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第4章「剣士ザイン」(27)

(父さん――)

 伸ばしたユージュの手を捕まえるものはなく、父の姿が閉ざされた。

 身体の周りを重くぬるぬるとした壁が取り巻き、全身を押し潰そうと絞め付けて来る。

 その感触と、光も無く圧迫してくる闇にぞっとして、息が苦しくなった。粘膜の壁――喉だ――今、生き物の中にいて、やがて自分が溶けていくのかと思うと、喉が引き攣りますます呼吸ができなくなる。



 どこかで鼓動が聞こえる。

(――)

 たぶん、自分の怯える心臓の音で、そうでなければ自分を飲み込んだ鮫の鼓動だ。

 でも、いい。

(だって、父さんがいるもん)

 父がいてくれるから、それは必要ない。


 どくん。


『その子が成長しない理由が判る?』


 どくん。


『お前に、守られる為よ』


 どくん。


 父の傍にいたかったから――だから自分は、ずっと寝ていたのだろうか。

 子供のまま。

 そうかもしれない。

(だっていつも、父さんは、遠くの海を見てた)

 笑いながらユージュに向ける、その瞳の向こうにも。


 どくん。


 鼓動が煩い。

 眠れない。

 どくん。

(うるさい)

 どくん。

(ずっと、眠ってればいいんだから……)

 そうすればずっと守ってくれる。

 ずっと、傍に。

 どくん。



 微かな声がした。



 ――守ったよ


 少し幼い、きれいな声だ。

 でも何故か意地悪でひやりとさせられる響きで、首筋に刃物を当てられたようにユージュはびくりと身を縮めた。

 ――守ってきてくれたじゃない

 耳を塞ぎたいのに声は容赦なく入ってくる。

 ――三百年……ずっと守られるままだった

 声はユージュの内側からしていた。

 ――だから、ほら

 声の示す方へ、ユージュは恐る恐る目を向けた。

 落ちていく先に、微かに白く、光を放つものがある。

 良く知っている光。いつも傍にあった光。

 ユージュは叫び声を上げた。



 ――父さんの剣が、落ちていく







 鮫の腹からユージュを引き摺り出すと、ザインはその姿を見つめた。

「ユー……」

 僅かに息を飲み込む。一瞬、複雑な光をその眼差しに浮かべた後、口元を引き結び、片腕でぐったりとした身体を抱き締めた。

「――ユージュ」

 ザインは肩を大きく上下させ肺に溜め込んでいた息をゆっくりと吐き出すと、呼吸と共に身体を支えていた力も全て吐き出したかのように、ユージュを抱えたまま膝から力を失って倒れた。

 肘から先を失った右腕と、胸や背に空いた傷口から、血が数十もの帯のように海中に漂い、溶けていく。


 レオアリスはザインの姿を、声もなく見つめていた。

 目の前でザインが傷を負い、ユージュが呑まれ、それでも動かない腕と何もできない自分に気が狂いそうな程のもどかしさと怒りを感じたが、ザインの姿はその感情すら打ち凌ぎ、声を失わせた。

 何一つ迷わず、ただ、ユージュを助ける為に。

 無意識に剣の柄を握り込む。

 ザインの上に、会った事も無い父の――ジンの姿が重なる。

 ジンも――、ザインのようにまるで躊躇いもなく、そうしたのだろうか。

 あの時。

 我が子を、

(俺を)


 助ける為に。


 ――何故、と思う。

 どうして彼等は、自分の命を顧みないのだろう。

 それが当たり前だ、と、『彼』なら言うのかもしれない。

 “お前が気にする事はない”

 朗らかに笑いながら。

 ぐっと唇を噛み締める。

(――でも)

 軍服の下、胸に掛けた小さな青い石を思い起こす。それからザインの腕の中で目を閉じたままのユージュを見つめた。

 ユージュだけの望みだろうか。

 それとも。

(……俺達は、傍にいて欲しいんだ――)

 ザインはユージュを抱えたまま動かない。

 それまでヴェパールは呑まれたように目の前の光景を見据えていたが、ようやく自分を取り戻すと、口元に勝ち誇った笑みを浮かべザインへと近付いた。

 手にした戟が海水に小刻みの振動を撒き散らす。

「全く、貴様はくだらない」


 どくん。


 剣が鳴る。


 レオアリスの二振りの(つるぎ)


