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第4章「剣士ザイン」(22)

『――くそ』

 メネゼスは手摺りに手をついたまま這い上がってくる海水を睨み、じっと考え込んだ。

 びちゃり、びちゃりと不快な音を立てているものの、這い上がる速度はいっそ()れるほど遅い。

 その遅さがまるで、手の打ちようが無い彼等を嘲り、弄ぶようだ。

 事実、手は無い。

 マリ海軍の事情などお構い無しに、レガージュ船団は追い風を受けて進んでくる。

『前門の何とやらだな。厄介だぜ、威嚇にも撃つ訳にはいかねぇ』

 だが間違い無く、ヴェパールはもう一度、彼等に火球砲を撃たせようとしているのだ。

 海水が完全に船を覆えばそうなる。

 レガージュ船団が距離を詰めるほど、操るヴェパールには好都合だ。

『提督』

『……まあとにかくレガージュ船団へ伝令使を送れ。全船には間違ってもレガージュを攻撃するなと伝えろ』

 副官は頷いて操舵室へ向かった。メネゼスが振り返る。

「アレウスの近衛師団」

 グランスレイとロットバルトがメネゼスへ顔を向けた。

「貴侯等はヴァイパルの戦法に詳しいか」

 ロットバルトが目礼して口を開く。

「――残念ながら、実戦経験は既に三百年も前の歴史上の記録に過ぎません」

「まあそうか」

「近衛師団は水練経験もさほど。正規軍も同様でしょう」

「ほう――では、いざ戦端が開かれた時には、陸上に防塁を築き誘い込む予定だったか――レガージュに?」

 どことなく、鋭い刃を感じさせる問いだった。

 陸上に防塁を築く事により蒙るだろう街の被害をちくりと刺している。

 ただロットバルトはそこには答えなかった。当然、そんな議論をする余裕は無いのはメネゼスも承知の上だ。

「条約上、水軍を保持しない条件になっています。争う事自体を想定していません。今現在も、それは変わっていないのです」

「厄介な条約だな。すると今も――近衛は港から海上へは一歩も出ないと言う事か」

 そう言って陸を見た。飛竜の影が港の上空を飛んでいるのが判る。

「戦闘目的では。しかし」

 ロットバルトの口調が含みを帯び、メネゼスは隻眼を細めた。

「ファルシオン殿下の救出と、マリ海軍がレガージュ港沖で遭遇した不測の事態に対し、『救援』を向けたとしても問題は一切生じないと考えます」

「――」

 メネゼスは呆れを覚えて口を閉ざし、一瞬突き上げた笑いを堪えた。

『こいつぁ全く』

 アレウス国には、西海の関わりを認める気は一切無いと、そう明言しているのだ。

 要はヴェパールとの争いはマリ海軍の中で収めてくれないかと、そういう腹積りでいて、隠しもしない。

『この期に及んで拘るか。既に破綻してると思うがな』

『堅持しています。今後も』

 独り言のつもりだったがそう言えばマリ語を解したかと、メネゼスは肩を竦めた。

 ロットバルトはてらいも無く続けた。

『そもそも海戦など、我々がにわか仕込みでやったところでマリ海軍の足元にも及びません。火球砲を有するマリ王国海軍は南海の覇者でしょう』

『海戦にならねぇんだよ、判ってんだろうに』

『期待を掛けていましたが』

『そりゃ有難い。だが足が動かねぇんじゃ意味がねぇ――せめて目標が見えりゃあ少しは違うがな。大体俺達の船はこんな状況を想定して造られちゃいねぇんだ、北の氷の海に行く奴でもない限り、足が固まるなんて状況は考えやしねぇ。まあこの鬱陶しい代物は破砕もできなさそうだが』

