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第3章「潮流」(9)

 盛大に執り行われたファルシオンの祝賀式典から三日が過ぎ、王都は日常の騒めきを取り戻していた。

 軍内部でも式典に関する総括的な会議が昨日の昼に行われたがそれで最後で、今日は近衛師団も正規軍も一息ついたところだろう。

「アスタロト様? 召し上がらないんですか?」

 アーシアはアスタロトを見て、繊細な眉を細めた。

 白い猫足の卓の上の、三段重ねの陶器の菓子皿に盛られた色とりどりのお菓子達は、出された時から一つも手を付けられていない。

 アスタロトは日当たりの良い窓際に置かれた金と橙の刺繍のある椅子に座ったまま、アーシアの呼び掛けにも気付かず、肘置きにもたれるようにして頬杖をつき目の前に広がる庭園を眺めている。

 今日は久しぶりにアスタロトが一日ゆっくりと館で過ごせる日で、彼女がどこにも出掛けないと聞いた館の菓子職人は、昨日から腕に寄りを掛けて美味しそうな焼き菓子を焼いていた。

 普段なら出された半刻後にはぺろりと皿の上から消えている。

「アスタロト様? ご気分でも」

 アーシアがもう一度尋ねると、アスタロトは今ようやく気が付いたように顔を上げた。

「――え? どうかした?」

 その様子を見てアーシアは心の内だけで、そっと思わしげに眉を寄せた。

 最近のアスタロトは、ふと気付けばこんなふうに沈んだ顔をしている。今月に入った辺りからずっとそんな感じだったが、特にこの三、四日ほどは沈んだ顔が多くなった。

「何かご心配事でもあるんじゃないですか?」

「……、ううん、そうじゃないよ」

 首を振る傍から、アスタロトが元気が無いのは誰の眼にも見て取れる。俯いたアスタロトを見つめ、アーシアは真摯な眼差しを向けた。

「アスタロト様。――僕には、アスタロト様が悩んでおいでのように見えます。思い過ごしかもしれませんが――、でも僕は十四年以上も貴方のお側にいますから、全くの見当違いじゃあないと思うんです」

「――」

 アスタロトはまた顔を上げ、何かを堪えるように瞳を見張った。慌てて紅茶の杯を手に取り、顔を寄せてそれを隠す。

「アーシアは見当違いなんかしないよ。――けど、違う」

 ぱっと顔を上げ、アーシアを安心させるように、にっこり笑って見せた。

「――」

「ちょっと、ほら、女の子らしくしようかって」

「――はい?」

 思いがけない言葉に耳を疑い――いや、少し面食らってアーシアが瞳をぱちくりと瞬かせる間にも、アスタロトは早口で続けた。

「こないだのファルシオンの祝賀でもそうだけどさ、色んなとこの令嬢達が来てたけど、皆なんか優雅っての? お菓子なんて全然食べないし大声で笑ったりしないし、やっぱり貴婦人てあああるべきなのかって私も思い直してさ」

「貴婦人……って」

「特にね、エアリディアル王女とか、やっぱり全然、違うし」

「――アスタロト様」

 アーシアはそっと口を挟んだ。アスタロトは途端に黙り込み、またじっと手の中の紅茶が揺らぐのを見つめている。

 アーシアはその正面に立ち、まだ顔を上げないアスタロトに柔らかな笑みを向けた。

「アスタロト様はいつも美味しそうに食べてくださると、料理長のロゼさんもフランベさんもガレットさんも、お菓子職人のマカロンさんも、皆いつも嬉しいって僕に話してくれます。どんな館よりやりがいがあるって。だって「貴婦人」の方々なんか、せっかく一生懸命心を込めて作った料理を、太るからとか言って半分も召し上がらないんだそうですよ。ロゼさんが前にいたお屋敷ではそうだったっんですって」

