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第4章「剣士ザイン」(5)

「アーシア」

 アスタロト公爵家の本邸の女官が三人ばかり、階段を降りてきたアーシアを手を振って呼び止めた。

 アーシアが傍まで行くとそっと問いかける。

「アスタロト様は朝食を召し上がった?」

「まだ――あまり空腹ではないと仰っていたから、取り敢えず置いて下がってきたんだけど」

「そう。最近はよく(ふさ)いでおいでね――」

 アスタロトの親くらいの年齢の女官は心配そうに天井を見上げた。

 アスタロトが鬱いでいるのは、館の人間達は誰もが知っていて、心配していた。

 理由を何となくながらにも想像できている者はアーシアのようにごく一部だけだったが、いつも奔放で屈託の無い主が落ち込んでいる様はただ見ているだけでも気掛かりなものだった。

(仕方がない。レオアリスさんと、本当は今日会う予定だったから――)

 レオアリスがファルシオンに付いてレガージュという街へ行く事は、アーシアもアスタロトから聞いている。今の時間ならもう王都を発ったかもしれない。

(陛下のご下命で、重要な案件だから、こんな言考えちゃいけないとは思うけど)

 アスタロトが口には出さなかったものの、レオアリスと会うのを心待ちにしていたのも知っていたから、アーシアの心境は複雑だった。

 もちろん、王の下命に勝るものなど無いのは判っている。

 アスタロトも、特にレオアリスには、王の下命は絶対だ。

 だがつい溜息が落ちる。

(レオアリスさんも、もっと早くにアスタロト様と会ってくだされば良かったのに――あの人はこういうのはなかなか気付かないんだろうけど)

 これまでずっと、出会った時から変わる事の無い態度や笑顔も、こうなると少し恨み言を言ってやりたかったりもする。

 お互い忙しいのだから仕方がないし、アスタロトもついこの間までまるで男の子の友達のような感じで接していて、口調もあんな感じだったのだ。気付けという方が無理を言っているのかもしれない。

(――もし)

 アーシアが手にしていた空の茶器がかちゃりと音を立てる。

 アスタロトの気持ちに気付いたら、レオアリスはどうするのだろうと、そう思った。

(レオアリスさんは)

 微かに、胸の奥のどこかが痛んだ。

(アスタロト様の事を、嫌いじゃないとは思う)

 けれどもしかして、それがアスタロトの気持ちと、同じでは無かったら――?

(アスタロト様は――、どうされるんだろう)

「アーシア、どうかした?」

「――何でもないんだ」

 彼女達がいるのを忘れて考え事をしていたのに気付き、アーシアはにこりと笑って首を振った。

「もうそろそろ御出勤になる時間だから、それまで一人にしてさしあげよう」

 そう言って彼女達に手を振り、アーシアは冷めたお茶を入れ替える為に厨房へ向かった。





 アスタロトは低い寝椅子に膝を抱えて座り、すぐ前の卓の上にある花瓶を見つめた。色とりどりの花や葉が白い壁に映えて鮮やかだ。

 葉の緑と花々の赤や薄い水色、白い壁の色が溶け合う(あわい)に、昨日の情景が見えた。

 アスタロトの斜め前、深い緑の絨毯を隔てた向かいにレオアリスの席があり、座っていた。

『炎帝公』、とレオアリスはアスタロトを呼んだ。

 それは深い水に大きな石を一つ沈めるような、そんなゆっくりとした衝撃があった。

 炎帝公。

 それが近衛師団大将の立場に対する、アスタロトの立場だ。

 ファーと呼び掛けたアスタロトに対し、ルシファーは『お嬢さん』と、そう笑った。

 公の場でレオアリスがアスタロトを炎帝公と呼ぶのも、ルシファーが咎めるのも、何も間違ってはいない。

 自分はアスタロトとして、あれではいけないのだ。

 けれど判っていても、これは職務だからと感情を切り分けるのは難しい。

(職務)

