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第1章「フィオリ・アル・レガージュ」(9)

 カン、と硬いものが弾かれる音が鳴る。室内に流れるゆるやかな空気は、ここだけ日常の煩雑さから切り離されているようだ。

 この部屋は軍の士官用に整えられた、いわゆる余暇施設の一室で、室内には合わせて八つ、長方形の台が置かれていた。そのうち三台の周りにそれぞれ数人が立っている。

 置かれている八つの台は遊戯用の特徴的なもので腰の下あたりまでの高さがあり、一寸程度の木枠の縁で囲まれた台の表面には羅紗(らしゃ)が敷かれ、長方形の長辺の中央と四隅とに合わせて六つの穴が開けられていた。

 少し落とした燭蝋の灯りが、広い台に貼られた緑の柔らかな布地にほんの微かな陰影を落としている。

 台上の左側中央には全て色違いの木の丸い玉が九個、菱形に並べられている。玉には一から九までの数字が振られ、それと対照の右側中央の位置に白い玉が一つ。

 撞球(どうきゅう)という遊戯だ。王都では酒場などに良く置かれていて人気が有り、競技として賞金付きの大会まで存在する。手玉と呼ばれる白い玉を専用の長い棒の先で()き、他の的玉(まとだま)に当てて弾く事により穴に落とし、その数を競うものだ。

 台に着くのは二人が基本で、的玉を一番から順に落としていくが、相手が失敗するまで順番は回ってこない。上手く角度を計算して当てなければ弾いた的玉は壁に当たるばかりで穴には入らず、単純そうで難しい。

 かつんと硬い音を立てて白い手玉が台の上を走り、菱形に固まった九つの的玉の先頭に当たる。小気味の良い音を立て、九つの的玉は鮮やかに散った。

 幾つかはお互いに弾き合いながら転がり、その中の青い色を塗った一つが穴に落ちる。

「一番を四番へ」

 静かな宣言と共に再び白い手玉が緑の台の上を走り、黄色の的玉を弾いて対角の隅の穴に落とした。

 二番の青い玉は既に落ちている。次に狙うべき三番の的玉は八番の黒い玉の向こうにあった。

 手玉の位置からでは真っ直ぐに狙う事はできない状態だ。

 それでも声は平然と次の手を宣言した。

「三番から六番」

 宣言どおり、手玉は三番の玉を弾き、そのまま一旦壁に当たって跳ね返った後、六番の玉を弾いた。白い手玉だけがそこにぴたりと止まり、弾かれた二つの玉が穴に吸い込まれる。

 停止した手玉と右隅の穴とのちょうど真ん中に、四番の的玉があった。

「てめえ手加減しろよロットバルト」

 クライフが横から呆れた口調で言ったが、ロットバルトが口を開くより先に答えたのはレオアリスだ。

「いい。手加減なんていらねぇ」

 先ほどからロットバルト相手に三戦三敗中のレオアリスは、結構意地になっていた。手加減などされたら悔しいだけだ。

「絶対実力で負かす」

 とはいえ手玉と的玉が当たる角度を少し間違えると虚しく台の壁を行き来するだけ、一度失敗するとその後の手を全て持っていかれるし、ロットバルトは滅多な事では失敗しない。

 そもそも先行だけは譲ってもらっていたが、三回あっという間に負けて、それも癪に触るから後攻でいいと言ったのだが――、お陰で今回、いつまで経っても順番が来ない。

「楽しく適当にやろうって気がないんかねぇ」

 クライフは真剣な空気の漂っているレオアリス達の台を眺め、手にしていた麦酒をごくりと飲んだ。対面に座っていたフレイザーも口元に笑みを浮かべる。

「要は子供って事ね、二人とも」

「どんなものでも勝負は勝負だ。上将の気概はさすがだろう」

 グランスレイがいつもの口調で言い、フレイザーが苦笑する。

「貴男もですか? 全く」

 グランスレイは少し決まり悪そうに、咳払いをした。

「手を抜いても上将は納得されんのだし、あれでいい」

「あのね、副将、遊びですよ遊び」

「その遊びで負けて一番熱くなるのはクライフ、お前だろ。こないだは五連敗して台ひっくり返そうとしたっけ。無理だけど、あんな重いの」

「っせぇーなぁヴィルトール、てめえだって大した腕じゃねぇじゃねぇか」

「お前相手なら完封だと思うな」

「はぁあ?! やるかてめェ」

「やだよ、勝つまでやろうとするじゃないか、めんどくさい」

 傍観者達が賑やかな間にも、ことん、と軽い音を立てて最後の九番が落ちた。

 レオアリスは綺麗になった台の上をしばらく睨み、がくりと突っ伏した。

「……ッくしょー、勝てねぇ!! ていうか俺の番来ねぇ!!!」

「単なる経験の差ですよ。もともと館に台があったので慣れているだけで」

「経験だけか? でも、家にあるのか、いいな」

 さすがヴェルナー侯爵家、個人宅にこんなものを置くのかとレオアリスは感心した。あの広大な屋敷、しかもロットバルトの言うのは主邸では無く彼の育った館の事だろうから、それを個人宅とは言わないかもしれないが。

