みと恐怖で、絶叫を挙げそうになるその瞬間。
「バウ、ワゥ」
「ギャッ、ギャギ」
怪物は両手を離し、大きく仰け反る。怪物の首に後ろからゴールデンレトリバーが食らいついている。アイツ、山を下りたと思ったら、迂回して怪物の背後に回り込んでいたのだ。
必死でもがき、暴れ狂い、犬のアギトを振りほどこうと足掻き続ける怪物。だが、犬の牙はもう、怪物の脊椎にまで達している。本物の獣なら、もはや運動中枢も損傷しているであろうはずの致命傷だ。
しかし、この怪物は真の魑魅魍魎の類だった。
バキっという音と共に、怪物は肩の関節を外しながら腕を背後に回し、犬に掴みかかろうとする。賢明な犬は、とっさに怪物を放し距離を取る。瞬間、怪物のまとう闇が霧散した。
「キッ、ギガ」
怪物は犬も俺も顧みる事無く、思いがけず素早い速度でその場から逃れる。俺の幻惑術もすでに効力を失っているようだ。
怪物はねじ切れかけた首のまま、この岡を下り、民家も駆け抜け、北東へ再びもっと深い山の中へと逃れて行った。危険が去ったことをいち早く認めたのは、俺では無くてこの犬だった。
「クゥ~ン」
俺の下へと駆け寄り、心配そうに俺の顔をのぞき込む。
「ありがとな、本気で死ぬとこだった」
引き千切られかけた手足の関節をさすりながら、犬に礼を言う。俺の無事を喜び尻尾を振りつつ、まだ心配なのか不安の消えない顔をしているゴールデンレトリバー。
俺はその犬の首に、片手で握り続けていた首輪をかけ、リードをつなぐ。自慢のファッションと言った感じに、首輪を誇らしげに掲げる犬。
「さあ、帰るか」
「クゥワン」
俺たちは帰路についた。
帰って直ぐに夕飯の席に着く。あんなことがあったのに、もう目の前には普段通りの日常しか映らない。今日はもう、これ以上勉学に励む気力は無かった。
テレビを見る習慣も俺には無かったので、しばらくボンヤリした後、寝支度に入った。犬は俺が疲れているのを察したか、気疲れさせない配慮か、母の横でテレビを眺めている。
「さ、寝るぞ」
一声かけると一緒に俺の部屋へと上がり、昨晩と同じように俺はベッドで、犬は毛布にくるまりながら、静かに就寝した。