表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/81

第4章「剣士ザイン」(21)

 二発――

 二発目は外れたとはいえ、撃ち込んだ事実は変わらない。

 フィオリ・アル・レガージュの港は遠目に見ても慌ただしさを増していた。飛竜が次々と港に舞い降り、また上空に上がる。

 マリ海軍の船団は落ち着きなく騒めいていたが、甲板にメネゼスが姿を現わした瞬間、さっと空気が変わった。

『提督―― !』

 司令船の水兵達が安堵の表情を浮かべてメネゼスのもとへ駆け寄る。先ほどフレイザーと話した士官が忙しく踵を鳴らした。

『申し訳ございません提督! 十番船が二発砲撃を――、その、何度も停船命令を発しましたが止まらず、先ほどようやく』

『落ち着け――』

 斜め左前方に、十番船が船体を揺らしながら停まっている。甲板の上に動く気配はない。

 メネゼスは視線を巡らせ、甲板から船団を見渡すと朗々と声を張り上げた。

『聞け―― ! 十番船に関わらず、いかなる砲撃指示も出してはいない! ただ、十番船が砲撃した原因は、既に把握している。それはお前達の不手際じゃあねぇ』

『―― !』

『改めて全軍に告げておく』

 兵士達はメネゼスの言葉に耳を傾けて静まり返り、そしてぐっと顎を引いた。

『会談の場に於いてレガージュへの疑いは解けた――我が船団にレガージュへの攻撃意思は一切無い! もう一度、確実に船を自らの意思の(もと)に置いておけ!』

 全兵士が一斉に踵を打ち鳴らし敬礼する音が、大気を揺らす。

 船団は完全に落ち着きを取り戻し、水兵達は船の点検に動き回り始めた。

 もう一度全体を見回してそれを確認し、メネゼスは隻眼を細めた。十番船を動かしたのはヴェパールだが、何をしたのか。

 視線を士官へ向ける。

『報告しろ。撃った経緯、着弾状況、十番船の様子だ』

『はっ!』

 メネゼスがファルシオンを乗ってきた船へと導く仕草を見せると、近くにいた水兵達はファルシオンを送る為に敬礼を向けた。

 ファルシオンがこの船に来た時には一切無かった行為が、水兵達のメネゼスへの信頼を伺わせる。

 その間にも士官の報告が続く。

『十番船はいきなり砲撃しました。その後レガージュへと前進し、二撃目を――。指令に対しても返答は無いままです。ただ二撃目の発射直前に一瞬、その』

 見たものを口にすべきか迷って、士官はメネゼスを見上げた。

『何だ。どんな些細な事でも残さず伝えろ』

『その、制御を失ったように見えました。膜が落ち……』

『膜?』

 復唱され、士官はますます自信の無い口調になった。

『膜、いえ、何か、船全体を覆っていたようなものが落ち、海面がうねって――その振動で船体が大きく振られた為に、砲撃の着弾が逸れています』

『なるほどな』

 ただメネゼスはそれで納得したように頷いた。レオアリスの剣が引いた青白い光の帯を思い出し、口元を吊り上げる。

『だいぶ運がいい』

『提督?』

『いや、お前達の見たそれが、おそらく事の核心だろう。十番船は今どうしてる』

『現在確認の為に九番船が寄せています。まだ十番船からの返答はありません』

『迂闊に乗り込むなと伝えろ。少し様子を見る』

『は―― !』

 士官はメネゼスの指示を伝える為に通信官に駆け寄った。

『奴等が気付いたものが全てなら、もう十番船への支配は解けているだろうが』

『そう思いたいです』

 副官が張り詰めた面持ちで頷く。メネゼスは足元の甲板に視線を落とした。

『あれを抑えている限りは、か』

 レオアリスの剣から発される身を切るような気配――そしてそれと同じく、ヴェパールの戟からも圧倒的な力を感じた。

 いずれも互いを凌ごうとし、力を削ぎ合う。

 刃を交えるごとに生じる余波が、足元に伝わるようだ。

『だが、互角とは言えねぇ。不利は(くつがえ)らん』