「お前は得意そうだよな、こういうの」

「得意というか、好きですね。的玉の散り方が常に違うから色々な手を考えられるでしょう。一人で集中する事ができますし、余計な事を考えたくない時には特にいい」

「どっちなんだ?」

 結局何かしら頭を働かせているのが好きなのだろうが。

「直接どうと言う訳ではありませんが、戦術を考える上でもこの思考は役に立ちますよ。一つの玉を落とす事だけではなく、次の玉を落とすのに有利にする為に、打った後の手玉をどの位置に持ってくるか――」

 まだ台に寄りかかった状態のレオアリスの前で、ロットバルトは白い手玉を取り、緑の羅紗の上に軌道を描いて見せた。

「なるほど……」 奥が深い。「勝てる気しねぇなぁ――」

「何度かやればすぐ上達しますよ、――貴方は」

「貴方はって誰に引っ掛けてんだー?」

 傍らの卓から突込みが入る。

「まあまあ」ヴィルトールがにこやかに笑ってクライフの肩を叩いた。

「お前だよ、当然」

「ふざけんな」

 手にしていた長い棒を壁に掛けたロットバルトを見て、レオアリスは台から起き上がった。

「ちょっと待て、終わりかよ」

「もう一刻近くやっているし、そろそろ休みましょう。副将達も待っていますしね」

 グランスレイ達はもう壁際の卓について飲みの態勢に入っている。

「じゃああと一回。もう一回だけやろうぜ」

 レオアリスが食い下がる。勝つまで、とは言わないが、自分が納得するまで同じ事を言いそうだ。ロットバルトは苦笑を隠した。

「それもいいんですが、一旦気分を変えて、休みながら少し話をしませんか」

「話?」

「レガージュについて」

 昼に届いた手紙の事となれば、レオアリスの中では負け続けの悔しさよりも、フィオリ・アル・レガージュへの興味が勝った。クライフ達の座っている卓に戻って座り、ロットバルトも腰掛ける。クライフはロットバルトを睨みつつ、卓の上に肘をついて身を乗り出した。

「終わりですか? こいつマジ腹立ちますよね。いつか完膚なきまでに叩きのめしてやりたいとか思いません?」

「さっき楽しくって言ってたじゃない」

「それが一番楽しいぜ多分」

 フレイザーは肩を竦めた。

「まあ勝負はおいといて」

 勝負になっていなかったが。「レガージュの話をするからさ、ちょっと休憩だ」

「レガージュか、そうですね。私も気になってました」

 ヴィルトールは手を上げて給仕を呼びながら頷いた。今日届いたばかりの手紙に誰しも興味がある。

 飲み物が運ばれてくるのを待ってから、ロットバルトは話を再開した。

「まず、フィオリ・アル・レガージュがどのような街かはご存じですか?」

「そうだな――ザインって剣士がいるって事と、海洋交易が盛んだって事がすぐ思い付くけど」

「そうですね。それが最も特徴的な点です」

 クライフは寄りかかっていた長椅子から身を起こした。

「あそこの飯は美味いらしいぜ。魚とか貝とか、酒も異国のモノがたくさん入って来て。一度行ってみたいんだよなぁ」

「クライフは南方出身だろ、行った事はないのか」

「無いですねぇ、話ばっかで。大体あんま動きませんからね、村の人間は。農家だし、畑ほっぽってどっか行くってのはないなぁ」

「遠いし、私達なんて特に行く機会ないわよね」

「南方軍なら行く可能性はあるけどね。行くって言うか配属か。アスタロト様は行った事があるんじゃないか?」

 情報網があまり発達していないこの時代、現地に赴いた事がなければ正確な様子を知る事はとても難しい。書物で知識を得る場合や関係者の話を聞く事以外、それこそ噂話――聞き伝えの域を出ないのが一般的だ。

