夕渚美園 と 五月病 と 思い出したくない過去
「――――なぁ、孝司もそう思うだろ?」
「あ、悪いな。何の話してたっけ」
「お前ほんとにどうしちゃったんだよ。二日連続考え事か?また昨日の夢のこと考えてんのか?」
弁当をつつきながら尾村が問いただしてきた。
「まあ、そんなところだ」
弁当箱の裏蓋にくっついているご飯粒までも、箸で一つ一つ丁寧に取り除き、徹底的なクリンリネスを完遂させた立也までもがこの話題に乗ってきた。
「どんな夢を見たんだ?」
詳細を語ったって信じてくれるわけないので、
「空飛ぶ豚の夢だ」
適当に答えておいた。
「そうか。豚が空を飛んだら引き締まった肉質の豚肉が食べられなくなってしまうな。って、いかん、いかんぞ、それはいかん! その豚を撃ち落とそう!」
おフロ研究会に入ってからこいつちょっとおかしくなっちまったんじゃないか?
原因はハイってところだろう。
「斗真はどんな夢見たんだよ?」
尾村にふられた斗真は、あいかわらずの購買産焼きそばパンを頬張りながら、ダルそーに答えた。
「いちいち覚えてねーよ」
ま、そんなもんかもな。前日見た夢を忘れてるなんてことは多々あるわけで。
いや、待てよ。もしかしてこのような現象は全てユメによってもたらされているのだろうか。もしそうなのだとしたら、どんだけ食いしん坊なんだよあいつは。
「俺、ちょっと四組行ってくる」
数日前に礼二が、「この漫画マジ面白いから読んでみろよ。マジ、一回でいいから騙されたと思って読んでみろよ」と、マジマジうるさく迫ってきたもんだから、しょうがなくマジ騙されたと思って読んでみたところ、意外にも本当にマジ面白かった。
そんなわけで、予定返却日を二日ほど経過してしまったこの漫画を、そろそろ返してやらんといかんだろうということで、俺は昼休みの空き時間を利用して一年四組へと足を運ぶことにしたのだ。
「よお、礼二。漫画返しに来たぜ」
礼二に漫画を返すや否や、
「…………」
俺の関心は礼二の存在を飛び越えた。
「おーい、孝司~。どうしたんだ~?」
礼二の声なんてどこ吹く風だった。
俺は家族旅行でスキーに行ったことがあるのだが、今まさに、ここがあたかも早朝のゲレンデかのように錯覚してしまった。ゲレンデというものは真っ白な雪で一面覆われている。深々と降りつもる雪はすべての音を吸収してしまうのだ。それゆえ、凛とした空気が終わりのない琴線のようにどこまでも張り詰めている。
季節外れの感覚に浸りながらも、俺の焦点は窓際で一人静かに席につき、窓の外を眺めている少女に向けられていた。少女は、冬の空気のように澄んでいて、張り詰めた琴線のように危うく見えたから。この教室に雪は降っていないし、かける言葉も見つからないし、返ってくる言葉も期待できない。けれど、それでも、俺の目には彼女しか映っていなかった。
窓から入り込んでくる風に泳ぐ、淡く優しげなブラウンの髪に、言葉を奪われた。
半分しか覗けない、透き通るようにきめ細やかな少女の横顔に、視線を奪われた。
木漏れ日のような太陽の光を一身に浴びて輝く少女の存在そのものに、心を奪われた。
体に電気が走るようだ、なんて比喩を俺は信じたことがない。信じていないというよりも、自分には関係のないことだと決めつけていたのかもしれない。しかしこの瞬間、俺の体にはビリビリッと電気が走った。
これが恋なのかと問われれば、あいにく俺ははっきりした答えを返すことができない。なにせ、それぐらい曖昧な感覚だったし経験したことのない感覚だったからな。
運命というものを信じたがる人が世の中にはたくさんいるそうなのだが、はたして運命というものは本当に存在しているのだろうか。もし存在しているとしたなら、それは誰かが用意してくれた偶然なのだろうか。その誰かがこの世界を超越した神様とか言う存在だったなら――。