 レオアリスは意識をせず、たいして力を込めてはいなかった。

 ただ、父から受け継いだ青い石を想い、彼が自分にくれたものを想っていた。

 父から受け継いだ剣。

 それまで腕を押さえ込んでいた戒めが、ぐぐ、と押し返される。


 どくん。


 剣が鳴る。レオアリスの剣と。






 ルシファーは瞳を細めた。

 レオアリスの剣はもう、彼女の手から解き放たれる。

 それを眺め、呆れ混じりの笑みが零れる。

「ほんとうに、剣士は厄介ね――」

 そう呟き、ザインと、そしてユージュにもまた、その瞳を向けた。






 ヴェパールはザインの前に立つと、ザインの肩を掴んで、ぐい、と頭を引き上げた。

 ザインが閉じていた両眼を薄らと開く。

 だが目の前のヴェパールを認めた様子は無く、血は全ての傷口から止まる事無く流れ続けている。

 ヴェパールの口元が笑みに歪む。

「残念だったな。もう少しで、三百年積もりに積もった私への恨みを晴らせたものを」

 せせら笑いも耳には届いていないのか、ザインは言葉を返す様子もなく呼吸は既にあるか無いかに細い。

 ヴェパールはザインの失われた肘から先を眺め、そして残った左腕と上体でユージュをしっかりと抱え込んでいる様に、愉悦含みの眼を向けた。

「そのザマで、まだ守ろうとしているつもりのようだが――初めから見捨てていても、何も変わらなかったな。哀れな事だ――」

 戟の切っ先をザインの首筋に当てる。

「三百年振りに、主のもとへ行くといい。すぐにその子供も送ってやる」

 その時になってようやく、ザインが、微かに、何事かを呟いた。

「何だ? 最後に聞いてやろう」

 ヴェパールは聞き取る為に頭を寄せた。

「――悪、い、な」

「主に詫びか。どうせすぐ、話ができる……」

 刃が肉を突き通す鈍い音がした。ヴェパールの笑みが途中で凍り付く。ヴェパールは瞼の無い平たい両眼を見開き、脇腹を見下ろした。

 残っていた愉悦の欠片が、消える。

「貴様……、どうして、それを」

「ユージュが、戻してくれた」

 ヴェパールの脇腹に、食い千切られたザインの右腕の剣が突き立っていた。

 鮫の腹から引き摺り出した時、ユージュがその両手に抱えていた。

 ヴェパールは一度大きく息をして、まじまじと自分に突き立った剣を見た。

「――、貴様」

 ザインが剣を引き抜く。剣は躊躇う事無く、ヴェパールの傍らに浮いていた緑の光球を断ち、そのままよろめくヴェパールを追って斬り付けた。

「悪いな」

 ザインは口元だけで笑った。「レオアリス――」

 ヴェパールの左肩が裂け、深く開いた傷が血を撒き散らす。

「俺は、望みを通させてもらう」

 ヴェパールの胸へ、ザインの剣が(はし)る。

 ヴェパールはザインの首筋に当てていた戟の刃を引きかけ――、二つの刃は同時に弾かれた。

「駄目です」

 戒めを断ち切ったレオアリスの二振りの剣が、ヴェパールの戟とザインの剣を抑えている。

 ヴェパールは戟を抑えている青白い剣を、荒い呼吸と共に睨んだ。ただ抑えているだけに見えて、戟はまるで動かない。

 ザインがレオアリスの剣を見て笑う。たった今身体を動かせていたのが冗談だったかのように、ザインは急速に疲弊し、微かな呼吸をようやく繰り返していた。

「ああ、やっぱり――、ジンに良く、似てるな」

 どこか楽しそうなその言い方に、レオアリスは遣る瀬ない怒りを感じた。

 いや、多分、悲しいのかもしれない。

 どちらの感情も良く、似ている。

「――貴方には、復讐よりも大切なものがあるはずだ。すぐ目の前に。それを見てください」

 ザインは無音で笑った。

「判っているさ」

「いいや、判ってない」

 レオアリスは一度、ゆっくり息を吸った。

 漆黒の瞳が真っ直ぐザインを見つめる。

「――それは、俺達にしか、判らないんだ」

「――」

 ザインはレオアリスの瞳を見つめ返し、そしてそれをユージュの上に落とした。

 ユージュが必死に自分を呼んでいた姿が目に甦る。捕えられた泡の中で。領事館の部屋や、交易組合で。

 二人で暮らした家の、緑なす岸壁の上で。

 いつでもユージュは、自分を呼んでいた。

 成長しないユージュの原因は、ただ剣士の血のせいだろうと思っていた。

 けれどルシファーの言うとおり、それだけでは無かったのかもしれない。

(俺の、せいか――)