「街の名は有名ですが、行った事がある者は王都でも余り多くはないでしょうね。行き来するのはほぼ商人か、管轄は西方軍ですから西方軍、もしくは領事館関係者か」

 ロットバルトはレオアリスの意志を確認するように視線を向けた。

「しかしいずれザインとお会いになるのであれば、その前にレガージュという街の成り立ちを深く知っておいた方がいいでしょう」

 レオアリスはグランスレイを見て、グランスレイがレガージュ行きに反対していない事を確認した。嬉しそうだ。その様子を見てフレイザーがそっと笑う。

「成り立ちか……、詳しく知りたい」

 レオアリスは飲み物を手に取り、ただ口には運ばずに長椅子に深く座り直した。

「フィオリ・アル・レガージュという街と剣士――ザインとは、密接な関わりがあります。ザインがレガージュに三百年もの間留(とど)まっている、その理由ですね」

 ちょっとした授業みたいだな、とレオアリスは胸の内で笑みを浮かべた。こういうのは楽しいし好きだ。

「街が形成された時期は不明ですが、街の名が地図や史書など記録に残ってくるのは四百年ほど前からです。当時の名はアル・レガージュ。古い地図だとそう記されています」

「名前が変わったのか」

 ロットバルトは頷いた。

「変わったのは大戦後、街の再建に大きく貢献した人物の名を冠して、現在の名になりました。その人物がフィオリ・エルベ――記録によれば当時の領事の娘であり、剣士ザインの妻です」

 そう言いながら、ロットバルトはレオアリスを確認するように視線を合わせた。

 そこにある問いかけの意味が、レオアリスにはっきり伝わる。

 ザインの妻だという、フィオリ・エルベという女性。

 三百年間、レガージュを守り続ける理由。

 おそらく、剣士としてのザインが主と定めた人なのだろう。

「その、フィオリ・エルベって女性は」

「大戦終戦の直前に亡くなったと伝えられています」

「――亡くなった……」

 それは、少なからずレオアリスに衝撃を与えた。

 何故だかその事を、考えていなかった。

 三百年もの時が流れているのだから、フィオリ・エルベが亡くなっているのは当然の事だと言える。

 それでも当たり前に、ザインはまだ彼の主の傍にいて、守っているのだと。

「――」

 主を――、失う。

 上げていた視線を、ゆっくり手のひらに落とす。

 剣の主を。

 失う?

 一瞬背中を走ったぞくりとした感覚に、レオアリスは身を縮めた。

 それは、恐怖に近い感情だ。

 いや、恐怖そのもの。

 身の(うち)で剣が震える。同じように剣も感じているのか。

 それとも憤りか――。

 そんな事態にはさせないと。

「上将? 大丈夫ですか?」

 フレイザーが心配そうに覗き込んで、レオアリスは首を振った。

「ああ、大丈夫。――でもやっぱり、嫌だな。俺がここで言ったって仕方ないけど」

 何が、と尋ねなかったのは、誰しもレオアリスの想いが想像できたからだ。

「三百年、か」

 口の中でそっと呟く。

 長い、長い時間(とき)だ。

 もはや剣の定めた主はいない。

(それでもずっと、護るのか……)

 けれど判る、とも思った。

「悪い、話を続けよう」

 レオアリスはロットバルトに視線を戻した。ロットバルトは頷いたが、開きかけた口を一旦閉ざした。

「地図が欲しいな」

「へ? ここにかよ。どんな話をするつもりだ」

 ロットバルトが周囲を見回したのを見て、クライフが呆れて眉をしかめる。

「この先は地形を見ながらの方が説明しやすいんですよ」

 ロットバルトは手を上げ、給仕に地図を用意するように告げた。

「何だか軍議みたいになってきたな……撞球で十連敗したほうがマシな気がするぜ」

 クライフはそうぼやいたが、残念ながらここは第一層の軍士官用の施設で、酒を飲みながら戦略戦術を論じる事も少なくない。慣れた給仕はあっという間に地図を運んで来て、ロットバルトに差し出した。

