第二十一話 善くないモノ
三時過ぎに帰宅。少しペースを上げて、勉強に取り組む。やっぱりおねえさんはおれの隣で俺の集中して努力する姿を、まぶしそうに見つめている。
今になると、こうしている時間、一分、一秒が、掛け替えのない貴重な時間だと分かる。この何でもない日常は、決して永遠に続いてくれる訳では無いのだ。
この一分、一秒を、俺は今、全力で生きている。四時になった。犬のおねえさんとも、一旦別れる時間だ。
「大人しく待ってるんだぞ」
飼い主ぶってみた。
「はい、お待ちしてます。飼い主さま」
重大な使命を言い渡されたような返事をする、ブロンドヘアのカッコいいおねえさん。今日もまた俺は、モレク師匠の待つ白藤の滝の並び、葉梨神社へと向かう。
俺が着くと、鵬先輩と師匠の勉強は終了となった。早速いつも通り魔術の講義かと思ったら、師匠が真剣な表情で懸念を打ち明ける。
「この街に、善くないモノが入り込んでいる。早く退治しなければならないが、私は手を下せない。鵬君、頼むよ。ドラキュラの血を受け継ぐ半吸血鬼なら、後れを取ることはよもやあるまい」
いつもとは全然違う口調のモレク師匠。ただ事ではない様子。とは言え、怪物退治となれば俺は管轄外。出来るだけ関わらず巻き込まれないようにするのが関の山だろうな。
それから俺と鵬先輩は、実践的な魔術による怪物退治の法を習った。即席の護身術だ。意外にも即、実戦で使えそうな技だった。
そのかたわらで、少しばかり考えてみた。まあ、どうせ考えた事は全て師匠には読まれてしまうのだろうけど。この街に入り込んだ、師匠の言う「善くないモノ」のことだ。
その話を聞いた時、俺の脳裏にはあの犬の姿がよぎった。人間の姿に化ける、ある意味犬の怪物。俺はあの犬が人間に化けるようになったのは、昨日が初めてだったのではないかと思っている。(今でもそう思う)
それ以前、アイツはどこか別の家で飼われていた、普通のゴールデンレトリバーだったのだろうと。そして、待遇が悪くて自分から逃げ出したのではなく、恐らく元の飼い主に捨てられたのだろう。
その普通の犬が何故、俺の家に来た日から、人間の姿に化けるようになったのか。
そんなことがあるのだろうかと、師匠に訊ねたいところだが、すでにこの俺の思考を読んでいるはずのモレク師匠は、敢えて自分から俺に何も伝えようとしない。
それを思うとやはり、あえて俺の方から訊ねるのは、はばかられた。俺が帰宅すると、カッコいいおねえさんは犬の姿に戻っていた。
着ていた衣服は、俺の部屋で脱ぎ散らかされている。片付けようとしたが犬の身なので上手く行かず、かえって散らかってしまった風情だ。
犬はちょっと申し訳なさそうな目になっていた。服を片付けた後で、犬の気を晴らしてやろうと、
「散歩、また行くか?」
と誘ってみた。
「ワンッ」
威勢のいい声で鳴いたので、景気づけに連れて行ってやることにした。行き先は岡出山にしよう。
市立図書館の裏山で、、昔は遊具の多い公園だったが、今では遊具は全て取り払われ、ただの小高い岡の上の広場になっている。往復でも一時間あれば帰って来れるだろう。
散歩にはちょうどいいが、夕飯にはギリギリだ。母に少し遅れるかも知れないと、一言告げておいた。逢魔が時と呼ぶにはまだ、幾らか明るい時間帯。
とは言え物寂しい時刻ではある。国道一号線をまたぐ歩道を渡り、そこからほぼ一直線に図書館を目指す。図書館の建物の裏手から、コンクリートの階段を上がり、そこからほとんど山道。
とは言え五分と歩かない。
犬が登るには急な坂かと思ったが、むしろ舗装されたアスファルト道より歩き易そうだった。上までほんの二、三分で登り切ると、あとは落ち葉を踏みしめながら木々の間をクネクネと、高低差の無い、道とも言えない地面を歩く。
木々の隙間に目を通すと、地元一帯が見晴らせる。犬に景色を楽しむ習性は無いようだ。俺のすぐ後ろを歩数を調整しながら、遅れることも先急ぐことも無く、尻尾を振り回しながらニコニコと笑顔でついて来る。
ただ歩くだけで楽しいのか、俺と一緒だから楽しいのか。正直なところは分からないが、ペットの気持ちを自分に都合好く捉えていいのは、飼い主の特権だ。
「んっ、なんだ」
何かいる。どこで何を見かけたと言う訳では無い。この岡に今、得体の知れない何かが潜んでいる。この岡全体から、異様な気配を放つ何者かの存在を感じる。
犬が尻尾を振るのを止めた。危機意識が働いても闇雲に吠えたり威嚇したりしない賢明な犬でよかった。一刻も早く逃げた方がいい。
安全圏まで逃れた所で、鵬先輩に連絡すべきだ。そう。俺は確信した。コイツがモレク師匠の言っていた『善くないモノ』ってヤツだ。
俺たちの気配は、向こうに気づかれてしまっているだろうか。俺もこの犬も決して強い存在感を放つような、そう、コイツのような怪物なんかじゃ無い。
だが、この怪物からは獣の臭いがする。獣の嗅覚ってヤツで、俺たちの気配を嗅ぎ取られちまうかもしれない。
この岡のどこかにヤツはいる。だがハッキリと何処かとまでは探れない。むしろ異様な存在感が濃密すぎて、たとえ今、俺たちの真後ろに居たとしても、気づけないだろう。
危険だ。
一か八か背を向けて、今来た道をそのままたどり逃げるか。俺はまず犬の首輪を外し、リードを巻き取った。縄を引いたまま逃れられる状況じゃない。言葉が通じると信じて告げる。
「おまえだけ、先に逃げろ。後から追い掛ける」
コイツがホントに文字通り善くないモノなら、犬より人間を襲いたがるだろう。それに山を下りたから安全と言えるかどうかも分からない。どこまで追って来るか、目途がつかない相手だ。
せめて鼻先に一発かまして、正体も探り当ててから退こう。身の安全のためには、そうするしかない。
利口な犬だ。真剣な顔をして、いま来た道をたどって帰って行く。日没まであと一時間。日が沈み、宵闇が迫れば勝ち目は無くなる。
それ以前にただの高校生に過ぎない俺が、この恐怖と緊張感にいつまで耐えられるか。