第一話 白藤の滝
「誰だっ」
苔むした岩場。新緑の青葉を茂らせた古木と、冬季とは異なる明るさを含んだ、春風のからみ合う谷窪。正面には圧巻の岩壁。そこから流れ落ちる滝水と、その清流の奏でるせせらぎ。
そんな場所で出会い、立ち尽くす、俺と少女
同世代の女子達から「ちょっとどうかなあ」と思われている事には仕方なしとするが、同年代の同性からも「ちょっとどうかなあ」と思われている事には納得がいかない、多感な高校二年生の俺が、今日、この場所を訪れたのには理由が無い。
新年度の始業日当日の放課後、自宅から自転車で三十分、さらに徒歩十五分でやって来た、この『白藤の滝』
春とは言え、暖かすぎる日差しを浴び、春とは思えぬ涼し過ぎる空気の中を、苦手で仕方のない退屈な時間を消化する為に、息を切らせながらここまで来たのだ。(退屈な時間を消化する為、というのは、理由として無いに等しい)
友人があまりいない(つまり全くいない)俺が、放課後、することも無い時、ここを訪れるのはよくある事だった。(ちなみに、放課後することが無い時(つまりほぼ毎日)で、ここに来ない時は何をしているというと、勉強である)
むしろ、俺みたいなヤツに友人が大勢いて、幅広い交友関係を展開していたり、などという状態であれば、それこそ気持ちが悪い。
ここに来るまで知り合いに会う事も無く、手頃な距離でもあり、かつ平日のこの時間帯に来れば誰もいない。実に都合のいい場所で、おまけに他にない程の絶景。
ありがたい場所だ。
来る理由が無いと言いつつ、動機もなく人間が行動しだすというホラーな話でも無いのだが、おおよそここまでの説明で、退屈・友人がいない・することも無い・この場所は絶景、と、それが理由じゃないのか、的な事が語られているが、それらはどれも、俺がここを訪れた本当の動機では無い。
外的な理由は無くとも、内的な動機なら有るってことだ。
俺の中に若さゆえの、俺を駆り立てる衝動が湧き起り、自宅の中でジッと勉強などしていられないのだ。分かるだろう。持て余している自分の中のエネルギーが、自分の未来に対する期待と不安へと解放を求めて、駆け出したいような衝動に駆られる時間。
でも今時、自分が社会に出てから、世の中を覆してやろうだの、功を遂げて、頂点に君臨してやろうとか、自分のエネルギーを起爆させ、後世にその名を刻むような、何事かを成し遂げようなんて、現実にあり得そうにない野望をたぎらせる超上昇志向…………
…………恥ずかし過ぎる。
自身の未来に期待するなら、倒産の可能性の無い企業に正社員として入社し、定年まで働こうというのが、限界かつ現実的な野望だろう。
高校での成績こそ悪くないが、取り立てて特別な才能の無い俺が、それでも青春真っ盛りの若さゆえの野心に駆られて、このつまらない現実の世の中を、ぶっ壊したいような衝動を持て余した結果、心の中で雄たけびを上げつつ、愛用自転車「チ〇リ・ブートレッグ〇イヤルラッツ」を駆り立て、人知れずこの滝の前で気勢を燃やしているのだった。
俺の住むこの街は、どこまでも灰色だった。
日本中どこへ行っても同じような駅前通り。
どこの町にもある程度の最低限の娯楽施設。
華やかさも無いくせにくすみ汚れた繁華街。
街を離れれば植林の杉と檜しかない山間部。
都会と言える程の発展も無ければ、田舎と言える程の豊かな自然すら無い街。だから俺は、ここでは無いどこかを夢見ている。
遠くに、もっとずっと遠くに行きたい。都会に住みたい訳でも、豊かな自然に憧れている訳でも無いが、この自分を駆り立てる衝動、焦燥感を充たせる場所を求めてる。
自分自身に、過度な期待を懐いているのでは無いのは、いま、説明したとおりだ。特別な才能も、何かに打ち込めるほどの、情熱を捧げられる程の興味の対象も無く、実際有ったとしても、努力するほどの根性や集中力も無い自分。
それでも、平凡な俺でも、自分に最も適した場所でなら、何か有意義な人生が送れるんじゃあないか、と思うことで、自分を駆り立てる焦燥感をごまかしていた。
しかし、結局、平凡な俺にはこの平凡な街が、一番似合っているのではないか。その諦めに縛られてもいる。これは俺にとって、ほとんど呪いだ
「ウオおおおおおおーーーーーー」
思わず叫んだ。
「ふーーん」
「誰だっ」
滝の前で俺は振り返る。誰もいないのを確認してから叫んだはずなのに、誰かに聞かれていたのだ。そんな場所で出会い、立ち尽くす俺と少女。
「ロマンティストだねぇ」
平然とそんな事をつぶやく少女。まるで、俺が何故叫んだか、見抜いているような態度だった。その態度は逆に俺を安心させた。
おかしな理由で叫んでいたと、誤解されずに済んだと思ったからだ。無論、俺が叫んでいた理由が、理解されたという保証は無い。
いきなり滝に向かって吠えるような人物に対し、微塵も不審を懐いて無さそうな態度でいるのは、むしろ誤解を受けている可能性を考えるべきだろう。
「てへっ」とでも言って、トットと立ち去ろうか。
「え? この私を前にしてその反応は無いでしょう」
うん、考えている事が読まれているな。
「理解が速くて助かるよ。そうだねえ、君のことが気に入った。私は君を選ぶよ」
何やら、妙なのに気に入られたらしい。俺は、改めて目の前の少女を観察する。美少女だ。あか抜けた都会的な容姿ながら、汚れた都会の喧騒より清浄な自然の方が似合いそうな、小柄な、妖精の様な少女。
色素の薄い明るい色の、クセのある柔らかそうな髪。鉱石のように、虹色に光る大きな瞳。象牙の様な肌。小柄だが、長く細く、しなやかな手足。
あり得ない水準の美少女と言えよう。
「てへっ、もっと言って、もっと言って」
俺はまだ「誰だっ」としか、この少女に声を掛けていないのだが、会話は成立していると考えていいのだろうか。
「それで、君、誰?」
俺が改めて訊ねると、少女は気恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに、
「モレクだ」と答えた。
モレク? 名前か? どんな字を当てるんだろう。
「MOLECHだ」
日本人じゃないんだ。何人なんだ?
「アンモン人だ」
知らないな。どの辺りの国だろ?
「アジアの西の果てだ」
そりゃずい分遠いな。うん、考えていることが全て通じている。