俺の視線を掴んで離さないこの少女の名前は、
―――――夕渚美園―――――
俺はこの出会いを与えてくれた神様に感謝するべきなのだろうか。
それとも、恨むべきなのだろうか。
始まりの始まりを告げているのか、終わりの始まりを告げているのか。授業開始のチャイムの音が、いつも通りに鳴いていた。
○
新しく始まった環境にだんだんと疲れてきて、あぁ~学校なんて行きたくねえ~、なんて思ってき始めるのが五月病というやつだ。今はまさにその五月であり、教室の中には「俺、五月病だ~」なんて言いながらも、毎日ちゃんと学校に来ているやつらで溢れ返っている。
そんな五月病とはなぜだか無縁なこの俺も、部室に行くのだけは何だか面倒になりつつあった。その理由は五月病とは全く正反対で、例えてみるならオセロの裏と表だ。
ごめん、わかりにくいな。
要するに、毎日足を運んでいるせいで新鮮味がなくなってきたのだ。慣れ過ぎってのもよくないらしい。
それでもなぜだか俺の足が自然と部室に向かっているのは、毎日の習慣の賜物でもあるわけで、人間なにかと矛盾しているように感じるのは俺だけだろうか。
そんなどーでもいいような思案にふけりつつ廊下を歩いていると、
「よう、孝司」
礼二と遭遇した。
「昼休みのお前おかしかったな。アホ面さげてボーっと突っ立ってんだもんな。あんな間抜け面なかなかできないぜ」
これでもかっ!というくらい礼二は笑い転げていた。
「あの時お前何考えてたんだよ?」
背中をバンバン叩いてくるので、「痛てえな」なんて言いつつ礼二の手を静止させ、ちょっとだけ真面目な顔を作って聞いてみた。
「お前のクラスにいたあの窓際の女子、なんて言う名前なんだ?」
俺が演出して見せた真剣な声色というのは全く効果がないらしく、礼二はいつものような軽い感じで俺の質問に答えていた。
「どの女の子だよ?」
「窓際で静かに座ってたあの」
「窓際の女子は三人とも静かだからわかんねえよ」
「わかるだろ。あのサラサラヘアーの女の子だよ」
「三人ともサラサラだぜ」
ダメだこりゃ。と諦めかけていると、
「もしかして、あんな感じの子か?」
そう言って礼二は前方を指差した。
『おフロ研究会』と書かれてだらしなくぶら下がっているかまぼこ板の前に二人の少女が立っていた。一人は礼二と同じクラスの長沢だ。
そして、礼二の指先は長沢ではなく、彼女の友達であろうもう一人の女子に向けられていた。
「そうそう。あんな感じの……」
何気なく頷いてから俺は気付いた。
「礼二! あの子だよ!」
取り乱してしまった俺は、思わず大声を出していたので、長沢だけでなく少女もビクッと体を飛びあがらせて、俺たちの方を見ている。
「あっ、長滝くんと永峰くん、こんにちは」
長沢は律儀にも礼二と俺に向かってお辞儀をしてくれた。
「あ、あ、あのう」
もう一人の少女は追い詰められた子猫のように一通りあたふたした後、
「こ、こ、こ、こんにちは」
淡い茶色の髪を勢いよく揺らしながら、こちらもまたご丁寧にあいさつをしてくれた。
「こ、こんにちは」
「よう。ホームルームぶり」
思わぬ形で俺はこの少女とのコンタクトを果たしたのだった。
○
「一年四組、夕渚美園です。よろしくお願いします」
少女は、今度は研究会のメンバー全員に向かってあいさつをしていた。
「うむ。誇らしいことだ。我ら『おフロ研究会』は、もはや飛ぶ鳥を落とす勢いにある。このまま行けば、部活として申請できるやもしれん。みなのもの、天下統一の日は近いぞ!」
なんちゅう大げさな人なんだこの先輩は。