 ザインはふと、レオアリスを見上げた。

 レオアリスが今、自分の上に見ているのは、ジンの姿だ。

 十七年前の冬の日の、一度も見た事すらない父の姿。

「――」

 その瞳の色に胸を突かれる。

 ユージュと同じ、漆黒。

 ふいに、叩きのめされたように、思った。


 ユージュは自分をいつ、どう思い起こすのだろう。


 見ない振りをしていた後悔が、膨れ上がって塊になる。

「……俺は、身勝手だな――」

 ザインの呟きが、ポツリとレオアリスの耳に届く。

「ザ――」

 思い直してくれたのだと、ほっとして見下ろしかけた時、ザインは力を失ってレオアリスの足元に崩れた。

「ザインさん――、!」

 ヴェパールの戟が跳ね上がる。レオアリスは左の剣で戟を弾いた。

 ヴェパールは衝撃を抑えきれず数間の距離を押し出された。ザインの剣によって深く抉られた腹の傷を抑え、よろめきながらも尚も身を起こす。

 平たい銀色の瞳にぎらぎらと憔悴と怒りを宿し、レオアリスと、ザインを睨んだ。

「この借りは、必ず返す」

「お前はまだ」

 憤りを覚え、レオアリスが口を開きかけた時、すぐ後ろで悲鳴が上がった。

「父さん!」

 胸を鳴らし素早く視線を向ける。いつの間にかユージュが身を起こして瞳を見開き、その恐怖を湛えた瞳で、自分に覆い被さるように倒れているザインを見つめていた。

 レオアリスは這い上がる冷たい予感を押し殺し、唇を噛み締めた。

 ザインの傷が、全く癒えていない。

 血はもう、流れてもいなかった。

「――」

(まだだ)

 ザインはまだ、ユージュと何も言葉を交わしていない。

(違う、そうじゃない、まだ)

 まだ終わりじゃあない。

(まだ早い――、早いだろ)

 ユージュはまだ、十年もザインと過ごしていない。


 でも、剣の気配が無い。


(まだだ!)