 飲み物の杯をどかした卓の上に、筒状にしていた地図を広げる。用意されたのは国土全体の地図だ。

「レガージュ戦線と言えば、すぐ思い当たるでしょう」

 ロットバルトの言葉に、面倒そうな顔をしていたクライフも長椅子の背もたれから身体を起こした。

 王都北東のレギン高地から発する大河シメノスの流れを指先で追い、河口に至って止める。

「この河口南部に位置するのが、フィオリ・アル・レガージュです」

 シメノスの河口の左側、南海寄りにフィオリ・アル・レガージュの地名と街の記しがある。

「遠いなぁー」

「王都からおよそ二千里か、馬じゃふた月くらいかかるからね」

 王都から遠く国境にあり、異国のように感じられながら、しかしレガージュは重要な街だ。

 当然、現在の交易都市としてのレガージュもあるが、もう一つ。

「大戦において、レガージュは西海との主要な戦場の一つとなったのは史実に知られています。それにはまず、地形的な理由が大きい。ここ」

 ロットバルトが指で示したのは街とシメノス大河の左右に続く、西海と南海の海岸線だ。

「街の左右に連なる海岸線、これは断崖となって両岸とも三十里ほど続いています」

「なるほど――地形を見るとよく判る。海側から攻め入るとしたら、侵入経路は河口だけか。特に南方は、何とか断崖を登ったところですぐアルケサスに足止めされるしな」

 レオアリスは細めた瞳を地図の上に走らせた。

 南方の海岸沿いを西から東へ横断し、幅数十里に渡って広がる熱砂アルケサス。ただ渡るだけですら命を落としかねないそこを、敢えて進軍して兵力を疲弊させる者はそうはいないだろう。

 ましてや相手は西海だ。

「そうです。事実上、上陸可能な場所は河口のみ、しかし河口に位置し左右を断崖絶壁で囲まれたレガージュは海からは難攻不落――逆に言えば、それ故に戦域はこの地に止まり、街は戦火で荒れ果ててしまった」

「――」

「しかし今、万が一、西海との戦乱が起きた場合、私でもここに防衛線を張ります。それだけの要衝です。今も」

 判る。レオアリスもまた、同じ考え方を取るだろう。

 やはり地形だ。

 レガージュを(おと)されれば、西海は容易く内陸に侵入する事ができる。

 シメノス大河を遡って、王都へ大軍を送り込める。

「王はこの地に城塞を築き、西海の侵攻に対する第一の防衛線とした。レガージュは災禍を受けながらも大戦の間ずっと持ち堪え、一度も陥される事無く終戦を迎えました。これが歴史で言うレガージュ戦線です。ザインという剣士がレガージュ戦線に参加したのも頷けますね」

 大戦の中でも幾つか、特に激しい攻防を繰り広げた地がある。

 シメノス河口、アル・レガージュ。

 条約締結の地、西都バージェス。

 風竜が降り立った北西、ハイドランジア湖沼群。

 六人が座る卓の空気はすっかりいつもの執務室のそれになっていたが、クライフでさえもう気にならないようだった。

「レガージュといや船団だろ。レガージュ船団がそん時活躍したんだっけか」

「違うわよ、船団ができたのは大戦後でしょ?」

「近年――船団と呼ばれるほどに組織化したのはここ百年の間ですね。レガージュは当時から、諸国との交易を行っています。しかし交易都市として広く知られるようになったのは大戦後の事のようです。それ以前は余り書物に名が上がっていませんから」

 ここで重要になって来るのがフィオリ・エルベです、とロットバルトは続けた。

「フィオリ・エルベという女性は、大戦後期の激しい戦線の中で、レガージュの再興に尽力した人物と伝えられています。ただ、彼女は終戦と街の復興を見ることなく亡くなった。乗っていた船が戦火に巻き込まれて沈んだと、記録にはあります」

「……悲しいでしょうね、ザインは」

 ザインが今もレガージュを護る理由――フィオリ・エルベの目指したものを見る為だろうか。

 今のレガージュの繁栄は、彼の目にどう映っているのだろう、とレオアリスは思いを巡らせた。

「さて、ここまでがレガージュの歴史です」

「すげー判った。そりゃ、レガージュに行く前に知っといた方がいいよなぁ」

 クライフが腕組みして大きく頷き、ロットバルトは笑った。

「歴史で終わりではなく、上将が師団大将として知っておいていただくべき事は、むしろここからの点でしょう」

 先に頷いたのはグランスレイだ。

「今のレガージュは確かに繊細な問題を抱えているからな」

「繊細な? その地理的な面だけじゃなく?」

 レオアリスの問いかけに、ロットバルトが続ける。

「防衛の要衝と申し上げましたが、フィオリ・アル・レガージュは少し特殊な位置にあります」

 ロットバルトは口調を少し変えた。史実を語る時と違い、言葉を選んでいる。

「特殊?」

 フィオリ、と付けた場合は、既に現代の話題だ。

「大戦後、そう成長してきたと言うべきですね」

 地図を丸めて脇に置き、ロットバルトは膝の上で手を組んだ。

「フィオリ・アル・レガージュには商人達の組織した交易組合があります。この力は王都の商業組合よりもある意味で強い。ある意味とは、こと街の中に限定した場合ですが、領事館より強い権限を持っているという事です」