 足場が限定されている。既にその時点で、レオアリスとヴェパールは同じ条件下にはいない。

『提督?』

 メネゼスはファルシオンを見た。

 ちょうど船の間に渡し板が渡されたところだ。ファルシオンは不安そうな瞳を、片時も逸らさず足元に向けている。

『――早く王子を港へ送りたいな』

 そう呟いた時、船縁にいたファルカンが手摺りに手を付いて身を乗り出した。

「船団が」




「――我慢できねぇ……! 俺は出るぞ!」

 レガージュの港に集まっていた船団の男達の一人がそう吐き出し、荒々しい靴音を立てて桟橋を停泊している船へと向かった。

「おい、カリカオテは待てと」

 引き止める一人の傍らで、別の男が駆け出す。

「俺も行く」

「待て――、まだ会談の結果が」

「会談? ファルシオン殿下と、団長が話に行ってから撃ちやがったんだ! まだ戻って来てもいねぇのに――、二発もだぞ? 会談なんてとっくに終わったんだよ!」

「そうだ! 黙って突っ立ってたら焼かれるだけだ!」

「正規軍と近衛師団は動いてない――指示があって様子を見てるんじゃ」

「俺達の街だ――船団がレガージュを守らなくて、何の為の存在だ!」

 三人目が駆け出し、それが後押ししたかのように、気持ちを決めかねて立ち尽くしていた船団の男達全体に広がった。

 競うように船に乗り込み、巻き上げていた帆を降ろす。

 気付いたカリカオテが止める間もなく、停泊していた三隻のレガージュ船団の船は、風を掴んで動き出した。

 彼等を指揮し、今であれば無謀な行動を抑えるファルカンもいないまま、攻撃された事への恐怖と、それを上回る怒りが満ちていた。

 レガージュ船団の男達は次第に距離を狭めていくマリ海軍の船影を睨んだ。

 マリ海軍の軍船とレガージュ船団の船とでは、例え一対一だったとしてもレガージュの不利は明らかだ。

 接舷する前に火球砲を撃ち込まれたらレガージュ船団には勝ち目など無い。

 それでも、止まる気は無かった。

「船をぶつけてでも――、一隻だけでも沈めるんだ」




 緊迫した声の響きに引き寄せられ、メネゼスもファルカンの視線の先を追った。

 ファルカンが見ているものはメネゼスからも見えた。

 港に停泊していたレガージュ船団の船に白い帆が張られている。レガージュ船団が動き出していた。

『王子の出迎え、じゃあねぇだろうな。――二発も受けて、さすがに収まりが着く訳がねぇか』

 だが今さらレガージュと戦闘になるのは、何も意味が無い。

『伝令使を出せ』

『レガージュ船団が信じますか』

『一割だな。俺達に説得の根拠がねぇ――今度はな』

 つい半刻前のアレウス国と同様だ、と口元に皮肉の笑みを刷く。

『どのような』

『くどくど言っても混乱する。一言、戦闘の意思無し、だ。王子を始め、一人も欠けず来た船で戻る――。いや、一人もとは言えねぇか』

 レオアリスは退けまい。メネゼスが再び甲板に視線を落とした時だ。

 足元のすぐ下で、振動が響いた。木の板が砕ける音。

『船を壊すなと言ったろうに……』

 呆れた口調は続く水音に一旦閉ざされた。

 メネゼスの隻眼が水音を追い、次にファルシオンへ向かう。

 ファルシオンはグランスレイに促され、船の間にかかった渡し板をちょうど渡ろうとしていた。再び足元が揺れて、グランスレイが抱え直す。

 渡し板が外れて手摺りの向こうに消えた。

 ファルシオンは危うく海に落ちかけた事さえも気付かないまま、金色の瞳を見開き、真っ青な顔で水音のした方向を見つめていた。




 全身を冷えた水が包み込んだ。

 叩きつけられるように落ちたせいで勢いが止まらず、数間もの深さへと一息に沈む。

 自分がどこを向いているのか、一瞬全く判らなかった。大量の白い泡が身体を覆い、すぐに消えていく。

 消えていく先に、揺れる丸い光が見えた。

 円が零れ、また結ばれ、零れる。

 揺らぐ円の周りに巨大な影が幾つも揺らいでいた。

(船――と、太陽……?)