「――父さ……父さん、しっかりして――」

 震える声が、そっとザインを呼ぶ。

「父さん――起きて」

 ユージュは恐る恐るザインの身体を揺すったが、ザインが瞳を開く様子は無かった。

「ユージュ」

 肩に触れようとしたレオアリスの手を、ユージュは払い除けた。

「父さん――、剣が、ほら――」

 ユージュはザインの右腕を繋ぎ合わせようと、腕と肘の断面を押し当てた。

「剣があるから――起きて」

 父の顔を覗き込み、強張った頬に笑みを浮かべる。

「父さん、ねえ」

「――ユージュ……」

 無駄だと、そう言うべきだと判っていながら、それでも何とかなるのではと期待に傾く。

 剣さえ。

 確かに、剣さえ戻れば、何とかなるんじゃないか。

 バインドは、剣を失っても生き延びた。

 今、ここで剣が戻れば。

 食い千切られた傷痕に合わせようとして、腕は何度もユージュの手から滑り落ちた。

「何で――、付かない、何で――そんなはず無い!」

 何で、とユージュは繰り返している。

 繰り返しながら何度も腕を押し付け、次第に呟きは切羽詰り、悲鳴のように高くなった。

「いやだ――、いやだいやだ、いやだよ……!」

 哀願する声に反して、ユージュの抱えていた腕から、水に溶けるように剣が消えていく。

 ユージュは両手を伸ばし、引き止めようとするように消えていく刃を掴んだ。

「ボクはもう寝ないから――守ってくれなくてもいいから」

 剣はユージュの指を傷つける事すらなく、消えた。

「父さん―― !」

 ユージュはザインの身体に飛び付いた。全身から迸るような悲鳴が長く尾を引く。

「ユー……」

 ユージュの悲鳴に重なるように、笑い声が響いた。

 ヴェパールが自身の傷を抑えながらも、頬を愉悦に歪める。

「引導を渡してやりたかったが、必要無かったか。結局私を殺す事もできずに、主と同じく私に命を捧げる運命だったのだ。可哀想になぁ」

「黙れ」

「お前はどうする? 同じ剣士だろう。ザインの仇を取るために私を斬らないのか」

「――」

「仲間の仇も討とうとしない、その剣に意味があるのか? 簡単な事だろう。ただ次の条約再締結を放棄すればいいだけだ」

 完全に、その意思が無い事を判った上で、嘲笑っている。

 レオアリスは苛立つ剣を抑えた。

 抑えながらも、思わずにはいられない。

 この光景、ヴェパールが引き起こした結末を見て、何故、それでも本当に、抑える必要があるのか。

 息を、意識して吸い、吐く。

 言い聞かせるように。

(――ある、はずだ)

 条約の破棄がもたらすものを、選ぶ訳にはいかない。

 ヴェパールの嘲笑う姿。

 レオアリスには確信があった。

 恐らく、アレウス国が条約破棄を選んだ時に、その笑みは更に深まる。

「どうした」

 そう思っても、怒りが腹の底で渦巻く。怒りに連動して、剣が跳ね上がりそうになる。

(抑えろ……)

「ザインは、三百年無駄に過ごしたな。あの時、主と共に殺してやった方が親切だったかもしれん」

「――ッ」

 ギリ、と奥歯を噛む。

 その瞬間、何かに全身を叩かれた。

(何だ――)

 後ろ――、寄せた波が、いや、気配が、全身を叩く。

 レオアリスが振り返る前に、幼い、憎しみを含んだ声がした。

「――殺してやる」

 ぎくりとして、レオアリスは振り返った先のユージュに視線を落とした。ユージュはザインに縋りついたまま、二つの大きな瞳に涙を溜め、ヴェパールを睨んでいる。

 双眸に満ちた、相手を容赦なく斬り裂く光。激しい憎しみと、怒りとがごちゃ混ぜになっている。

「ユー……」

 ユージュの中で打った鼓動が、レオアリスの剣に伝わる。


 どくん。


 レオアリスはユージュを見つめた。

(まさか)

 その正体――、それに思い当たった時、ユージュの内側から何かが叫んだ。

 闇の中で雷光を見たように、はっきりと、判る。

(覚醒だ)

 先ほどよりも激しく、波が叩く如く剣の気配が肌を叩く。

 ユージュはザインの身体を抱き締めたまま、ヴェパールを睨んでいる。その腕が、光を発し始めた。

「父さんを――よくも」

 双眸が、滴る怒りで揺らぐ。

「殺してやる」

 隠しも抑えもしない、純粋な殺意がレオアリスの肌を撫でる。それは、バインドから感じたものと同じだった。

 バインドは愉悦に満ち――、ユージュは憎しみに満ちていた。

 そして憎しみに満ち黒く塗り潰されたまま、ユージュは覚醒しようとしていた。

(まずい)

 剣の覚醒はひたすら、剣の力の発露と意志が起こす暴風と対峙しなければならない。

 剣を抑えられなければ剣に意思を喰われるか、肉体を内から破壊され、破滅する。

 だから剣の覚醒には、補助者が要るのだ。

 そしてただでさえ荒れ狂う刃の風に手を突っ込むような状態で、更に怒りや憎しみのままに覚醒しようとすれば、危険は加速度的に高くなる。

(補助を)