「えっ、もったいない! ロゼの肉包み焼き美味いのに。あの焼き加減とか絶品だろ!」

 勢い良く顔を上げ、アスタロトははっと気付いて真っ赤になった。

「あ、でも、せっかくのものを残すのはさ、やっぱもったいないし――、だ、だからこれも食べる! 食べるよ」

 切り分けてある焼き菓子を手に取り、ぱくりと食べた。

「ふぁあ……美味しいィ……」

 かなり嬉しそうに頬を緩め、ちょっと間の抜けた感嘆の溜息を零す。

「それはそうです。マカロンさんは昨日から仕込みをしていたんですよ」

「――嬉しい」

 ぽつりと呟いたアスタロトを見て、アーシアは優しげに口元を綻ばせた。

「美味しいものは美味しいって召し上がるのが一番だと思います。他のお嬢さん方は、損をなさってますよ、絶対」

「――うん」

「お茶のお代わりはいかがですか?」

「いる」

 子供のようにこくりと頷いたアスタロトへ、アーシアはいつものように穏やかな振る舞いのまま、陶器の杯に新しい紅茶を注いだ。アスタロトがちらりと視線を上げる。

「――アーシア、心配かけた……?」

「それはもう」

 アーシアが(うそぶ)くとアスタロトは申し訳なさそうな顔をしたが、アーシアは首を振って答えた。

「話したくなったら話してください。今じゃなくたってぜんぜんいいです。僕はどんな事でも、アスタロト様の悩みはお聞きして、少しでも辛い事をなくして差し上げたいと、そう思っていますから」

「――」

 アーシアの優しさが心の中に伝わってきて、アスタロトは自分の指先に視線を落としたまま、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 アーシアに相談するような話じゃない。本当に、とっても些細な事だから。そう思う。

 ただ昨日、条約再締結に関する軍議の席でレオアリスと一緒になったのに、アスタロトはつい、レオアリスがアヴァロン達と話をしている間に議場を出てきてしまった。

 何となく――、何となくだ。

 軍議の途中で何度か目が合ったから、多分レオアリスにも話したい事があったのだと思うが、その度につい慌てて眼を逸らしてしまった。

 三日前の、エアリディアルと向かい合っていた時のレオアリスの姿が頭に思い浮かんで、あの時見えなかったレオアリスの表情が気になって。

 話をして来れば良かったと思うし、何で声もかけずに出てきてしまったのか自分でも良く判らない。

 議場を出た瞬間に後悔し、後悔したくせにますます早足で立ち去った。

 それなのに、追いかけてきたり、呼び止めてくれなかったとか、そんな事にがっかりして――。

(ああもう、バカみたい。何言ってんの)

 さすがに自分でも、何を訳の分からない身勝手な事を言っているのだ、と思う。

 そんな事を相談されても、誰だって呆れるだけに違いない。

(――)

 アスタロトはふっと気が付いて長い睫が縁取る瞳を瞬かせた。

 もしかしたら、レオアリスも呆れているのかもしれない。

 最近全然、二人で会っていない。あの時、ファルシオンへの贈り物を買いに行って以来だ。

 レオアリスからの連絡も、全然無い。

 多分この前のファルシオンの祝賀から、レオアリスは一気に忙しくなったとは思う。とにかく面会を申し込む者が格段に増えたのだと、タウゼンから聞いた。

 それは良く判っている、けれど。

 話したいことがあるなら、連絡をくれてもいいのに。

 何にも連絡が無いのは、アスタロトの態度にレオアリスが呆れているからだったりしたら。

(――どうしよう……)

 さっきは少し気が晴れたようだったのに、また不安そうにな様子に戻ってしまったアスタロトに、アーシアは手を伸ばしかけた。

「アスタロト様……」

 肩にそっと手を置こうとした時、こつこつと扉を叩く音と共に執事のシュセールが入室し、一礼した。

「失礼致します。西方公から今、お手紙が届けられました」

「ファーから?」

 シュセールはアスタロトの傍に寄り手にしていた銀盆を傍らの卓に置くと、小刀で封筒の封を丁寧に切り、便箋を取り出してアスタロトへと差し出した。

 アスタロトは文面を読み、驚いた声を上げた。

「――今日、夕方に園遊会を開くって」

「今日? 夕方ですか?」

 アーシアもまた驚いて青い瞳を丸くし、シュセールを見た。シュセールは先代アスタロト公の代からアスタロト公爵家の本邸を執事長として取り仕切る女性だ。

「……いきなり今日って……ファーらしいっていうか」

「西方公のお誘いです。急とは言え、まずはご出席されるのがよろしいかと。それにご出席されたらきっと、気晴らしにおなりでしょう」

 シュセールは経験豊かな執事らしく、落ち着いた口調でそう言った。

「うん――あ」

 二枚目をめくり、アスタロトはさっと顔を赤くした。

「どうか?」

「あ、ううん。……その、レオアリスも来るって」

 そう口にした後に、何だかとてつもなく気恥ずかしさを覚えた。どっと顔に血が昇ったのが判る。

(そ、それはどーでもいいし!)