 あれが海面だと判った瞬間、不意にその丸い光が弾けた。

 海面を破って黒い影が飛び込み、影から伸びた手がレオアリスの喉を掴む。

「!」

 立ち昇る白い泡のすぐ向こうに、ヴェパールの平べったい顔が覗いている。

 喉を締め上げられ、噛み締めた歯の奥から泡が零れる。

 食い込む指に左手を掛けたが、全く外れる気配が無かった。

 息が保たない。

 その間にも身体は(とど)めるものもなく沈んで行く。

(不味い……)

 黒い影のようなヴェパールの向こうに、水面に差す陽光と浮かぶ船が見える。

 ファルシオンやスランザール達はまだ、あのどこかの船にいるはずだ。

(水面、に、出ねぇと)

 ファルシオンを。

 右手の剣を握り込んだ瞬間、その動きが見えたかのように、手首をヴェパールのもう一本の手が捉えた。

(く、そ――、動きが……)

 視界が霞み始めている。

 手足に海水が重く纏い付き、踏みしめる大地も無く、ただ沈んで行くだけだ。

 海中ではこの状況に陥る事は判っていた――いや、これほどまでに自由が利かないのは、確かに想定外だった。

 自分の甘さに怒りを覚える。

 ファルシオンを、必ず守ると誓ったはずだ。

 王に。

 それを。

 どくん、と、身体の中で鼓動が鳴った。それが耳の奥にくぐもって響く。

 ヴェパールの手が、咄嗟に退こうとして一瞬弛みかけ、すぐに再び力が籠められた。

「……せっかく我が領域に招待したのだ、楽しんでもらいたいところだが――」

 ヴェパールの言葉は船上にいた先ほどまでよりも、耳にはっきり届いた。

「まずはマリ海軍を動かさないといかん。悪いが、お前の相手は後回しになる」

 ヴェパールの胸が、微かにさざ波を生じているのが、霞む視界に映る。

「それまで生きていればな」

(不味……い)

 そう思った直後、さざ波の中心から三叉の戟が飛び出した。

 動きを封じられたまま避けようもなく、戟は深々と、レオアリスの胸に突き立った。

「――ッ」

 すぶり、と肉に食い込む。

 のけ反った喉の奥からは声は音にならず、代わりに肺の奥に残っていた僅かな酸素が零れる。

 海水が赤く血に染まり、それもすぐ流れに散らされる。

 戟は三つの刃先が背中から覗くまで埋まり、動きを止めた。

(――)

 見開かれた瞳が浮かぶ船影を捉え、次第にただの硝子玉のように、その奥から光が失われて行く。

 右手の剣が一度明滅し――、

 掻き消えた。

 ヴェパールは手を伸ばして髪を掴み、顔を覗き込んだ。

 瞳は半ば開かれ、だがヴェパールの姿を捉えてはいない。

「戟はしばらく預けておこう」

 低く笑い、掴んでいた手を離した。レオアリスは指先一つ動かさないまま、ヴェパールの足元に浮かんでいる。

 その向こうで一度光が明滅し、暗い水の底から、拳ほどの大きさの緑の光が上がって来た。

 光はヴェパールの胸の前に止まり、ゆっくりと揺れてたゆたう。

 ヴェパールは海流に服の裾を揺らしながら、光の差す海面を見上げた。

 銀色の平らな両眼に海面に浮かぶ全ての船影を映す。

 ふと前方に視線を止め、瞳を愉快そうに細めた。

「レガージュが、ようやく動いたか」

 緑の光が明滅し、ヴェパールを中心に海流が揺れた。




 ファルシオンはグランスレイの手を振り払って、船の手摺りを掴んで海を覗き込んだ。

「レオアリス!」

 はっきりと、そう言った。

 グランスレイとロットバルトは視線を交わし、ひと呼吸もなくロットバルトは足を船室へ向けた。グランスレイがファルシオンの肩を引く。

「殿下、ここは危険です、どうぞ船縁からお離れください」

「――」

 ファルシオンはグランスレイの声も聞こえていないように、金色の瞳を見開き、手摺りの隙間に覗く青く輝く水面を見つめている。

 グランスレイは状況をほぼ理解しながらも、無意識に息を潜め、ロットバルトが降りた船室への階段を睨んだ。



 つい先ほどまで会談が行われていた部屋へ駆け込み、ロットバルトは奥歯を噛み締めて立ち止まった。

「――」

 レオアリスの姿も、ヴェパールの姿も無い。

 扉の正面の板壁に大きく亀裂が開き、その向こうに空とマリ海軍船の船体が覗いている。

 あの剣の気配すら無い。

 ロットバルトは割れ目に寄って海面へ視線を走らせ、壁に拳を叩き付けると、踵を反した。

 一番、避けたかった展開だ。水中に落ちたとなると、どう考えてもレオアリスに有利な要素など無い。

(元々足場が限定されている分、可能性は高かったが……いや、元からほとんどがヴェパールの領域か)

