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第4章「剣士ザイン」(8)

 アスタロト公爵家長老会の筆頭であるソーントン侯爵は、骨張った顔に厳しい表情を浮かべ、広い部屋の中央に立っていた。

 彼の前には優美な造作の寝台が置かれている。

 天蓋から流れる白い薄羽のような布が、そこに眠る少女の姿を柔らかく隠していた。

「――もう一度申せ」

 ソーントンは噛み締めた歯の奥から声を押し出した。

 視線は彼等の年若い当主の姿に据えられたままだ。

 ずしりと重い空気が、窓の向こうの白く輝く陽射しを遮っているように感じられる。

 アーシアはあの時からずっと走り続けている呼吸に、苦しさを押さえながら口を開いた。

 頬からは血の気がすっかり失せ、紙のように白い。

「ルシファー様が、訪ねておいででした。私が部屋に戻った時には、あの方が――アスタロト様を覗き込むように立っていらして」

「――」

「私をご覧になり、笑って、――どうやって主を助けるつもりか、と、そうお尋ねに」

「アーシア」

 ソーントンの鞭のように鋭い声が遮り、アーシアはびくりと身を縮めた。傍らに立つ執事のシュセールがそっとアーシアの肩に手を置く。

「その事はもう口にするな」

「――」

「確証なく口にしてよい言葉ではない」

 アーシアは息を呑み、だがありったけの勇気を振り絞るようにして声を出した。

「でも――、いえ、ですが! こうしてアスタロト様は」

 もう二刻、眠ったまま、目覚める気配が無い。

 ルシファーの前で倒れてから。

 アスタロトを見下ろし、ルシファーは微笑んでいた。

 背筋を冷たいものが駆け上がる。

「何か、お二人の間であったと、そう思うのが」

「西方公に責任を問えと言うか」

「それは」

 アーシアが口籠もる。ソーントンは容赦なく続けた。

「お前が目にしたと、それだけの理由で、西方公の責任を問う事ができると思うのか」

「――そんな」

 アーシアは一層血の気を無くして青ざめ、それでもぐっと拳を握り込み、食い下がった。

「ではせめて、ルシファー様に事情をお伺いできませんか。そうすれば、原因が判るかもしれないです。それだけでも――」

 ソーントンは振り返り、アーシアの頬を力一杯打った。

 鋭い音と共にアーシアが床に倒れ込み、シュセールが膝を付く。

「ソーントン侯爵、お静まりを」

 シュセールを押し退け、ソーントンはアーシアの前に立った。

「お前は、当主を最も身近で支える役を負いながらそれも果たせず、口にする言葉は他者の責任を問う事だけか! 選りにも選って、西方公だと?!」

「侯爵」

「アスタロト公爵家の当主が倒れた責を他の公爵家に問う事が、どのような意味を持つか、お前ごときでも判るはず」

「――、」

 アーシアは何とかソーントンを説得しようと言葉を探したが、相応しいものが思い付かずに唇を噛んだ。血の味がする。

「侯爵、アーシアは決して嘘偽りや適当を申す者ではありません」

「シュセール。西方公を当主の部屋へお通ししたのか」

「――いえ」

「では問えまい。西方公が無断で、当主の部屋へ押し入り、当主を害したと申し立てるのか」

「そんなつもりは」

 冷たい大理石の床に手をついたままアーシアが首を振る。

「お前の言ったのはそう言う事だ」

 ソーントンは忌々しそうにそう吐き出した。

 アーシアにもソーントンの言う事は判る。

 けれどルシファーが倒れたアスタロトと何か話をしていたのは確かなのだ。何を話していたのか、何故眠り、目覚めないのか、アーシアには全く判らない。

「――アスタロト様を、どうしたら」

 ソーントンは一旦寝台のアスタロトを振り返り、苦いものを噛み潰したようにかさついた声を出した。

「公爵家付きの法術士に極秘で治癒に当たらせよ。すぐに問題なくお目覚めになるかもしれないが、念の為だ」

「正規軍にはどのようにご報告なさいますか。本日は総司令部で、フィオリ・アル・レガージュでの王太子殿下の会談結果を待つご予定でございました」

 シュセールが確認した内容に、ソーントンは重い息を吐いた。

「――正規軍にもまだ明るみに出してはならん。急遽体調を崩されたと、そう伝えよ」

 まだ、とソーントンは言ったが、いつまでという想定がある訳では無い。

 まずは法術士によって目覚めれば、それが最善の結果だ。

「アーシア、お前には当面謹慎を命ずる。当主のお前への温情に免じて時間をやろう。その間に愚かな考えを棄てるのだ。当主の身の回りはシュセールに一切を任す」

「――」

 ソーントンは薄い色の瞳でアーシアとシュセールを(おびや)かすように一瞥し、硬い靴音を立て部屋を出て行った。

 シュセールが見送りの為にソーントンについて部屋を出ると、室内にしんと沈黙が落ちる。

 息苦しさを覚え、アーシアは壁に寄りかかって身体を支えた。

 両手を目の前に持ち上げ、その開いた指先を見つめる。

 アーシアに注がれるアスタロトの気は、普段と全く変わらない。

 だからアスタロトの身体には何も問題は無いのだと、そう思えた。

(でも、目が覚めないんだ――)

 身体に異常など何も無いと思えるのに――名を呼んでも、身体を揺すっても、全く目を開ける気配が無かった。まるで人形のようだ。

(――)

 どんな話をしていたのだろう。アスタロトとルシファーは。

 あの時、まるで、アスタロトの意思や命を吸い取るように見えた。

 ルシファーに感じた、普段とは全く違う、魂が凍るような恐怖――。

 アーシアにはあれが、根本的なところにあるルシファー本来の姿なのだと、そう思えた。

 人よりも鋭い、飛竜としての本能で。

(――誰か)

 ルシファーはまた来ると、そう言った。

 何の為だろう。

 今は行くところがある、と――。

(どこに――、何故、アスタロト様を)

 再び訪れて、どうするつもりなのか。

 誰かに相談したかった。

 アーシアの言葉を信じて、アスタロトを守ってくれるのは。

 アーシアは背中を壁に預けたまま、両手を額の前で固く組み、体を縮込めるようにして目を瞑った。

 一人――今、その相手はずっと遠い。

「レオアリスさん――」




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