 レオアリスを呼ぶ、というか、絶対に来させるから、とルシファーは悪戯っぽく記している。

(誤解……)

 アーシアは真っ赤になったアスタロトを見つめ、それから唇に笑みを刷いた。

「――じゃあ、うんと着飾って行かれるのが良いですね。夕方ならまだ時間があります。今から念入りに用意しましょう」

「えっ、い、いいよ、ふつーで」

「何をおっしゃってるんですか、西方公の主催ですよ。きちんとした盛装でなくては失礼に当たります。ね、シュセールさん」

「アーシアの申し上げたとおりですよ。では」

 にこりと笑ってシュセールは踵を返して扉へと歩いていき、廊下に出て暫くすると戻ってきた。

 すぐに数人の女官がやってくると、主人が元気になる絶好の機会とばかりにアスタロトを衣装室に連れていき、あれこれと着飾らせ始めた。





 太陽が沈んで行く時の、透明で輝くような橙色の光が空を美しく彩っている。王都の西に位置する西方公の館には、まだ沈む陽の光が全体に差し掛かり、館の白い壁や窓を通常とは一つ隔てた違う世界の物のように見せていた。

 そしてもっと陽が沈んで地平線に姿を消せば、空もこの館も、館の主、西方公ルシファーの瞳の色のような、深い紫の光を宿す。

 馬車を降り、送ってくれたアーシアに手を振りながら、アスタロトはそんな事を想った。

 公爵家の敷地の一角にある小さな館が会場で、館の入り口に至る小路から既に花や布で美しく整えられていた。華やかでも決して派手ではない、ルシファーらしいしつらえだ。

 もう招待客達が集まり出し、館全体にさわさわと密やかな空気が満ちている。

「よく来てくれたわね、アスタロト。今日の今日でどうかとは思ったけど、来てくれて嬉しいわ」

 館の入り口までわざわざ出迎えたルシファーは、両手を広げるようにして軽やかな笑顔を浮かべた。アスタロトも手を広げ、ルシファーに抱きついた。

「ファーの誘いだったら幾らでも、すぐに飛んで来るよ」

「そういうのは異性に言う言葉よ。それに普通は男のね」

 ルシファーはくすりと笑ってアスタロトの背中に手を置き、悪戯っぽく首を傾げた。その視線がアスタロトの結い上げた髪を留めている白い髪飾り落ち、唇が音の無い笑みを(かたど)る。

「――今日はね、ちょっと変わった趣向なのよ」

「へえ。ファーはいつも面白いことをやろうとするよね。なあに?」

「女性だけ早い時間を案内して、先に集まってもらったの」

「?」

「女の子だけでしかできない話ってあるでしょ。でも、こういう集まりは女の子だけじゃ物足りないだろうし、だから時間をずらしたのよ」

 ふふ、と鈴を振るように笑って、ルシファーは廊下を歩き出した。

「女の子だけって、それは」

 アスタロトは少しばかり戸惑ってしまった。

 なぜならその「女の子だけでしかできない話」がアスタロトは苦手だ。

 当然こういう席で令嬢達と話す機会は常にあるのだが、本日の装いの話に始まり、社交界の最新の服や靴の流行、宝飾品、誰かの恋愛話や結婚話――、この間の舞踏会では誰と踊れた踊れなかった、目が合った――そういう話題がほどんどで、皆食べ歩きの話とか、飛竜で飛び回る話とか、全然しない。

 アスタロトが口を開くと、最初は笑顔だったコ達も、だんだん困ったような顔になってくる。アスタロトの話を無理矢理遮る訳にもいかないし、という思いが伺えて、つい早めに切り上げてその場を離れるクセがついていた。