 アスタロトは小さく呟いた。

 多分ずっと、アスタロトがアスタロトである以上、そう振る舞わなければならないのだろう。

 レオアリスともこの先、そうしたやり取りが増えるのかもしれない。

 昨日の軍議でそれを突き付けられた。

「――っ、」

 屈めた膝を抱え込み、胸のつかえを抑えた。

 もう四半刻もしたら、王城へ向かわなくてはいけない。

 フィオリ・アル・レガージュの件で、アスタロトは執務室にいなくては。

 正規軍将軍――炎帝公として。

 息が、苦しくなる。

「――」

「アスタロト」

 柔らかい声に呼ばれて顔を上げると、扉の前にルシファーの姿があった。

 いつの間に来たのか、誰の案内の姿も無かったが、そんな事には頭が回らなかった。

「ファ」

 途中で口を閉ざしたアスタロトを見て、ルシファーが微笑みを向ける。

「昨日のことを気にしてるの? 大丈夫よ、今は。あんなのは公の場所でだけの話」

 ルシファーはアスタロトに近づくと、そっと頭に手を載せた。

「辛そうだわ。大丈夫?」

「……ファー」

「可哀想にね――あなたはただの女の子なのに」

 柔らかい密やかな口調が、するりとアスタロトの心の中に入り込む。

 何が苦しいのか、自分でもはっきりとは判らないような気持ちを言い当てられて、抑えていた苦しい塊が、解き放たれたように喉の奥を圧迫した。

 それはどんどん大きくなる。

「ファー」

「ずっと、アスタロトとして生きなくちゃいけないなんて――。自分を押し殺して、諦めて。それが当然で誰も気付かない」

「あ――」

 ルシファーの両手が伸びて、アスタロトの頭をそっと抱き締める。

 腕の中はふわりと温かく、心地よかった。

 反面、喉の奥に競り上がった塊が、存在を訴える。

「私達を、誰がそんなふうにしたのかしら」

「――ファー?」

「あなたをそんな枠に押し込めているのは誰?」

 つられるように顔を上げると、注がれていた暁の瞳とぶつかった。

 引き込まれそうな――夜空に落ちていきそうな、深い輝き。

 その色がアスタロトの意識を包む。

「――私、を」

「あなたの想いを、王は知っているわ」

 アスタロトは驚いてルシファーの瞳を見つめた。

「え?」

「でも、許しはしないでしょうね」

 寝椅子に腰掛け、ルシファーの白い手を頬の脇に添えられたまま、アスタロトはルシファーの瞳から目が放せないでいた。

「力の均衡を崩すような事は認めない――。個人の感情なんて国の前にあっては打ち棄てるものだと思っている――、そういう男よ」

 ゆらりと空気全体が動くような、そんな感覚だった。

 彼女は怒っているのだ、と漠然と思った。

「自分の血を分けた子に対してだってそうだったんだから、当然かもしれないけど」

「ファルシオンのこと?」

「――」

「ファルシオンは……、レガージュは危険なの?」

 ルシファーが笑ったのは何故だろう、とアスタロトは彼女を見つめた。

「……そうね。今のレガージュは危険でしょう。レオアリスを縛るものは幾つもあるもの」

「ファー! どういう事? ――レガージュで何が起こってるの?!」

 アスタロトは立ち上がり、ルシファーの両手を掴んだ。

 少し驚いた瞳をして、くすりとルシファーが笑う。

「あなたは本当に、色んな事を知らないのね」

「ファー?」

 ルシファーは逆にアスタロトの手首を捉え、瞳を覗き込むように顔を寄せた。

「もっと知らなくちゃ――自分を守れるくらいには」

 強い力で掴んでいるとは思えないのに、手首が痛い。

 暁の瞳に、光が宿っている。

 昇る明けの光か、沈みゆく宵の残滓(ざんし)か、ゆらぐ光に目眩を覚える。

「一番いいのは忘れる事だけど」

「忘れる――いやだ」

 ルシファーの言葉の意味も判らないまま、アスタロトはゆるゆると首を振った。

「忘れるなんて、絶対にできない」

 アスタロトの言葉の何が気に障ったのか、ルシファーは細い眉を歪めた。

「――誰だって、いつかは忘れるのよ」

 嘲笑うような響きの声だ。

「手から滑り落ちて行くものばかり――。あなたも、私も」

「――ファー」

 アスタロトはルシファーに手首を掴まれたまま、糸が切れたように床に座り込んだ。

「あなたの憂いを取り除いてあげるわ。この先、あなたが傷付くのは、さすがに私も見るのは忍びないもの」

「――」

「アスタロト様から離れろ!」

 ふいに鋭い声が飛び、ルシファーは視線を背後に投げた。

 アーシアが開かれた扉の前に立ち、睨み付けていた。

 輪郭が滲むように青く発光している。

 飛竜の姿に変わろうとしているのだ。

 ルシファーはくすりと笑った。

「――ダメよ、それじゃ。今飛竜に戻って、どうやって主人を救うの?」

 振り返った相手を見て、アーシアはそれがルシファーだと初めて気付いた。

「! ルシファー様?!」

 戸惑いがアーシアの面に交差する。

 誰も客を通していなかったからこそ、アーシアは侵入者だと思ったのだ。

 ルシファーなら、何も問題は――

 いや、明らかにアスタロトの様子はおかしかった。ルシファーに手首を掴まれた状態で座り込み、アーシアにも目を向けない。

「ルシファー様、一体何があったのですか――アスタロト様は」

 ルシファーが微笑んでいる。

 その冷えた眼差しに、背中に氷水を流されたようにアーシアの身体は震え、強ばった。

 動物が捕食者と相対した時に感じる、本能的な恐怖だ。

「ルシファー様――アスタロト様から、離れてください」

 喉を塞がれたような息苦しさの中で、それでもアーシアは声を振り絞った。

 その事に、ルシファーは感心したように笑った。

「また会いに来るわ――今は行く所があってね」

「ル――」

 アーシアが恐怖の呪縛を押し退け駆け寄ろうとした瞬間、ルシファーの姿はその場から溶けるように消えた。

 アスタロトが床に崩れる。

「――ア……アスタロト様っ!」

 アスタロトの名を叫び、アーシアは倒れている主に駆け寄った。

 抱き起こして顔を覗き込む。

 アスタロトは一度アーシアを見上げ、それからゆっくりと、瞳を閉じた。

 ただ眠っただけのように思えるほど、穏やかな様子だった。

「アスタロト様!」

 騒ぎに気付いた執事のシュセールが飛び込んでくる。

 アーシアは何度もアスタロトの名を呼んだが、瞳は閉ざされたままだった。





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