「交易組合か。レガージュ船団の母体だったな」

「そうです。レガージュの西方軍の規模はご存知でしょう」

 正規軍の事ではあっても、どの地域にどの程度の規模が配備されているかは把握している。

「西方第七軍は半個小隊、五十名のみの常駐……借り物の範囲って事だ。――そうか」

 レオアリスは瞳に鋭い光を浮かべた。

 それがどういう要素を持っているのか、想定できるからだ。

「レガージュで問題が発生した時、軍は介入しにくい」

 しかし今の状態が悪いと言う訳ではない。あくまでも防衛という観点からの想定だ。

 ロットバルトは頷いてから続けた。

「まあ歓迎されざる、とまでは言いません。問題は幾つかありますが、現状ではそれを置いても良好な状態を保っています。レガージュ船団の役割は一番が交易船の護衛ですから、基本的に西方軍の管轄まで踏み込む事は少ないでしょう」

 全く無い、とは言い切らないところが、グランスレイをして「繊細な」問題と言わしめる部分なのだろう。

「そもそも西海と違って南海は航行が自由ですが、その分海賊行為なども頻繁に発生します。レガージュ船団の名は南海に知れ渡っていますから、船籍を見れば迂闊に手を出す(やから)はそういない。抑止力と言う意味からも、レガージュにとって船団は必要不可欠なものです。王も敢えてそこを崩そうとはお考えになっていない。交易で得られる富もまた、この国を豊かにしてくれる」

 つまりフィオリ・アル・レガージュは、王が一定の自治権を認めた特殊な街なんです、とロットバルトは言った。






 室内を照らす燭蝋の小さな灯りが、ザインの黒い瞳に光を宿す。

「フィオリ――」

 夜空には月が高く上がって辺りを照らしていたが、小さな窓から見える暗い海に輝きはない。

 黒々とした海は昼の鮮やかな青と違って、ザインの胸にまた別の想い出を蘇らせる。

 何度と無く、寄せては返す波と同じに、意識の底に退きはしても消える事の無い記憶。

 出逢ったのは、戦火がくゆるレガージュの街でだ。

 戦火に焼かれた家々から立ち昇る煙で青い空を遮られていながら、彼女の瞳は真っ直ぐに青い色を見ていた。

 西海軍に埋め尽くされた海。

 彼女の、――フィオリの瞳は遥か南への航路を見ていた。

「いつか、そう遠くない先には、この戦争も終わるわよね」

 問い掛けにザインはどう答えただろう。覚えているのは彼女の言葉ばかりだが、おそらく自分が終わらせて見せる、とでも安請け合いをしたに違いない。

 そんなザインの言葉を、フィオリは笑いもしないで頷いた。

「貴方が戦争を終わらせて――、私は、他の国々との交易をこれまで以上に発展させる。いずれアル・レガージュはこの国の交易の中心になるの。だからこんな中でも、交易を絶やしちゃいけない。今は船は来ないけど、だったら私達から行けばいい」

 フィオリは常にその事を考え、その為に戦火の中でありながら、様々な働きかけをしていた。今はまだ、戦火に疲れ果てた人々に、彼女の考えを共に実行しようとする者は少ないが。

「西海とも、いつかは交易が可能になるかもしれない。そう思わない?」

 冗談のような口調でそう言って、けれど瞳には強い光が差していた。

 ざん、と波が岸壁に打ち寄せて砕ける音が届く。ザインは窓の外の海から視線を離した。この窓からは見えないが、右手には街の光が夜の中に幾つも灯っている。

 遠い国から航行してきた船と船乗り達にとって、何ヶ月もの長い航海の終わりを告げる、温かな光だ。

 彼女があの戦火の中で取り戻そうとしたもの。

「この街は俺が護る」

 沈んでゆく船の上で誓ったのだ。

 腕の中で冷えていく温もりに。

 亡骸すら、連れて帰る事は叶わなかった。

 それはただひたすら、自分の力が及ばなかったが故だ。

 怒りや悲しみは今でも沸き起こる。ただザインはそれを抑えた。

 抑え続けている。

 木の床を鳴らさないようにそっと寝台に近寄り、ぐっすりと眠っているユージュの顔を覗き込んだ。

 柔らかい髪を撫ぜる。これでもう五日、ずっと眠り続けているが、それもいつもの事だ。

「王都から返事が来たら、いったん起すかな。眠いだろうけどまあ我慢してくれよ。読みたいだろう?」

 返る言葉は無いが、ザインは笑ってもう一度ユージュの頭を撫ぜ、静かに扉を閉ざして部屋を出た。

 









 暗く深い海の底近くに、丸い緑の灯りが一つ灯る。

 たゆたっていた魚達が一斉に逃げて散った。

 光はしばらく海底で揺れていたが、やがて重く黒い水の奥に消えた。






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