「苦手?」

 ずばりと問われて慌てて首を振る。

「う、う……ん。いや! 今日は女の子と話をする! ちょっとは女らしさを学ぼうと決めてるんだ!」

「握り拳を作って言われてもねぇ……。まあでも、女の子らしくなりたいと思ってるなら丁度いいわ」

「そ、そう?」

「エアリディアル王女も、今日はご臨席いただける予定だしね」

 ぎくりとしてアスタロトは立ち止まった。

「ファー」

 ルシファーの表情を見て、実はそれが目的だったのだと、アスタロトもさすがに気が付いた。ルシファーはアスタロトが意図を悟った事にも悪びれず、にこりと笑みを返した。

「女の子らしさを学ぶなら、彼女が一番最適でしょ? それに貴方には王女と話したい事はあるんじゃないの?」

「私、別に――」

 先日のファルシオンの宴の時に見た光景が思い出され、アスタロトは俯いた。

 エアリディアルと話すと言われても、何を話していいか判らない。

 あの柔らかな微笑みの前で、自分との違いを改めて知ってしまいそうで――

 ルシファーは背中からアスタロトの顔を覗き込んだ。

「ダメよ、貴方はそんな事言ったら。殿下の祝賀の後、初めて会う場なんだから、きちんとお祝いを述べなくちゃ。公爵家の立場としても、王家の立場としても、貴方達が話をする場所は必要なのよ。それを周りに見せることもね」

「――それは、判る」

 けど、と言う前に、ルシファーは有無を言わさず、アスタロトの背中を押して歩き出した。

 玄関を入って暫くは、左右に庭園の広がる渡り廊下になっている。右手には落ちていく西日が見え、左手には影を帯びた庭園が見えた。

 一度細長い部屋に入る。そこは左右に一つずつ、扉の無い部屋が付いている。それらは扉の代わりに緩やかにたわめられた布で仕切られ、気軽な話や休憩の為の談話室になっていた。

 この館はこうした談話室が幾つも散りばめられていて、その中央に広間があった。

 アスタロトが広間に入ると、既に集まっていた令嬢達は騒めいて意外そうな顔を見せた。アスタロトが自分で苦手と感じているように、周りもアスタロトがこうした場が苦手だと知っている。

 追いかけてくる視線に少しばかり居心地の悪さを感じながら、アスタロトはルシファーについて広間の真ん中に立った。

 広間は幾つもある格子窓をいっぱいに開いて夕刻の風を入れ、気持ちよく整えられている。

「はい、飲み物。何か食べる?」

 給仕の持つ銀盆から取った硝子の杯を手渡しながら、ルシファーは広間を見渡して微笑んだ。アスタロトはほんのり顔を赤くして手を振った。

「まだいいよ。さすがに着いたばかりで食べ出すのは、ちょっと」

「気にしなくてもいいのに。意外とお嬢さんね。貴方がすぐに食べたがると思って、暖かいものを用意させたのよ」

「いや、ファー、いくら私でもそこまでは――」

 そう首を振りかけて、アスタロトは昼間のアーシアの言葉を思い出した。

 わざわざ用意してくれた料理。「た、食べないと悪いかな?」

 短くルシファーが吹き出す。ものすごく、楽しそうだ。

「い、いいのよ……貴方ってホント素直……」

 苦しそうにそう言った。要はアスタロトの反応を楽しんでいるのだ。

「――ファー……」

 溜息を落としかけた時、壮年の執事がルシファーにすっと近寄り、耳元で囁いた。

「そう、エアリディアル王女が――」

 ルシファーの言葉に、アスタロトの緊張がさっと高まる。

「お迎えに行って来るわね」

 ルシファーはアスタロトに微笑み、それから執事に指示を出した。

「王女がこの部屋に入られる際に皆さん席を立てるように、お知らせして回って」

 すぐに広間に満ちていたざわめきが止んだ。

 しんとした空気は実際以上に長く感じられたが、ほどなく柔らかい衣擦れの音が近付いてきた。

 両開きの扉が開かれ、ルシファーとエアリディアルが姿を現す。

 侍女が二人、エアリディアルの後ろに控えていたが、ルシファーと共に広間に入ったのはエアリディアルだけだった。

 扉が静かに閉ざされ、エアリディアルが広間の中央で足を止めるまで、ずっと室内には緊張と静寂が満ちていた。

 それから、うっとりと見惚れているような微かな溜息。

 着飾った令嬢達の中にあっても、エアリディアルは一際光り輝くように見える。

 アスタロトもちょっと口を開けるようにして見惚れていたが、エアリディアルがすぐ近くに来てからようやく、この場所に立たされたのはエアリディアルとまず話をする為なのだと気が付いた。

