ユメ と チイ と 広い世界
「どうしたんだ?珍しく考え込んじゃって」
問いかけてきたのは尾村だ。
「俺が考え事してちゃ悪いのかよ」
「悪くはないけどさ、珍しいじゃん」
そう、珍しく俺は考え事をしていたのだ。
「何の考え事してるんだ?なあ、教えろよ」
尾村のことだからどうせ、俺が恋煩いにでも落ち入ってると考えたのだろう。
残念ながら尾村の期待には応えてあげられそうにない。
「昨日見た夢がな、思い出せそうで思い出せないんだよ」
へんてこな夢だったことは覚えているのだが、内容が全く思い出せない。なぜ思い出そうとしているのかと問われれば、それこそ全く解答を持ち合わせていないのだが、なぜだか昨日の夢が気になって「う~ん」と唸っているのだった。思い出そうとすれば思い出そうとするだけ記憶が逃げていくような気がして、なんとももどかしい。
「なんだよ。エロイ夢でも見てたんじゃねえの?俺なんて、水の中で溺れてる夢見ちゃってさ。飛び起きて、漏らしてないかを一番に確認したぜ。もちろんセーフだった」
どうでもいいような尾村の夢話をそれとなく聞いていた俺の耳が、あるワードにヒットした。
「水……」
ぼんやりとだが、風に揺れる髪だけが浮かんできた。
「水色の髪」
だが、ここまでが限界だった。
「んじゃ、俺はハンドに行ってくるから。また明日」
「おう。じゃあな」
尾村と別れ、部室にでも行こうかなと思い、でもその前にトイレに行っておこう、なんて思って廊下に出てみると、
「あっ」
俺の視界が一人の少女を捉え、そして、俺の頭の中でぼんやりとしていたものが実像を結んだ。
「ちょっと!」
跳ねるように通り過ぎていった少女は俺の声など聞こえていないかのような仕草で遠ざかって行ってしまう。
「だから待ってくれって!」
思わず追いかけてしまった俺が、音符のように弾む少女の肩を掴むと、
「なに?」
昨日の夢の中と同じ顔がそこにあった。俺の記憶が正しければ初対面のはずだ。しかし、たとえ夢の中といえども、全く見たこともない人が現れるほど機知に富んでいるはずもなく、
「どっかで会ったことありましたっけ?」
彼女に答えを求めてみると、
「あちしのこと覚えてるの?」
やっぱりどこかで会ったことがあるようだ。
「どこでお会いしましたっけ?」
すれ違っただけかもしれないが、一応、聞いてみる。
「うわぁ、初めてのケースだよ、これは」
少女はリスのように目をパチクリさせていた。
「体験入部が同じだったとか?いや、なわけないな……」
自分でも何でこんなに必死になっているのかわからなかった。
「びっくりだなぁ」
少女に俺の声は届いていないのだろうか。自分の声帯を疑いたくなるくらい会話が成立していない。ほんと、俺もびっくりですよ。
俺の頭は未だ昨日の夢全部を思い出すことはできていないのだが、この少女とあの言葉だけは記憶を取り戻せていた。
俺は記憶の全てを少女にぶつけてみた。もしかしたら、この言葉が気になったがゆえに俺はこんなにも必死になっているのかもしれなかった。
「君は、その……、夢を食べるのかい?」
正常な人間にこの質問をしたのなら、一秒とかからずその人は俺のことを、どこか頭のネジが外れてしまったかわいそうな人だと思うに違いない。
俺が、「大丈夫ですか?」という同情のこもった返答に怯えながら、次の言葉を待っていると、
「うん」
まぎれもない肯定の返事が返ってきた。
「あちしは夢食うよ」
現実世界なのか確かめるために自分の頬をつねってみて、痛いという感覚が確認できると、なんだか急に冷静な判断ができるようになっていた。一時は浴びせられることを恐れていた言葉を、今度は自分の方から口走っていた。
「お前大丈夫か?」
「あちしはだいじょおぶだよ」
「いやいや、お前、夢食うんだろ?」
「うん。あちし、夢食うよ」
何かおかしなことでも言いましたか?みたいな表情で俺を見上げていたので、
「よし、とりあえず保健室に行こう」
「なんで?」
「お前、風邪でも引いてるだろ」
「ううん。あちしはだいじょおぶだよ」
少女は元気なところをアピールするためか、ピョンピョン跳ね回って見せるのだが……。
そんな光景が、部活に向かおうとする生徒で溢れ返った廊下にマッチするはずもなく、俺と少女には好奇の視線が向けられていた。
それに気付いた俺は慌てて、
「お前、何か部活に入ってるか?」
「入ってないよ」
「じゃあ、俺についてこい」
「なんで?ん、でも、いいよ」
ぴょこぴょこと俺の後をついてくる少女を引連れて、俺はいつもの場所へと足を運んだ。
○
「いいよ。あちしも入会する」
「よーし。我ら『おフロ研究会』もかなり規模を増してきたな。このまま行くと、全校生徒入会なんていうのも夢ではないかもしれん」
「そうですね、獏先輩。僕たちの快進撃は止まりませんよ」
「おお、立也君もそう思うかね。いざゆかん、我らの未来は止まらない!」
窓際から真っ青な空を指差しつつ語り合う二人には全くついていけないのだが、今日も『おフロ研究会』の部室では各々好き勝手に持ってきたゲームでなんとなく遊んでいる暇人たちの優雅な一時が流れているのだった。
「孝司、オセロやろうぜ」