「獏先輩! 部活昇進の暁にはみんなで焼き豚パーティーをしましょう! 幹事は僕がやらせていただきます!」
豚限定かよ……。
俺は、ハイや立也のように脳みそを突き破るようなマックステンションにはならなかったものの、かなり心躍る気持ちでいた。なにせ、これぞ青春! と言ってもいいくらいの衝動を頭から浴びせられ、その余韻に浸ったまま、世界一周旅行を成功させた熱気球並に大きな妄想を膨らませるといった、健全な男子なら当然行きつくであろうルーティンワークを一通りこなす前に、その原因たる少女の名前を知り、今こうして会話が成立しているのである。
「俺は一年七組、永峰孝司って言います。よろしく」
「よろしくです」
いちいちお辞儀を返してくれるあたり、もう、たまりません。
しかしまあ、こんないい感じの余韻に長々と浸らせてくれないのがこの部活の日常でもありまして。
「タカジイの名前はね、呼びにくいから何か呼びやすいあだ名を考えて、そっちの方で呼んだ方がいいわよ」
俺の名前のどの辺が呼びにくいのか説明してほしいもんだね。
「あちしも、チイって呼んでるよ」
あたかもみんな俺をあだ名で呼んでいるかのような言い方はやめてくれ。わけのわからんあだ名を使っているのはお前らぐらいなもんだ。
「そうですかぁ」
「そうよ」
「そうそう」
頼む~誰か止めてくれ~。なんて心のうちで叫んでみたところで誰かが止めてくれるはずもないので、自ら悪の陰謀を阻止しようと試みたのだが、
「う~ん、えーっと、…………。あっ、あぁ……でもなぁ~」
俺のあだ名を決めかねて悩んでいる様子が天使のように可愛らしかったので、ついつい見とれてしまった。
俺が小悪魔二人の陰謀阻止をためらっていると、
「うん。決まりました」
決まってしまった。
「私、永峰くんのこと、ユウユウって呼びます」
天使の笑顔はそりゃあもう極上スイーツなわけですが。
「何でその呼び方なんだよ!」
緊張というかドキドキというか、そういう類のものがきれいさっぱり飛んでいった。
「だって、呼びやすいあだ名でいいって言ったから」
「俺の名前のどこを探せばユウユウってあだ名になるんだ」
「それは……」
天使のうるんだ瞳に見つめられた俺は、一瞬ドキッとしてしまったのだが、
「私の小学校の頃のあだ名です」
「…………」
ふざけてるように聞こえたかもしれないが、実際に目の前でこいつの表情を見ている俺の口から言わせてもらうと、夕渚美園は本気だった。真面目に考えて考え抜いた結果が、「ユウユウ」だったのだ。
「お前、天然か?」
「私、全然天然じゃないです」
えてして本物の天然というものは、自分が天然だということにミジンコ程も気付いてない奴らのことを言うのであって、そういう判断基準を持ち出せば、こいつは間違いなく天然と呼べる部類の人間だった。
「やったね、タカジイ」
「よかったな、チイ」
全然よかないよ。この部室の中で俺のことを普通に呼んでくれる女子は長沢だけになってしまった。
あ、雪女もいたんだっけ。
この後はいつものごとくやかましく遊び呆けていたわけだが、部活終了の時間まであと十五分というところで、夕渚への歓迎の意もかねて、もはや恒例になりつつある全員参加の婆抜き大会をした。
全員と言っても若干一名は周りの空気もどこ吹く風と言った様子で、涼しい顔して本を読みふけっているわけだが、これがここの部室での日常風景であって、彼女が夕渚を歓迎していないという意味ではないので、そこんとこを決して誤解しないように、俺と長沢で夕渚によ~く言って聞かせておいた。