 メネゼスは這い登る水に眼をやった。

 ぶよぶよと形が無く、鎚の勢いなどあっさり飲み込むだろう。

『情けねぇ話だが、諦めて船を放棄するしか手が無い』

 メネゼスは諦めた様子は微塵もなく、そう言った。

 ロットバルトは一旦メネゼスの隻眼を見つめ、一礼した。

「――力が足りず、申し訳ありません。我々もレガージュ船団へ伝令を向けます。彼等が納得して引き上げるのが先か」

 ヴェパールの支配が先か。

 ロットバルトは背後のファルシオンへ視線だけを向け、もう一度マリの言葉に変えた。

『万が一の場合、ファルシオン殿下だけは何を於いても、この場から退避させていただきます』

『それがいい』

 ゆっくりと、レガージュ船団が確実に射程に入るのを待つようにヴェパールの操る海水は船体を這い登り、だが今や船首に開いた火球砲の砲門に達しようとしていた。

 四角い窓を越え、びしゃりと音を立てて、砲室に海水が落ちる。寒天のようにぶるぶると震え、あたかもそういう生き物のようだ。

 足を這い上がってくるそれを水兵達が慌てて払い落とすが、切りが無い。

『は、入って来ました!』

『提督、ご指示を』

『これは一体』

 伝声管がひっきりなしにメネゼスの指示を求めてくる。

 メネゼスは今や船体の三分の二までを覆っている海水を睨んだ。

 櫓を漕ぐ事もできず、風を捉える為の回頭もできない。

 ファルシオンを船で送り返し、レガージュ船団へ意思を示す事もできない。

 あと少しすれば、火球砲はマリ海軍の意思とは無関係に、レガージュ船団に撃ち込まれる。

 メネゼスはゆっくり、息を吐いた。

『――まだ火球砲は操れるな』

 副官はメネゼスの横顔を見た。長年従った上官の考えを汲み取り、額を青ざめさせる。

『提督――』

『自分の意思で操れる内に砲門を破壊するしかねぇだろう。レガージュ船団に撃ち込んだら本国を確実に巻き込む事になる』

『――』

『それなら船団と引き換えた方がまだ安い』

 メネゼスはあっさりとした口調でそう言ったが、副官はぐっと奥歯を噛み締めた。

 この船団は、メネゼスが腕一本で作り上げてきた、いわばメネゼス自身だ。

 マリ王国海軍は七つの船団を持つが、船団の半数もの船が火球砲を備えているのはメネゼスの船団を入れて二つ――王国第二位の海軍船団だった。

 軍船の下賜は、国王の信頼の証――

 彼等、メネゼスが率いる水兵達の誇りでもある。

『すまねぇな。――火球砲を発動させたら、全員船尾に退かせろ』

『いえ―― !』

 副官は返す言葉が見つけられず、踵を打ち付け、敬礼した。

 彼から視線を外し、メネゼスは再びグランスレイとロットバルトを見た。

「アレウスの――王太子殿下を港に送った方がいい。それから、兵の救出に飛竜を出してもらえると有難い」

「――了解しました」

 グランスレイはメネゼスの選択を察して黙礼し、フレイザーへと合図を送った。

 ロットバルトはファルシオンの前に膝を着いた。

「殿下、状況が変わっています。貴方はいつでも、法術士と港へ飛べるようにお待ちいただきます」

 いやだと反対するかと思ったが、ファルシオンはじっと俯いている。

 ロットバルトはファルシオンを促そうとして手を止めた。

 ファルシオンの瞳に、金色の光が揺れている。

「――あれは、何?」

「殿下?」

 ファルシオンの視線は甲板に落ちていた。

 いや、それよりも先を、ファルシオンは見ている。

「緑色の――光がある」