「いや、ちょっと待ってくれ」
礼二からの誘いを右手で制してから、廊下では聞けなかった話題を少女にふってみる。
もちろん、少女にしか聞こえないくらいの小声で。
「百歩譲ってお前が夢を食べられるとしてもだな、いったいどうやって夢なんぞを食うんだ?」
「ん~っとね、こんな風に――」
目の前に鶏の照り焼きがあるかのような仕草で、少女は大口を開いた。自然と大きな目も細まって、ちょっとした間抜けヅラになっている。
「ガァブッ、って食うの」
当たり前かのように言っているあたり、相当きているのだろうか。
そのまま無垢な瞳を浴びせてきたので、俺は何だか悪いことをしているような気分になってしまった。
と、そこへ、絶妙なタイミングで時音が割り込んできた。
「タカジイ、この子なんて言う名前なの?」
そう言えば名前を聞くのを忘れていた。俺が首をかしげていると、
「自己紹介します。あちしの名前は大空ユメ。一年二組。よろしく」
目の前の少女はいたって普通の自己紹介をしていた。
「ユメちゃんかあ。かわいい名前だね。私の名前は――――」
時音をかわきりに全員が自己紹介を終えたところで、
「あんちの名前はちかじって言うんだぁ」
いやいや、違いますけど……。
「お前『た』って言えないのか?」
「言えるよ」
「じゃあ、言ってみろよ。た・か・じ」
「ち・か・じ」
「……絶対馬鹿にしてるだろ!」
「してない。ながみねちかじ、かぁ~。呼びにくいなぁ」
すると、
「自分が呼びやすいように呼べばいいのよ。私の場合はタカジイって呼んでるし」
時音がアドバイスを始めた。
「そっか」
ユメには何かがわかったらしい。
「ながみねちかじ、だから――」
誰か注意してやってくれよ。俺の名前はタカジだ。
「あっ!」
ユメは頭の上でランプが光ったかのように、ピンと人差し指を立てて、パアッと明るい表情で言い放った。この瞬間、俺の不名誉なあだ名がまた一つ増えることになったのである。
「チイでいいや」
「…………」
誰かつっこんでやってくれ。
「孝司、よかったな。チイだってよ。素敵なあだ名じゃないか」
ニヤニヤ笑っているあたり、この前俺が「エムジ」と言ったことに対する仕返しとでも思っているのだろう。
そのまま礼二は続けた。
「ユメちゃん。そのあだ名はどこから来たんだい?」
ユメはあっけらかんと言い放った。
「ちかじのチと、タカジイのイ」
もともとの名前の要素がゼロなんですけど……。しかも、『た』って発音できてるし。
「よかったね、タカジイ」
よかないよ。
「よかったな、チイ」
うるさいぞエムジ。
その後は落ち込む俺を尻目に、みんなで婆抜きをした。もちろん、雪女を除いて。ユメはトランプで遊んだことがないらしく、ごくシンプルなルールのものを採用した結果こうなったのだ。落ち込んでいる人間には勝利の女神すらそっぽを向いてしまうらしく、トランプ初体験のユメにまで負けてしまった。もっとも、婆抜きにそれほど経験値は必要ないんだけどな。
敗者の罰ゲームとして、俺はトランプの後片付けを命じられた。
全員がいそいそと帰宅していく中で、ユメだけが俺のことを不思議そうに眺めている。
「なんだよ?」
「チイ、なんであちしのことを覚えてるのだ?」
やっぱりこのあだ名は決定事項なのだろうか。
「夢に出てきたからだろうが」
「あの夢をおぼえてるのか?」
いかにも昨日の俺の夢を知っているかのような物言いだ。
「はっきりとは覚えてないけど、お前のことと、お前が言った「夢を食う」って言葉だけは覚えてる。正確に言うと、思い出したって言った方が正しいんだけどな」
「やっぱり、昨日のチイの夢をたべきれてなかったんだなあ」
「は?」
「だから、あちしが食べ切れなかったんだよ」
「何を?」
「チイの夢」
「…………」
トランプをきっちり揃えて、何回もよ~く切った上で箱の中にしまうと、俺は立ち上がり、自分の鞄を手にした。そのままドアのところまで行き、
「ユメ、帰るぞ」
プウッとふくれっ面をしたユメはなんともかわいらしかった。
「チイは全然信じてくれないな」
「当たり前だろ」
「信じてもらえなくても全然不都合はないけど、なぜか腹が立つのは何でなんだ、チイ?」
「お前、『た』って普通に言えるんだな」
「当然だ」
「夢ってうまいのか?」
「信じてくれたのか?」
「まさか」
「うぅぅぅぅ……」
廊下をピョコピョコ歩いていたユメが突然立ち止まり、俺の袖口を引っ張った。
「どうした?」
「なんだかムシャクシャする。どうしたら信じてくれるのだ?」
「ん~、そうだな~」
あれこれと考えが浮かぶというより、これしか浮かんでこなかった。
「今夜俺の夢の中に来い。そしたら信じてやるよ」
どんな誘い文句だよこりゃ。しかし、ユメは俺の顔を見上げたままコクリと頷いて、
「わかった」
そう言い残し、そのまま去って行った。
このとき俺は本当に信じてなどいなかった。夢を食うようなわけのわからん奴がこの世界にいるなんていうことを。ユメが俺の夢の中に再び現れるなんていうことを。
だがこの世界は、俺が思っているよりも数段柔軟にできていて、ユニークな現象で溢れかえっているのかもしれない。
やっぱり世界は広いみたいだ。