 ただここが西海ではないという、それだけの地理的優位しか初めから自分達には無かったのだ。

 だが、それも承知の上であり、西海がここまで大胆に絡んでくるとは想定できていなかった時点で、不利を挙げても始まらない。

(今は――)

 再び陽差しに晒された甲板へ戻る。無言で問いかけるグランスレイへ一度視線を向け、それからファルシオンの傍らに膝を着いた。

 ファルシオンは真っ先に、咳き込むように尋ねた。

「レオアリスは?!」

 あの船室を見てきたかのように、ファルシオンは大きな金色の瞳に不安を浮かべている。ロットバルトはそれには答えなかった。

「殿下、貴方は船へお移りください」

「いやだ」

「――安全な場所へ身を置くのも、殿下の務めの一つです」

 安全、と自分で口にしておいて、ロットバルトは心の内だけで笑った。

 自分達に許された領域は、今となっては不確かに浮かぶ僅かな範囲でしかない。

 近衛師団はもとより、マリ海軍でさえ、能力が機能するのは海上戦に於いてだ。

 一体どこが安全と呼べる場所だと言うつもりなのか。

 ロットバルトの僅かな迷いを読み取ったのか、ファルシオンはまた首を振った。

「レオアリスはどうしたんだ」

「心配ありません。殿下をお守りする為に別の場所におりますから」

「――うそだ」

「殿下」

「そなたはうそを言ってる」

 ファルシオンの瞳を見て、ロットバルトは少しだけ困ったように口調を緩めた。

「どうぞ近衛師団の役目をご理解ください」

「やくめ?」

「何があっても、殿下を第一にお守りする事が近衛師団の使命です。今は確実に、その使命を果たさなくてはなりません」

「……そん、な」

 唐突に先日のレオアリスの言葉が心を掠め、ファルシオンは身を竦めた。

 使命。

『この身に代えても必ず、殿下をお守り致します』

 レオアリスは父王に――剣の主に、そう誓ったから。

(だから一人で残ったんだ)

 ファルシオンがそこにいたせいで。

「そんなの――」

 呟きかけ、それが言葉にならない内に、ファルシオンは金色の瞳を見開いた。

 どくり、と鼓動が鳴る。

 鼓動は早鐘のようにうるさく音を鳴らし始めた。

「――レ」

 一瞬――、気配が、伝わった。

「殿下?」

 ロットバルトとグランスレイが訝しそうに瞳を細める前で、ファルシオンは膝の力が抜けたようにすとんと甲板に座り込んだ。

「殿下!?」

「レオアリス……」

 胸が、どくどくと脈を打って気持ちが悪い。

 一息に押し寄せた不安に、ファルシオンは甲板に両手を付いた。

 甲板を――船の下に広がる、見えない青い海を見つめる。

「殿下、どうされました」

「あ……」

 ファルシオンが青ざめた瞳を向けた時、ぐらりと足元が揺れた。

 波の揺れより大きい。

「何だ」

 グランスレイが素早く辺りを見回す。ロットバルトはファルシオンを抱き上げた。

「いやだ――レオアリスが……」

 縋ろうとするように、ファルシオンが甲板に手を伸ばす。

 ロットバルトはその様子を束の間見つめ、そして視線を引き離した。

 ファルシオンが何を感じたのか――、だが、確実にファルシオンをここから遠ざけなくてはいけない。

「――貴方がお退きになられなければ、他の者が退けません。スランザール公も――、そこの船で待機している近衛師団隊士達もです」

 そう言って甲板の中程にいたスランザールの傍らに降ろす。

 ファルシオンは一瞬我に返って、スランザールと老法術士を見回した。

 ファルカンは船縁にいるが、怪我のせいで顔は青ざめ苦しそうだ。

 今いる船のすぐ隣には乗ってきたレガージュの交易船がいて、甲板ではフレイザーや近衛師団の隊士達がファルシオンを待っている。

「――で、でも」

 ファルシオンは首を振り、足元へ瞳を落とした。

「でも」

 老法術士はファルシオンの前に出て膝を折る。

「私が殿下を港へお送り致します」

「私は――いい……、そうだ、スランザールと、ファルカンを、先に」

「申し訳ございません……今の私では、殿下お一人だけに」

 老法術士もまた、肩や背を赤く染めている状態だ。

 それでもファルシオンは尚も首を振った。

「私だけなんて、ダメだ――私は残る……」

「殿下、あの混乱した港へお送りできるのはお一人のみなのです。ですが一度道を通せば、その後は術を用いるのも容易になります。どうぞ今は」

「ダメだ!」

 払いのけるように、ファルシオンは鋭く叫んで後ずさった。

「ダメだ……」

 ここを離れたくない。

(助け、なきゃ……)