「光? ……どこに」

「海中だ――」

 指を差す。

 メネゼスはファルシオンを見て、船縁から海中を探った。

 ファルシオンが指差したのはちょうど隣り合う三番船との間辺りだ。

『――あれか』

 光を反射する波間に、微かに揺れては隠れる緑の玉が見える。

 海中の――

『水深は判らねぇな。――』

 二、三拍、呼吸を止める。

 ファルシオンは先ほど、セルメットに化けていたヴェパールの正体を見破った。

 すうっと息を吸う間に意思を決め、拳で手摺りを打った。

 伝令官を振り仰ぐ。

『全船へ通達しろ。海域を離脱する―― ! 火球砲を、下方七十五度へ向けろ!』

 メネゼスの号令が各船に伝わり、船上はにわかに慌ただしさを増した。火球砲を備える五隻の砲室では、砲手が粘つく水を踏み分けて砲身へ寄った。

 術式が発動し、鋼の砲身を光の文字が円となって回る。

『一番船と三番船は目視で緑の光を狙え! 他は狙いは要らん、合図と同時に、とにかく海中に撃ち込め! 砲撃後回頭、南進する』

「マリが火球砲を撃ちます。殿下、お身体を低く」

 意識を海面に奪われていたファルシオンは、火球砲という言葉にはっとして顔を上げた。

「ダメだ、うたないで―― !」

 あの光の傍には。

 ファルシオンの制止は、メネゼスには届かなかった。

『撃て!』

「ロットバルト、止めて、レオ……」

 割れ鐘のような音を立て、火球砲の砲門が一斉に火を吹いた。大気が烈しく震える。

 ロットバルトがファルシオンの耳を被うようにして身体を抱え込み、その肩ごしにファルシオンは青い空を見た。

 幾つもの水柱が吹き上がり、水が砕ける音が弾ける。

 振動が船体を揺さ振る。

 甲板やそこにいた者達の上に、海水が雨のように降り注いだ。

「――ああ!」

 ファルシオンは鋭く悲鳴を上げたが、辺りを圧する音に掻き消された。




「何だ―― !」

 レガージュ船団の男達は、マリ海軍が海面に向けて火球砲を撃ち込んだ事に、驚きの声を上げた。

「海中に撃ったのか?」

「あいつら、何やってやがるんだ――」

 マリの伝令使が戦闘の意思なしと伝えた時には一顧だにしなかったが、目の前のこの行動はさすがに頬を(はた)かれたような効果があった。

「速度を落とせ―― !」

「おかしいぞ」

 帆を操って風を逃し、レガージュ船団の三隻の船は徐々に減速していく。

 その帆柱の上を三騎の漆黒の飛竜が一旦通り越し、それから騎首を戻して旋回した。

「おい、近衛師団だ」

 三隻それぞれに飛竜が降下すると、舳先の辺りに浮揚した。

 船団の男達が駆け寄る中、飛竜の背から近衛師団隊士が声を上げる。

「王太子殿下はご無事だ。ファルカン団長の尽力もあり、マリ王国と我が国との間の誤解は解けている」

「団長が?」

「じゃあさっきのマリの伝令使は本当だったのか――でもじゃあ奴ら、何を相手にしてるんだ」

 驚いてマリ海軍を眺める船団員達の上を次々、近衛師団の飛竜が駆け抜けて行く。次いで紅玉の鱗の、正規軍の飛竜も飛んだ。

 船団員達は戸惑いながらそれを見上げた。

「どうなってんだ」

「マリが回頭してるぞ」

「おい――あれを!」

 指差した先でマリ海軍の軍船が回頭し、南進しようとしている。

 その船の後を、波ををぐぐ、と(もた)げ、海が追うのが見えた。






「ザイン、待ってくれ」

 領事館の廊下を歩き時折ザインに背中を押しやられながら、ホースエントは何度も後ろを振り返った。