「ユージュ」

 そう言っても、レオアリスは覚醒の補助の仕方など知らない。だが一刻の猶予もなく、ユージュの剣は姿を現わし始めた。

 ザインと同じ右腕に、骨が盛り上がる。

 ユージュはヴェパールを睨み据えたまま、発現する剣が生む、骨が変容し自ら砕け散りそうなほどの苦痛に呻いた。

 噛み締めた唇が切れ、血が流れる。身体は内から吹き上がる衝動と闘い、激しく揺れた。

「――ぁ、あ」

 盛り上がった骨が、砥石で磨ぐように鋭さを増していく。毛細血管が破れ、右腕は赤い霞を纏うようだった。

 見開かれた瞳に、明確な意思の光は無い。唇が、笑みの形に釣り上がる。

 痛みに肩で激しく呼吸しながら、ユージュは憎しみに打ち震え、笑っていた。

 剣が発現する喜び。

 斬り裂く事への、喜びだ。

 ユージュは剣に呑まれようとしていて、それに逆らう意思は見当たらなかった。

「ユージュ……! 意識を剣に集中しろ! 抑えるんだ」

 ユージュの剣が跳ね上がる。

 ヴェパールへと奔る剣を、レオアリスは右手の剣で受けた。

「呑まれるな」

 全く加減されない力が、剣に伝わる。余波が肩や腕の皮膚を裂く。

「クク……お前が私を守ってくれるのか、有難い。ザインはさぞや悔しがるだろうな」

 レオアリスは唇を引き結び、背後のヴェパールに視線を走らせた。冷酷な光が漆黒の瞳を過る。

「黙ってろ。まだ、俺の剣は一振り空いてる。この状態からでも、今のお前は捉えられる」

「私を斬れればな」

「――余り、甘く見るなよ」

 レオアリスが纏った青白い陽炎を見つめ、ヴェパールは一瞬息を飲んだ。ゆっくり吐き出す。

「――はったりを」

 それだけ言って口を閉ざした。ヴェパールもまた身動きが利かないほどに弱り、自分を回復させるのに全ての意識を集中させている。

 回復する。

 何事も無かったかのように、生き延びる。

「――」

 憤りは抑えがたいほど強い。

 それでも、ユージュにヴェパールを殺させる訳にはいかなかった。

 それは西海との条約の為というよりも、ユージュ自身と、ザインの為だ。憎しみのままに剣を振らせたくない。

 ユージュは邪魔をするレオアリスに苛立ち、闇雲に斬り付けてくる。

 闇雲の太刀筋など身を掠める訳もないが、一切の加減が無い剣は受け続ければレオアリスの剣すら押し切りそうだった。

 それ以上に、このままではユージュの精神が危うい。

(覚醒の、補助――)

 発現した剣はユージュの身体などお構いなしに、ただレオアリスと、ヴェパールを斬り裂こうとしてくる。

 ユージュの細い腕は毛細血管が破れて筋肉が限界を示すように捻れ、軋んでいる。腕の骨も、このままでは持つまい。

「――ユージュ」

 レオアリスは短く息を吐き、ユージュの剣を受けていた右手の剣を消した。途端に振り切られた刃が右肩に落ちる。剣が右肩に食い込み、骨を噛んだ。

「っ」

 レオアリスはそのまま手を伸ばし、ユージュの二の腕を掴んだ。

(思い出せ――俺は、どうだった)

 何も判らず、気付いたら剣を手にしていた。初めはただ、剣が自ら切り裂こうと動くのを眺め――、自分の意識が戻った瞬間、刃の嵐の中に放り出された。

 剣は全く自分の意志を受け付けようとせず、無力さに疲れ、全て諦めて、剣に呑まれても構わないと思った。

(何で俺は、呑まれなかったんだ)

 ふと、瞳を見開く。

 一つの光景が脳裏に浮かんだ。

 あの時――


 誰かが、剣に触れた。


 剣は束の間、ぴたりと荒れ狂うのを止めた。

(そうだ)

 バインドと対し、二刀目に呑まれそうになった時にも。

 そして、つい先ほど、暴走しかけたレオアリスの剣を、ザインはその手で掴んで抑えた。

(――)

 剣に触れる。

 一言でそう言っても、それは決して容易い行為ではない。

 暴走し、ただ相手を斬り裂く事だけを欲する剣の前に立つ事は、自らの命を剣に晒す危険な賭けだとも言えた。

 抑え切れなければ、まず補助者が斬り裂かれる。

 けれど、剣士にとって相手の剣に触れる事は、その剣士と向き合う事でもある。

 剣士としての、存在そのものと。

(そうか――)