ところで婆抜きの結果はどうだったかと言えば、なぜだかまたしても俺がドベだった。俺の知らないうちにみんなしてババに目印とか傷をつけてるんじゃないかと思って、一人片付けている最中に注意深くババのカードを見つめていたのだが、目印やら傷といったものは全く発見されなかった。単純に俺が勝利の女神に嫌われてるだけってことみたいだ。
日頃の行いはそんなに悪くないと思うんだがな。
「はあ」なんてため息をつきつつ廊下に出てみると、ユメが一人で待っていてくれた。
「あちしの言ってること信じてくれたよね?」
わざわざその確認のために待っていたらしい。
「まあな。信じるしかないだろ。本当に夢の中に現れたんだから」
俺の言葉を聞き終えると、ユメは嬉しそうににんまりと笑って下駄箱の方にぴょこぴょこ走り去ってしまった。
しかし、ユメが廊下の角を曲がるや否や、
「痛って!」
「あいちちち」
という二つの声が聞こえてきた。慌てて俺が駆け寄ると、
「おお。孝司」
痛そうに腹のあたりをさすりながら、斗真が立っていた。
「大丈夫か?」
両者を見比べた結果、ユメの身長の低さもあいまって、ユメの頭がちょうど斗真のみぞおち辺りに入ったらしく、二人の体格差とは反比例するように斗真の方が重傷だった。
「何とかな」
顔を歪ませているあたり、相当痛いらしい。
どうやら斗真は教室に忘れ物か何かを取りに行くらしく、鞄などは持っていない。
「ユメも大丈夫か?」
額をこすっているユメにも気を遣ってやるのだが、
「あちしはだいじょおぶだよ」
ケロッとした顔で返してきた。
「なんだ、孝司の知り合いか。ぶつかって悪かったな」
「だいじょおぶだから気にするな。あちしも悪かった」
斗真はそのまま教室の方に行こうとしたのだが、一度俺たちの横を通り過ぎてから、機関車がバックするような感じで再び俺たちの前に現れた。
「孝司、そのチビッ子はお前の彼女かなんかか?」
確かに放課後の校舎を男女二人で歩いていたらそう見えなくもないわけで。
「違う。こいつは部活が同じなんだよ。部活って言っても研究会だけどな」
「あの『おフロ研究会』とか言うやつか」
「その通り。でもって、こいつは一年二組の大空ユメ」
「はじめまして」
ユメはペコリとお辞儀をした。
「俺は孝司と同じクラスの栗木斗真。よろしくな」
斗真という名前に反応したユメは、
「チイ、こいつが斗真か。立也と話してるとよく名前が出てくる奴だな。本物は初めて見たぞ」
天然記念物を見ているかのような目で斗真を見ていた。
しかし、斗真も俺の方に奇妙なまなざしを送っている。
「お前、チイって呼ばれてるのか?」
やっぱりそこか……。
「ま、まあな」
「ご愁傷様」
「お、おう」
斗真は俺を憐みのまなざしで一瞥した後、ユメが切り出した話題に乗っていた。
「そう言えば立也も『おフロ研究会』だっけか? もの好きだねえ、あいつも」
斗真は薄らと笑っていた。斗真にしては珍しい表情のように思う。
せっかく立也の名前が出たので、最近の立也の部室でのおかしな言動なんかを話してやった。めずらしく食い付きのいい斗真に、俺の方もなんだか夢中になってしまい、気分がよくなってきたところで思わずユメの話までしてしまった。
「こいつ、夢食うんだってよ」
幸い、斗真は全く信じる様子もなくおどけた感じで、
「グルメなんだな」
なんて返してきた。
「あちしは本当に夢食うんだぞ!」
と、いつかの様子そのままにユメはプンプン怒っていたが、俺にとっては、その帰り際にふと漏らした斗真の言葉の方がなんだか印象的だった。
夕日に赤らんだ廊下のどこを見るでもなく、自分の瞳を覗きこんでいるかのようなぼんやりとした目でつぶやいた一言が。
「あんま思い出したくない過去ってやつも、食ってくれる奴がいたらいいんだけどな」
初めて見る、斗真の悲しそうな顔だった。