「私は、本当にヴェパールとは」

 ザインは厳しい眼差しを崩さず、ホースエントの言葉を聞き入れる素振りも見せない。

 床に厚い絨毯が敷かれているせいか、それとも港の騒ぎに出払ってしまっているのか、廊下には誰も出て来ない。

 誰かが二人を見つけて止めてくれればとホースエントは何度も思ったが、願いは全く叶わないまま、寝室の前に着いてしまった。

 ザインはホースエントの右腕を掴み、もう一方の手で扉を開けた。

 さっと光が差す。

 前面に並ぶ何枚もの硝子の折れ戸から陽光が差し込み、室内は光に満ちていた。輝く青い海が硝子戸から覗いている。

 二間ほどの前室があり、扉は無く主室へ続く造りだ。白い漆喰の塗り壁と、青や橙、黄色をちりばめて模様を描いた陶器の床。同じく陶器で造られた寝台の柱と天蓋。

 その鮮やかで平穏という言葉が相応しい部屋へと、ザインはまるで違う場所にいるように、凍てついた空気を纏って踏み込んだ。

 前室との境に立ち、明るい室内に視線を巡らせる。

「どれだ?」

「ど、どれとは」

 ホースエントの背中をぐっと掴んで部屋へ押し込む。ホースエントはつんのめってから振り返った。

「ヴェパールを呼び出す小道具があるだろう」

「そんなものは……」

 ホースエントの視線が泳ぐ。その先、寝台の反対側の隅に一角、長い布が覆い隠すように垂らされていた。

 ザインは歩み寄り、布に手を掛けた。

「ま、待て」

 構わず布を引く。天井に仮留めされていた布が外れ、空気を孕んで落ちる。

 その向こうに、小さな円卓に乗せた水盆があった。

 両腕で抱え込めるくらいの直径で、深さは親指の関節ほどしかない。

「手を洗うとも思えないな――これか?」

「ち、違」

「お前は判り易い。どうやればいい」

「知らない」

 ザインは苛立ちの混じった溜息をついて身を返し、ホースエントの前に立った。

「知らないはずがないだろう。ヴェパールをここに呼び出せ。今すぐにだ」

 ホースエントは必死に首を振った。

「本当に、し、知らないんだ……! 私は、私から呼び出した事は無いんだ、いつもあいつが、勝手に」

「嘘を言うな。俺がこの場でお前を斬らない保証はないぞ」

「本当だ!」

 ザインはホースエントの眼を正面から覗き込んだ。

 ホースエントの喉が緊張に動く。

 今にも剣を現わしかねない、息が詰まるほどの気配に、恐怖が募る。

 実際今にも――、ザインはホースエントを切り裂くかと思えた。

「ひ、ひぃ」

 恐怖のあまり、ホースエントはガチガチと歯を鳴らし、ぐっと眼を瞑った。

「知らない……知らないんだ本当に」

「――」

 ザインはホースエントの有様を眺め、苛立ちに奥歯を噛み締めた。

 どうやらホースエントは本当に知らないようだ。

 何一つ。

 右腕の剣が騒めく。

 ゆっくり、目の前のホースエントが気付かないほどにひどくゆっくりと息を吐き、ザインは沸き起こる怒りを抑えた。

 ゆっくり、三度。

 苛立ちのまま、ホースエントを斬り捨てたい衝動を。

 ザインはホースエントを見、部屋の片隅の水盆を見た。

 ヴェパールへ直接辿り着く手掛かりだと思っていた。

 届くと思って手を伸ばしたところで、足元の梯子を蹴り飛ばされたように感じられる。

 硝子戸の外へ眼をやる。露台と港の先に張り出した岸壁に阻まれ、マリ海軍や港の様子は見えない。

(初めから船で出ていれば――)