(わわ……)

 視線だけで素早く辺りを見回したものの、当然順位的に、ルシファーの次にエアリディアルと挨拶をするのは公爵であるアスタロトしかいない。

 ルシファーは目でアスタロトに挨拶をしろと促している。アスタロトはお辞儀で屈めていた身体を起し、それから改めて一礼した。

「こ、今晩は、エアリディアル王女。今日この場でお会いできて光栄です」

 エアリディアルが盛装の裾を持ち上げ、優雅にお辞儀を返す。それからすっと身体を起した。

「わたくしの方こそ、お会いできて光栄です、アスタロト公爵。先日のファルシオンの祝賀では、一日を通して参列いただいたこと、ファルシオンに代わって心からお礼申し上げます」

 エアリディアルはアスタロトの記憶の中にあるあの時の姿と変わらない、柔らかな微笑みをアスタロトに向けた。

 本当に、向き合っていると同性のアスタロトでさえちょっとドキドキして幸せになってくるような笑顔だ。

「いえ、先日はおめでとう――ございました」

 アスタロトは少しばかり口籠もりつつまた頭を下げた。隣でルシファーがくすりと笑ったのが判る。

 恨みがましくルシファーの横顔を盗み見て、アスタロトは頭を下げた状態のままはぁ、と溜息をついた。

(無理やり放り出したくせに笑うんだもん)

 そう心の中で呟いて、それからまたエアリディアルへと視線を戻した。

 澄んだ光を湛えた藤色の瞳が、その間もずっと自分を見つめていた事に気付く。

 慌てて瞳を瞬かせたアスタロトと対照的に、エアリディアルはにこりと唇を(ほころ)ばせた。

「アスタロト様とはあの場ではほとんどお話をする機会がなくて、残念に思っておりました。今日はぜひゆっくりお話をさせてください」

 二人は半間ほどの距離だけ置いて向かい合っている。

 どうしても、比べてしまう。

 ふわりと柔らかく流れる光を集めたような髪と、真っ直ぐ硬そうな黒い髪。

 藤色の澄んだ光を宿した瞳と、きつい色の紅い瞳と。

 やっぱり、違う、とそう思う。自分達を見つめている視線も、きっとそう思っている。

 ルシファーはアスタロトの横顔に視線を流し、またくすりと笑った。

「そうよ。特にアスタロトとは、あなた方は同年代なのだから色々と話をなさるといいわ。じゃあ私は他のお客様方に挨拶をしてくるから、そちらにでも座ってお二人でゆっくり話していて」

