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怪我の功名

 はっきり言って、僕は身体を動かすことが苦手だ。

 というより能力が低いと言うべきだろう。大昔、前田さまに適性がないと言われたこともある。

 それでも僕は熊の一撃をまともには喰らわなかった。人間、死が迫るとこれほどまでに俊敏な動きができるのだと、自分でも感心するほどだった。

 しかしながら、日頃の運動不足のつけが回ってしまったのだろう。ギリギリ避けることができなかったのだ。


 熊の爪が、僕の顔を――抉った。


 激痛が右頬だけではなく、顔全体に広がる。焼きごてを当てられたみたいに熱く、それでいて、氷柱に刺されたように冷たかった。


「――雲之介さん!」


 雪之丞の大声。初めて聞く。それしか認識できなかった――


「雲之介さん、しっかりしてください!」


 意識が朦朧としている。見ると子飼いたちが僕を覗き込んでいる。

 子どもらしく泣いていた。市松なんかは鼻水を垂らしている。


「……熊は?」

「大丈夫! 雪之丞が倒した! だからしっかりしてくれ!」


 虎之助が僕の手を握りながら言う。

 桂松と佐吉が居ない……?


「桂松は? 佐吉は?」

「二人は助けを呼びに行った!」

「ああ、良かった……」


 安心して気が抜けると、激痛が走った。


「痛いな……」

「ええと。どうしたらいいんですか!?」

「万福丸! おろおろするな!」


 虎之助が甲高い声で叱った。余程動揺しているのだろう。

 僕は「虎之助……」と呼びかける。


「な、なんだ? 何かしたほうが――」

「君たちが無事で、良かった」


 子飼いたちは驚いたように各々顔を見合わせた。


「怪我を負った子は、いないのなら、それでいい……」

「な、なんでだよう……」


 大泣きしている市松が僕に問いかけた。


「俺たちが悪いじゃないか。雲之介さんの言うこと、聞かないで、こんなことに――」

「それでも、生きている」


 笑おうとしたけど、痛くてできなかった。


「それに、僕が頼りないから、講義を聞かなかったんだろう?」

「――っ!」

「だったら、こうなったのも、僕の責任だ」


 握られてないほうの手で、市松の頭に触れる。


「ごめんな。怖い思いをさせて」

「なんでだよう……謝るのは、俺たちの――」


 市松の言葉を最後まで聞く前に、僕の意識は無くなった――




「とうさまー。おきてー」

「だめだよかすみ。とうさまはねているんだから」


 かすみと晴太郎の声で、僕は目覚めた。

 おそらく僕の屋敷だ。見知った天井だったから分かる。

 お昼過ぎなんだろう。辺りはすっかり明るい。


「晴太郎……かすみ……志乃を呼んでくれ」

「あ、とうさまおきた!」


 かすみが嬉しそうに僕を見た。

 起き上がって自分の顔に包帯が巻かれていることに気づく。


「とうさま! げんきになった!?」

「いや……なってないから、かすみ、僕の上に乗らないでくれ」


 はしゃぐかすみの頭を撫でながら「志乃を呼んでくれ」と晴太郎に言う。


「うん。わかった。かあさま、とうさまがおきたー」


 晴太郎がそれほど大きくない声で呼んだのにも関わらず、騒がしくこちらに近づく音がする。


「雲之介さん! ああ、良かった! ようやく起きたんだな!」


 雪之丞が息を切らしながら僕の傍らに近づき、膝を立てた。

 その後、虎之助と市松、佐吉も部屋に中に入ってきた。


「雲之介さん! もう大丈夫なのか!?」

「顔色は……包帯で分かりませんね……」

「良かった……本当に良かった……」


 子飼いたちは僕の心配をしていたらしい。全員、目の下に隈ができていた。

 遅れて桂松と万福丸が志乃を連れてやってきた。

 よく分からないけど、志乃は怒っていた。


「……雲之介。いったい何回私を心配させるわけ?」

「……ごめんなさい」


 素直に謝ると「もういいわよ」と素っ気無く言った。


「子飼いたちから事情を聞いたわ。意識を失う前のこともね」

「……うん」

「なんでこの子たちを怒らないのよ? そこも怒っているんだからね」


 僕は「そういえば怒ってなかったなあ」と呟く。


「その前に、どういう経緯で熊退治をしようとなったんだ?」