 だがそれでは、ヴェパールに近付ける根拠が無かった。可能性が高かったからこそ、ここに来たのだ。

 憤りが溶岩のように胸の内で沸き起こっている。

「――」

 ホースエントはそろそろとザインから離れ、ただ扉へは行けずに硝子戸に寄った。

 ザインの怒りが肌に伝わって来る。これほど焦り、怒りを纏うザインの姿を、ホースエントはこれまで見た事が無かった。

 剣士を恐ろしいと思った事は無い。

 だが今は、恐ろしかった。

 心底。

 陽光に満ちて暑いほどの部屋が、凍り付くように感じられる。

 逃げ出す道を探してホースエントは窓の外へ目をやった。

 ホースエントの立っている場所からは、港が見える。ちょうどレガージュ船団の船が、沖を目指し岸壁を回り込んで行くところだった。

 何の目的で船を出したのかは判らないまでも、ホースエントは思わずザインを呼んだ。

「ザイン――」

 だが、そのままホースエントの視線は固まった。

 ザインは硝子戸側を向き部屋の中央に、ホースエントは硝子戸の傍にザインを挟んで隅の水盆と向かい合う形で立っていた。

 ザインの向うに水盆が見える。

 その表面が、微かに波打っていた。

 ホースエントは目を凝らしてまじまじと見つめ、それからひゅっと息を吸い込んだ。

 ザインが気付いてホースエントへ視線を向ける。

「何だ」

「あ、あああれ」

 ホースエントが指を上げ、それを追って、ザインは水盆を見た。

「――」

 ザインは水盆に向き直り――、笑みを浮かべた。

「どうやら、向こうから訪ねて来たようだな」

 再び水盆に近付く。

 水盆がさざ波を立てている。それは次第に揺れる幅を増すようだった。

「ザ、ザイン……あ、あ、危ないぞ……」

「――」

 黒く鋭い眼差しに、光が踊った。

 ザインの右腕が盛り上がり、剣が生じる。

 さざ波はすぐに大きくなり、水盆から零れ落ちそうなほど渦巻いた。

「ザイン―― !」

 ザインは水盆に生じた渦の中心を睨んだまま、動かない。

 硝子戸に背中を押し当て、ホースエントは震える声を張った。

「ザイン、に、逃げた方がいい」

「――違う」

 低く声を押し出し、ザインは渦の中心から、ゆっくり眼を上げた。

 動いているのは水そのものではない――

 水盆の水を波打たせているもの、その原因は、ザインの目の前にあった。

 細く。

 風が渦を巻いている。

 小さな竜巻のようだった。

 それが水盆の中心に立ち上がり、浅い水に渦を作り出している。

「な……」

 ホースエントが良く見ようと首を伸ばした時、不意に水は、内側から砕けるように散った。

「!」

 水しぶきが硝子の玉のような固さでザインに叩き付ける。

 渦巻く風が弱まり、その中心に、白い爪先が降りてくる。

「ひっ」

 ホースエントは息を吸い込みながら短く悲鳴を上げた。

 風の渦の中に、足先から、人の姿が現われる。

 風が中空を彫るように、形を作り上げていくかに見えた。

 ほっそりとした足。身に纏う薄布が風になびく。

 ほころぶ花のような笑みを浮かべた唇。

 ザインは右の拳をぐっと握り込み、数歩、――足を退いた。

 暁を思わせる、紫の瞳。

 耳の下辺りで切られた緩く波打つ黒髪。

 美しい、どことなく少女を思わせる空気を纏う女だった。

 ザインの右手の剣が、微かに白い光を帯びる。

「――誰だ」

 低く鋭い、だが抑えた声の響きに釣られ、ホースエントはザインの背中を見た。

 ホースエントにも判るほど、ザインは緊張している。

 ザインが。

 女は、微かに笑った。風が揺らす花弁の触れる音を思わせる。

「初めまして――会えて嬉しいわ。剣士ザイン」

「誰だ」

 もう一度、ザインは低い声で尋ねたが、先に答えたのはホースエントだった。

「さ、さい……西方公――!?」

 裏返った声で叫んで、ホースエントはその場に突っ伏した。

「こ、このような場に――わ、わたくしは、その」

 先日のファルシオンの祝賀で遠目に眺めた、その人物だ。

「――西方公?」

 ザインはホースエントを見つめ、再び女に視線を戻した。

「そそ、そうだっ! お前も、ザイン、ひ、膝を着け!」

「――」

 だがザインはぐっと歩幅を開いて立ち、女を見上げた。

「何故、西方公がここにいる?」

「ザイン!」

 ホースエントは真っ青になって怒鳴った。

 女――ルシファーの唇に浮かんだ笑みが深まる。

「お前の事は良く知っている。ずうっと、気になっていたの。――そう、私たちはお互い似た境遇だとでもいうのかしら」

 歌うように涼やかに、柔らかな口調だった。

 だがザインには、そうは感じられなかった。

 感じているのは、剣に伝わる振動――

「でも、私とお前とは決定的に違う」

 その瞬間だけ、ふっと紫の瞳が陰った。

「――」

 危険だと。

 剣が振動している。

 ルシファーの瞳がザインの右腕の剣に落ち、笑った。

 ただそれだけの仕草に、すうっと背を冷たい手で撫でられる感覚があった。

 水盆の少し上に浮いているルシファーと向かい合う。まるで体重を感じさせない。

「――このレガージュに、何の用でいらしたのか」

「守護者らしい言葉ね。でもレガージュには用はないわ。あるのは、」

 軽やかな笑いを含んで告げる。

「ザイン、お前」

 ザインは無意識に奥歯を噛み締めた。

 底の知れない、明け方の光に払拭される前の闇を孕んだ、紫の瞳。

 剣が急き立てる。

 今すぐに。



 斬れ。



「――」

 その意思に触れながら、ザインは少なからず、驚きを覚えていた。

 剣は――

 剣は、怯えているのだ。

 だがそれ以上に、ルシファーの次の言葉に驚いた。

「もしお前が望むなら、――ヴェパールに会わせてあげるわ。少しくらいは力も貸してあげられる」

「――どういう」

 どういう事だと尋ねかけて、釣り込まれる事に危機感を覚え、ザインは一旦口を閉ざした。

 同時に幾つもの疑問が頭に渦巻いている。

 何故、たった今現われたこの女からヴェパールの名が出るのか。

 力を貸すとは。

 会わせると言ったが、何故ザインの置かれた状況を知っているのか。

 何故、この領事館に現われたのだ。

(まさか、全てを見ていたとでも――?)