 いきなりその場を離れようとしたルシファーの腕を、アスタロトはさっと掴んだ。

「ファー」

 小声で縋るとルシファーも小声で返す。

「王女と公爵よ」

 ただ、厳しい響きだった。

 それもすぐからかい混じりのいつもの口調に変わる。

「話をしたら判ることが色々あるわよ、きっと」

 そう言って瞳に不思議な光を刷き、アスタロトがもう一言喋る間もなく、アスタロトを置いて立ち去ってしまった。

「――」

 残されたアスタロトは途方に暮れつつ、とにかくエアリディアルへ向き直り、エアリディアルを見た。

「えーっと、エアリディアル王女」

「はい」

 にこりと微笑む。

 可愛い。本当に。

 仲良くなりたいな、と素直に思った。

「座りませんか」

 窓際に置かれた白い長椅子を示す。

 二人でそこに座り、身体を斜めにして向かい合った。衣装の裾が触れるような距離だ。

 長椅子の両脇に置かれた小さな大理石の卓に、執事が飲み物を置いて立ち去る。アスタロトはそれを見送ってから、エアリディアルへ改めて顔を向けた。

 胸がドキドキする。ルシファーが席を外してしまったのが一層恨めしかった。

「あの、――先日の祝賀式典はお疲れ様でした。殿下はほんとに、立派におなりです」

 使い慣れない言葉に舌を噛みそうだ。

「私も、嬉しくて仕方がありませんでした。まだずっと幼いと思っていたのに、陛下への口上など本当に大人びていらして――贔屓目でお恥ずかしいんですが」

「ううん、全然そんな事ないよ。殿下は将来いい王になると思う。楽しみだよね」

 口にしてから、エアリディアルに対しては相応しい口調ではなかったと気が付いて、アスタロトは口を覆った。

「失礼しました――」

「いいえ」

 エアリディアルは背筋を伸ばしたまま、首を振った。

「貴方は南方公として正規軍を率い、この国の守護を担うお方です。わたくしの方こそ、アスタロト様、貴方に敬意を払うべきなのです。――それに」

 一度言葉を区切り、そっと付け加える。

「そうしてお話いただいた方が、嬉しいですし」

 柔らかな微笑の奥に、ある小さな感情を見つけて、アスタロトはエアリディアルを見つめた。

 エアリディアルもまた王女という立場に捉われるのだ――アスタロトと同じで。

(そう、なんだ……)

 何だかふっと、気持ちが軽くなった。

 そう言えば、エアリディアルとは歳が近いのに、こんなふうに二人だけで話をしたことはないな、と改めて思う。

 だからルシファーは話してみろと言ったのか。

 そう思ったところで、ぐうう、とお腹が鳴った。

(ひぇえ!)

 ぎょっとしてアスタロトは自分のお腹を押さえた。どどっと冷や汗が出る。

 王女の前での礼儀と、これほど完璧な貴婦人であるエアリディアルの前で自分は――という思いが一気に駆け巡った。

「ご、ゴメン――」

「あの。お腹が、空きませんか」

「え?」

(幻聴?)

 顔を上げたアスタロトの目の前で、エアリディアルは少し頬を染め、腹部をそっと押さえている。

「――」

「今のうちに、何か召し上がりませんか?」

 幻聴ではない。

 自分よりずっと可憐だと思うが、でも空腹を感じさせる面持ちで、エアリディアルはにこりと照れたように笑った。

「せっかくルシファー様が、女性だけの時間を作ってくださいましたし」

「え?」

「皆様召し上がっていますから」

「――ええ?」

 アスタロトは振り返り、思いがけない光景に瞳を見開いた。

 普段はお菓子の欠けらも口にしないような着飾った令嬢達が、料理の並んだ卓の前で笑いさざめきつつ、あれこれと手にしては楽しそうに口に運んでいる。

「――ええ?」

 執事がエアリディアルとアスタロトへ、幾つか料理を取り分けた皿を運んできて恭しく差し出した。

「そろそろお料理の入れ替えを致します。他に何かお召し上がりになりたいものがあればお申し付けください」

「ええ?」

 執事は安心させるように笑った。

「ご心配なさらず――すっかり新しい料理にして卓を整えますから」

(ご心配?)

 執事が立ち去ってもまだ唖然としたままのアスタロトを見て、エアリディアルはにこりと笑った。

「アスタロト様もやはり、女性はこうした場であまり食べてはいけないと教わっているのでしょう?」

 アスタロトが事態を飲み込めないままこっくりと頷くのへ、いたずらっぽく微笑む。共通の秘密を語るときのような、くすぐったさを含んだ笑み。

「でも当然、わたくしたちだってお腹は空くんです。だから時折、こうして女性だけの時間を設けて一足先に楽しまなくちゃ」

「――すごい、皆……」

 アスタロトはしばらくぽかんとした後、くすくすと笑った。





 広間の空気が一層賑やかさと華やかさを増したのは、会が始まって一刻ほど経った頃――招待客のもう半分が到着し出してからだった。これからが令嬢達にとっては「本番」だ。

 広間の扉が開くごとに、広い室内全体が騒めく。

「きゃあ、アルノー様だわ、正規軍大将の」

「ベロン伯爵家のファヌエル様も……!」

「さすがルシファー様、ご招待される方の格が違いますわ~」

 アスタロトは今日何度目か、あんぐりと口を開けた。先ほどまで食事を楽しんでいたのに、何だか一気に別の方向へ場が盛り上がっている。

 当然、卓の上はすっかり新しい皿に取り替えられ美しく整えられていて、口を付けた形跡など微塵も窺えない。

(は……あはは……)