「山に出てくる熊を退治できたら、雲之介さんの講義に出なくてもいいだろうって……詳しくは覚えてない」


 雪之丞が皆を代表して言った。他の子飼いは俯いて何も言わない。


「あなたたちねえ! 子どもが熊を退治できるわけないでしょう! 雲之介をこんな目にあわせて! どう責任取るつもりなの!」


 志乃が物凄く怒っている。晴太郎とかすみが、僕に身体に寄り添った。

 子飼いたちは誰も何も言わなかった。本当に反省しているのだろう。


「一生残る傷を、雲之介は受けたのよ! どう思うのよ!」

「えっ? 一生残るのか?」

「当たり前よ! 縫ったけど、三本の傷は消えないわ!」


 それを聞いた子飼いたちは、まるで磔を言い渡されたように顔を青ざめた。


「そうか……じゃあ皆。どうすればいいと思う?」


 志乃を制して、僕は子飼いたちに訊ねた

 口を開いたのは、虎之助だった。


「……長浜城から出て行く。故郷に帰るよ」

「……そうじゃないなあ」


 次に言ったのは、佐吉だった。


「武士ではなく、別の職に就いて、一生かけて、償います」

「そうでもないなあ」


 すると市松が泣きながら言った。


「じゃ、じゃあ。切腹すればいいのか……?」


 他の子飼いは震えていたけど、誰も反対しなかった。

 僕は溜息を吐いた。


「それでもない」

「じゃあ、どうすればいいんですか!」


 桂松が追い詰められたように喚いた。


「簡単だよ。悪いことしたら謝るのが筋だろう?」


 僕の言葉に全員が唖然とした。


「それと二度と危険なことはしないと約束してほしい。いいね?」

「そ、それだけで――」

「当たり前だよ。子どもを追い出すとか、一生償わせるとか。ましてや死なせるとか。そういうのは嫌なんだよ」


 自分でも甘いと思うけど、そこが落としどころだろう。


「よくぞ言った雲之介! おぬしの優しさは天井知らずだな!」


 襖を開けてやってきたのは、秀吉だった。隣には正勝も居た。


「本来なら追放とすべきところだが、雲之介に免じて寛大な処置で済まそう!」

「秀吉……いつから居たんだ?」


 呆れる僕に対して志乃が「ずっと居たわよ」と耳打ちした。


「子飼いたちと一緒の部屋に居たらしいわ。一言も口を開かずにね」

「それはきついな……」


 そして秀吉は「しかし不問にするわけにはいかんな」と笑った。

 でも目は笑っていなかった。


「正勝。雲之介の代わりに説教してやれ」

「おう。もちろんだ」


 ぎろりと子飼いたちを睨みつける正勝。全員震えている。


「兄弟は優しいからよ。あれだけで済ませたが、俺は甘くねえからな」


 うわあ。ご愁傷さまだな。


「まずはきちっと兄弟に詫び入れろ!」


 子飼いたちは「はい!」と一斉に頷いて、背筋を正して、僕に謝った。


「本当に、すみませんでした!」


 これで万事解決……とまではいかなかった。

 僕はその後、熱が出てしまい、仕事ができなくなった。

 志乃が施薬院で習った熱さましを飲み続けて、ようやく元気になったのは八日後だった。

 それと逆に嬉しいことがあった。


「雲之介さん。俺は今回の恩を忘れない」


 雪之丞が枕元で僕に誓ってくれたのだ。


「もう二度と、あなたに怪我をさせない。戦場においても、平時においても。絶対にあなたを守る」

「はは。ありがたいな」


 他の子飼いも僕に従うようになったし、怪我の功名とはこのことかもしれない。




 熱が下がり、仕事ができるようになって、数ヶ月後。

 秀吉が僕たちを評定の間に呼び出した。


「今日呼び出したのは他でもない。実は岐阜の大殿から書状が届いた」


 大殿から? なんだろうか。


「武田信玄が、上洛の動きを見せている」


 あの武田信玄が?


「来年の春、徳川家に攻め込むようだ」

「なんだと? おいおい、どうするんだ?」


 正勝の焦りはよく分かる。

 最強と呼ばれた、あの武田信玄の軍団に勝てるのだろうか?


「秀長、雲之介。おぬしたちに命ずる」


 このとき、秀吉は予想もできなかったことを言った。


「本願寺の味方をしている、雑賀衆をこちらに引き込め。奴らの力が必要だ」

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