 何の為に。

「ここに居てもヴェパールは出て来ないわ。今はマリ海軍の相手をしているし」

「――」

「それにちょっと困ってるのよ。レオアリスが、危険な状況で」

 ザインはぴくりと剣先を動かした。視線が一瞬、硝子戸の向こうの海に流れる。

「助けなきゃね?」

 何でもない相談をしているように、ルシファーは両手の指先を絡めて頭を傾けた。

「――貴方は、何を、どこまで――知っている。この件にどこまで関わっている? 何が、目的だ」

「あら、今言ったと思うけど」

「貴方の言葉の、どこに真実があるのか俺には判らない」

「そんな事を聞いている暇はあるの?」

 ルシファーはザインを見下ろし、困ったように微笑んだ。そして肩を竦める。

「まあ、そうね。……私はあの()を、余り泣かせるつもりはないの。困るのよ、このままだと――、色々とね」

 ザインは僅かに苛立ちを昇らせ、ルシファーを見据えた。

 剣士としての直感だ。

 この女は優しく親密な言葉を囁く。


 信用すべきではない。


「――仰る意味が判らないな。貴方は敢えて俺を惑わせようとしているようだ。申し訳ないが、これで話は」

「フィオリ・エルベを知っているわ」

 それまでザインが纏っていた空気が、一変した。

 ルシファーの言葉に対する疑念に取って代わり、表情に渦巻く葛藤が浮かぶ。

 ルシファーの示そうとしているものへの興味と、警告。

 そしてそれ以上に、その名がもたらす希求、喪失。

 飢餓。

 ルシファーは面白そうに瞳を煌めかせ、それを眺めた。

「私もかつては、この辺りを良く訪れていたの。三百年前までのことよ。その時、まだ少女の頃の彼女に何度か会ったわ。彼女はレガージュの領主の娘だったしね」

「――」

 ザインは黙ったまま視線を床に落とし、両手を握り込んで立っている。

「とても可愛らしい少女で、その中に聡明さがあった。長く続く戦乱を幼い頃から憂えていたわ。彼女の微笑みや彼女との会話を、私もまだ覚えてる。彼女の言葉は、自然と人に力や希望を与えるようだった――」

 ルシファーはザインをじっと見つめたまま、言葉を継いだ。

「彼女の事は私なんかが語るより貴方の方が詳しいわね。あなたの主で――、大切な伴侶ですもの。ただ一人の」

 囁くように、悼むように告げる。

「一緒にいられたのは何年? 二年か、三年だったかしら。たったそれだけで奪われてしまった。でも――」

 風が囁く。そこに何か、意識を逸らしがたい欠片があった。

 何かの、感情。

「忘れられるはずがない」

 ザインの表情は見えない。

「私たちは、ただの昔話にはできない。過去に押しやる事は。――違う?」

 ルシファーはふわりと水盆の前に降り、ザインへ左手を差し伸べた。

「お前は選ぶ事ができる」

 ザインはゆっくり顔を上げた。

 ルシファーがその唇に、鮮やかに笑みを刷く。

「私が手を貸し、仇に(むく)いるか、――それとも、ここで何もせず崩壊の始まりを眺めるか」

 ザインはしばらく黙ってルシファーを見つめていたが、その視線を差し出された白い手に落とした。

 後ろめたさを隠す時にするような、視線を逸らしたようにも見える仕草だった。

「……ヴェパールを俺の前に連れて来れるのか」

「連れて来るんじゃないわ。あなたが行くのよ」

「ザ、ザイン」

 ホースエントが硝子戸に背を押し付けながら首を振る。

「だ、だ、駄目だ」

 炸裂音が響き、部屋の窓が振動で割れんばかりにびりびりと鳴った。

 火球砲だ。

 先ほど港に撃ち込まれた時の比ではない。

 マリ海軍が全ての火球砲を一斉に撃ったのだが、そこまではザインには判らず、ただ、ザインの中に焦りを生んだ。

 誰と、戦っている――?

 落としていた視線を戻す。

「――いいだろう。乗ってやる」

 ザインはそう言うと、あっさりと差し出された手を掴んだ。

「もう私の思惑は聞かないの?」

「必要無い。従う気も無いからな」

「――いいわ」

 ルシファーの口元の笑みが広がる。

 細い身体と、ザインの周りを風が取り巻き始める。

「ザ」

 ホースエントはおろおろと二人を交互に見た。

 引き止めるべきだと判っていながら、喉の奥に舌が張り付いたように声が詰まり、口に出す事ができない。

「――ザイ」

「父さん!」

 幼い、高い声が走った。

 ザインは打たれたように肩を揺らし、それから振り返った。

 戸口に立っているユージュを瞳を見開いて見つめ――、視線を逸らす。

「父さん待って」

 ザインは聞こえていないかのように、もう全く振り向こうとしない。

 ユージュが駆け寄る。

「行っちゃダメだ―― !」

 伸ばした手が父の腕を掴めずに、風に弾かれる。

「父さん! 行かないで!」

 父が何をしようとしているのか、ユージュには判っていた。

 そうしたらもう、戻って来ない。

「父さん―― !」

 ルシファーはユージュを見つめ、堪らない遊びを見つけた子供のような笑みを浮かべた。

 二人の姿が消える瞬間、ルシファーは右手を延べてユージュの手を掴んだ。




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