「じゃあもしかして、ブラフォード様もいらっしゃるんじゃなくて?」

「きゃぁあ」

(いや、ブラフォードはそんなに喜ばなくても……)

 だがここまではっきりしていると、いっそ清清しい。というか、何だか可愛らしい。

(……女の子……)

 ふう、と溜息をついた。これが女の子で、じゃあ自分は。

「アスタロト様?」

 エアリディアルが不思議そうに首を傾ける。

「どうかなさいましたか?」

「あっ、いえ、何でも……」

 そう言って首と手を振りつつ、エアリディアルはどうなのだろうと、アスタロトは隣を見た。さすがに、エアリディアルの様子は普段と変わる事が無いようだ。

 アスタロトの視線に気付くと、先ほどアスタロトが新しい料理を見たときと同じ、一度卓を見てアスタロトと瞳を合わせ、唇に細い指を当ててそうっと微笑んだ。

 きゃあ、とまた声が上がった。

 アスタロトも声に釣られて視線を移し――、どくんと鼓動を鳴らした。

 レオアリスが扉の所に立っている。

 近衛師団の軍服ではなく、この前の祝賀ともまた少し違う盛装で。

 自分の鼓動に気付いて、更にそれが早くなる。顔に血が昇っているのが判った。

(レオアリス――)

 レオアリスと、後から入室したロットバルトと、それから、もう一人。

(――げげ、ブラフォード?! 何で一緒なの??!!)

 アスタロトの驚愕を余所に、令嬢達の盛り上がりは最高潮に達した。

(……あの三人て……そうか……)

 かなり令嬢達への人気は高いようだ。呆れていいのか感心していいのか判らない、とアスタロトは口の中で呟いた。

 何となくじっと見つめていたら、まだずっと離れているのにレオアリスがこちらを見た気がして、再び鼓動が鳴る。

 それからふと、気になった事があってもう一度そっと隣を見た。

 考えてみればこんな急な催しに、エアリディアルが出席するなんて珍しい事だろう。

(やっぱり、ファーが呼んだからかな――いくら王女でも、断り難いとは思うし……)

 そう考えながらエアリディアルの横顔を見て、また鼓動が跳ねた。

 エアリディアルの柔らかな藤色の瞳も、広間の入り口へと向けられている。

(あれ……)

 ルシファーはアスタロトへの招待状に、レオアリスも来るのだと書いていた。

 それはアスタロトだけへの、伝言――

 そう思っていたけれど。

 鼓動が鳴る。

 エアリディアルの瞳の色が胸の裡にくっきりと焼き付くようで、広間のざわめきを圧するように早鐘を打ち始めた鼓動の音を、アスタロトはぎゅっと両手を握り締めて聞いていた。





 レオアリスはルシファーの館の馬車寄せに降り立ち、そこに立っている王宮警護官達の姿に微かに眉を寄せた。

 馬車寄せだけではなく館の入り口と、館の周囲を合わせればおそらく二十名ほどの王宮警護官達が立っている。

「どなたかおいでなのか」

「エアリディアル王女ですね」

 ロットバルトが一番奥の目立たない場所に止まっている馬車を視線だけで示す。馬車にはエアリディアルを示す百合の花の意匠の飾りがあしらわれている。

「王女が来臨して、この警備か? 随分薄い」

「西方公のお屋敷です。警備は最低限に抑え公への信頼を示すものですね。参列者は館の門で厳重な確認を取ってもいますし、身元もはっきりしている、まあ問題は無いでしょう」