 何が起きているか、ファルシオン自身判っている訳ではない。

 それでも鼓動は早鐘を打っている。

「殿下」

「いえ――港へお送りするのは避けた方がいい」

 予想に反して、首を振ったのはロットバルトだった。

「レガージュ船団が出て来ています。目的は判りませんが、二発の火球砲を撃った以上、船団が出る理由は殿下の救出かマリ海軍との交戦、このいずれかでしょう」

 ファルシオンはロットバルトの示した方角を見つめ、それから瞳を見開いた。

 ロットバルトの言っている意味は、幼いファルシオンにもはっきりと判った。

「そんな――だってファルカンがここにいるのに。ファルカンはそんなこと言ってないだろう」

「その通りです。おそらくレガージュの総意では無いでしょう。しかし万が一にも交戦になる事は、双方にとって全く意味がありません。回避する最善の手段として、マリ海軍は殿下がここに来た時と同様に、同じ船で問題なくレガージュへ戻るその様を、明らかにレガージュ船団へ見せる必要があります」

「――」

 ロットバルトは膝をつき、深く頭を下げた。

「殿下――、恐れながら貴方には、アレウス国の国使として、儀礼に則って帰途に着く責務がある事をお考えください」

「国、使……」

 ファルシオンは唇を噛み、足元を見つめた。

 さきほどの感覚は微かで、それが不安をどんどん大きくして行く。

「どうぞ――。殿下が国使として動かれる事を、陛下も望んでおられます」

「――」

 嫌だと、首を振りたい。

 それでも、ファルシオンは頷いた。

「わかっ……た――」

 どおっと波音が船体に打ち付ける。

「!?」

 再び、今度は先ほどよりも大きく船体が揺れた。

 辺りを見回した兵士達の目が、海面に落ちる。

『何だ……み、見ろ!』

 海面が盛り上がり、それから、海水が停泊しているマリ海軍の船体を這い上がり始めた。

 十番船と同じように――、ただ十番船を包んだ時は微かな水音すら立てなかったそれが、今は無遠慮に音を出している。

 びちゃり、びちゃりと爬虫類が壁を登るように、不快な水音を誇示してゆっくりと這い上がる。

『提督……!』

『チ』

 メネゼスは隻眼をきつく眇め、隣り合う二番船の船体を睨んだ。

 薄い、海水の膜が、二番船の船体を下から覆おうとしていた。その隣も、いや、マリ海軍の軍船十一隻、全てを。

『海水――なるほど、十番船をこうやって操ったのか』

『提督、一体』

 会見の場にいず事情を知らない兵士達は、何が起こっているのか理解できないまま、辺りを見回している。

 どの船も例外無く、確実に海水に覆われていく。

 ちらりと視線を走らせれば、前方には船足の早いレガージュ船団の船が近づきつつあった。

 メネゼスは帆柱に置かれた伝令台を見上げ、号令を掛けた。

『――櫓を下ろせ! 百三十度回頭――退く!』

 陸から吹く風を捉え、まずはレガージュ船団との距離を取り、火球砲の射程の外に置く必要がある。また距離を取る事で、レガージュ船団へ戦闘の意思が無い事も示す事にもなる。

 メネゼスの号令が信号となって全船へ飛ぶ。マリの兵士達は甲板や船倉を慌しく駆け回った。

『帆を張れ! 回頭して風を掴む』

 両側計二十本の櫓が慌しく海面に落ちる。

 だが、降りた櫓は飛沫すら上げず、兵士達が力を込めて漕ごうとしても、固定されたようにぴくりとも動かなかった。

『何だ――』

 メネゼスは足音も荒く船舷に寄った。

 見下ろした海面で、既に水が櫓にがっちりと噛んでいる。

 既にメネゼスの軍船は全て、港に停泊した船よりも更に強固に、海に船体を捕らえられ縫い止められていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