 その考えは、すとんと自分の中に納まった。

 そういう存在なのだ、自分達は。

「――ユージュ」

 右腕を捕まれて動きを抑えられ、ユージュは苛立ち、獣のように声を上げた。瞳には既に意思の光は一切見当たらない。

 それでも、まだ間に合うと、そう確信していた。

「ユージュ」

 レオアリスは抑えていた二の腕を離し、肩を切り落とそうと食い込む刃を、掴んだ。ユージュの瞳が一瞬、驚いたように見開かれる。その瞳を覗き込む。

「――呑まれるな。この剣は、父さんから受け継いだ剣だろう」

 刃を掴む指から血が滴る。

 一言一言区切るように、レオアリスはユージュの瞳を見ながら告げた。

「君の父さんは、そんな事は望んでいない」

 できれば、このまま剣を持たないで欲しいと、そう言っていた。

「自分で良く、判ってるだろ――、ずっと、傍にいたんだ」

 押し切ろうとする剣の力が、はっきりと弛む。

 レオアリスは腕を伸ばし、ユージュの身体を抱き締めた。剣が戸惑いを(あらわ)にして、揺れる。

 ザインが――、ジンが、レオアリスに示したもの。

「戻って、生きるんだ」

 束の間の沈黙の後――

 ユージュの右腕から剣が消え、ユージュは全身の力を失ってレオアリスの腕の中で崩れた。

 抱き止めた身体からは意識が失われている。

 だが、少し眠った後に目覚めるのは、レオアリス自身が良く判っていた。

 ほっと息を吐きかけた時、ふいにユージュの身体の内側で、何かが脈打った。

「何だ――」

 まだ剣が落ち着いていないのかと眉を潜めたが、違う。剣ではなく、何か、別のものだ。

「――」

 緩めた腕から離れ、ユージュは両腕で膝を抱えて丸くなった。

 見つめる先でユージュは次第に身体の内から差す白い光に包まれ、それは繭に包まれたような光景だった。

 光の中でユージュの身体が少しずつ変貌を始めた。

 手足がすらりと、しなやかに伸びる。

 短かった黒髪が、海中にふわりと波打つ。

 幼い面差しが、ゆっくりと大人びていく。

「嘘だろ――育つのか」

 剣の覚醒に促され、ユージュの中で止まっていた時間も、目覚めて動き出したかのようだ。

 身を包んでいた光がゆっくりと収まり、現われたユージュの姿に、もう一度、レオアリスは息を飲み、驚いた。

 ザインに寄り添うように丸まっているユージュの面差しは、少女のそれだった。

「――」

 詰めていた息を吐いた時、耳を掠めるように、声がすぐ傍で聞こえた。

「可愛い子ね」

「―― !」

 振り返ったレオアリスの目に映ったのは、白く閃く布の端と、胸に戟を突き立てられたヴェパールの姿だ。

「な――」

 まるっきり、気配も無かった。

 だが離れた場所から見ても、もはや息が無いのが判る。

 例え弱っていたとはいえ、ヴェパールが何の抵抗も無く自らの戟を突き立てられた事が信じ難い。

 そしてユージュに気を取られてはいたが、レオアリスの手にはまだ剣があったのだ。

「――」

 レオアリスは左手に顕現していたままの剣の感触を確かめた。

「フィオリに良く似てるわ」

 この、声。少しくぐもり、海水と空気の膜に隔てられてはいる。

 しかし。

「――何のつもりだ。一体、何をしたい」

「手を出せない貴方の代わりに、私が手を下してあげたんじゃない」

 声の主の姿を探して、視線を配る。力を失って海中に横たわるヴェパールの姿。

 見えるのはそれだけだ。

「西海との条約がある」

「抑える必要なんてないのよ」

「抑える必要はあった。今でも」

「そんな事じゃあその内、大事なものを失うわ」

 確信的な声。見てきたかのような。

 何かを。

 呼吸を抑え、吐き出す。

 その問いを口にするのに、全身の力を使った。

「――、貴方は、誰だ」

 音は無く、だがはっきりと、笑う気配があった。すぐ後ろだ。

「判っているんじゃないの?」

 レオアリスが振り返ろうとした瞬間、重いものを水に落とすような音が続けざまに響いた。

 見上げた視線の先で、海面から次々と、泡を纏った塊が飛び込む。

 マリ海軍の水兵達だ。

 海中のレオアリス達を見つけ、器用に近づいてくる。

「――」

 レオアリスは振り返り、自分では意識しないままに、ゆっくりと溜めていた息を吐いた。

 澄み渡る海中のどこにも、女の姿は見つけられなかった。


 


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