 レオアリスとロットバルトが館の玄関へ歩いていくと、王宮警護官の内、上席らしき男が素早く寄った。緊張の面持ちで敬礼を向ける。

「大将殿、お初にお目にかかります、王女殿下付きの警護官長、アイヒベルグと申します。お見知り置きを」

「任務ご苦労。王女はもう中においでなのか」

 仕事みたいだな、と思ったが、アイヒベルグの顔にはそういう対応をして欲しそうな様子が窺える。

 まあ判る。主の姿が見えない所に立つというのは、どれほど安全だと判っていても気が急くだろう。

「は。一刻ほど前にお着きです。我々はさすがに、館内に立つ無粋はできず――お二方には」

「判った」

 それ以上はルシファーへの礼を失する為に口にはしなかったが、レオアリスがそう請け負った事でアイヒベルグは安心したようだ。再び敬礼した。

「まあ西方公がいらっしゃって、アスタロト公もいるんだろう。中は居城並みに安全だ」

 そう言って笑い、レオアリスはアイヒベルグと別れて館の玄関を入った。

「王族が動くってのはやはり大変だな」

「相手が西方公だからこそこの程度で済みますが――しかし西方公もこれほど急な催しでエアリディアル王女をお招きするというのは、かなり大胆ではありますね」

「ああ、そうか。だから余計落ち着かない様子だったんだな」

 普段の招待なら、どんなに急ぎであっても三日前には招待状が送られ、特に王家が出席する際には事前に警備体制が取れるように配慮をする。

 今回のルシファーの催しは、そういった面でかなり異例だ。

「ま、半分仕事だと思おう。そう思った方が俺もやりやすい」

 他ならぬルシファーの館で安全面は保証されている事も手伝って、レオアリスは面倒事から解放されたような様子でそう言った。

「……逆に面倒かもしれませんがね」

 ロットバルトは苦笑しつつ、半ば口の中でそう呟いた。

 エアリディアルがいれば確かに、近衛師団としてはどんな場でも任務の視点を忘れる訳にはいかない。

 だがもう一つ、今の問題点は。

(――西方公は何故、我々まで呼んだのか――)

 正確には、アスタロトとエアリディアル、それからレオアリスを同席させる意図と言った方がいいかもしれないが。

 これほど急な催しだからこそ、ルシファーには何かの意図があるとも思える。

(まあ、気にし過ぎても仕方が無いが)

 中庭の渡り廊下を通り、幾つかの小部屋を抜けると、その先に広間がある。二人の姿を認め、館の侍従が扉を開いた。

 控えめな音楽とざわめきが流れ出す。

 広間に入ろうとした時、後ろから声がかかった。

「ほう、貴卿達まで招くとは、西方公も気を回し過ぎだな」

 振り返ると、ブラフォードがゆっくり歩いて来るところだった。ブラフォードは二人の前で立ち止まり、酷薄そうな眼を細めて薄っすらと笑った。

「卿は欠席しても良かったのだがな、ヴェルナー。任務で忙しかろう」

 ロットバルトが面倒そうに冷えた視線を返す。

「ああ……貴方もいらしていたんですか、残念ですね――。私は貴方ほど暇ではないんですが、今日は偶々時間が合ってしまったようで」

 にこりと上辺だけは秀麗な笑みを向けたロットバルトに対し、ブラフォードもぎり、と笑い返した。

 広間からその様子を目に留めた令嬢達の歓声が上がる。

 レオアリスはその状況を見て、ちょっと乾いた笑みを浮かべた。

「……いやいや、おかしいから、何か」

 それから奥の一角に視線を止める。

「ああ、アスタロトだ――元気そう、か?」

 遠目では良く判らない。ただ隣にはエアリディアルもいて、何となく意外な取り合わせだと暢気に思った。

「西方公がいないな。挨拶が後回しになるが……」

 ロットバルトはまだ何か言いたそうなブラフォードを無視し、レオアリスの言葉に広間を見渡した。

「……おそらく他の部屋でどなたかとのお話の最中なのでしょう」

 口に出してはそう言ったが、会の主催者が来客に指定した時間にその場にいないという事など、儀礼上あるべきではない。

 ましてやこうした事には卒の無いルシファーが。

 何とはなく、引っ掛かりを覚えた。

「場の主が近くに見当たらない場合は、来客の中で一番上位の方からご挨拶をしていきます。この場合は当然、エアリディアル王女からですが」

 ロットバルトの口調にはレオアリスにしか判らないほどの忠告の色がある。

「ああ、判ってる」

 この場では余計な事は口にはしない、と言葉には出さずに頷いて、レオアリスは広間の奥へと足を向けた。





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