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第3章「潮流」(8)

 フィオリ・アル・レガージュの領事であるホースエント子爵は、王都の上層にある最高級の宿の一室で、一通の書状を前にまだ若々しい眉を寄せ、しばらくの間その書状を見下ろしていた。

 書状はレガージュから来たものだ。差出人はレガージュの交易組合長カリカオテ。

 昨夜遅くにホースエントが滞在するこの宿に届けられたのだが、ホースエントは一晩読まずに放っておいた。読まなくても内容は大体判っている。

 先ほど開いて目を通したがやはり予想していた通りの内容で、マリ王国の交易船ゼ・アマーリア号がレガージュの近海で沈んだという事が、カリカオテ自身の筆跡で記されていた。

 レガージュ船団の船を出し生存者を捜索している最中である事。

 そして問題なのは、一人救出した男の言葉では、レガージュ船団の船がゼ・アマーリア号を沈めたと、そう思われているようだという事――。

 ただしそのような事は決してない、その点も現在調査中で、すぐにも真実が明らかになり、誤解が解ける、という事。

「解けないね。沈めたのはレガージュだ」

 声にしてそれを口にできたため、ホースエントは満足そうに口元を歪めた。

 地政院へはホースエントから状況を報告し、しかし決して誤解を与えないようにして欲しい。そしてレガージュへ戻ったら相談をしたい、とカリカオテは書いていた。

 ホースエントはつい吹き出した。室内に誰もいなかったのは幸いだった。

(カリカオテがわざわざこの私に急な書状を寄越し、相談したいだと――)

 そんな事は滅多に無い。通常の案件の場合はレガージュ交易組合が決定し、領事館へは単に結果を知らせてくるに過ぎなかった。

 そしてホースエントにとって一番重要なのは、船が沈んだ事でも船団への疑いでもなく、この最後の一文だった。

 普通領事館は街の中心的な存在だが、フィオリ・アル・レガージュでは交易組合が強い力を持ち、領事館はよほどの事でなければ組合の決定事項には口を出さない決まりになっている。要はお飾り程度で、街に王が任命した領事が居て領事館という存在があればいいと、それだけだ。

 しかも先代ならともかく、まだ子爵家を継いで二年、三十二歳と歳も若いホースエントなど、カリカオテ達の眼中にも入っていない。

 扱いの不遇をホースエントは常に不満に思い、それほど必要の無い存在ならばレガージュなどに居ず王都に移ればとも思ったが、王都にあったホースエント子爵家の館と土地は、父が存命だった頃、不必要だと言って手放してしまった。

(王都の方があんな街よりずっと刺激的で、私がいるべき場所だったのに――、本当に馬鹿な事をしてくれる)

 ホースエントは父を愚かだと思っていた。レガージュなどという結局は中央から遠く離れた街の領事という地位に固執し、満足していて、組合の風下に置かれている状況を変えようとはしなかった。

 挙げ句王都の館を手放して王都との繋がりを自ら薄めるなど。

『ホースエント家の基盤はフィオリ・アル・レガージュだ。王都とこの街を繋ぐのが陛下から与えられた我が子爵家の役目』

 そんな事に誇りを持っていた。

(全く……まあ早くに家督を譲ってくれたのだけは良かったが)

 常に厳しく、贅沢も許されず、子爵家という地位の恩恵もほとんど無かった。

(レガージュは賑やかなだけで船乗り達は荒っぽいし――)

 ここ十日ほど王都で過ごし、それは改めて強く感じられた。

 居間の扉が叩かれ、居間の扉が開かれる。扉の前に立った宿の侍女が深くお辞儀した。

「ホースエント様、そろそろお出かけになるお時間でございます」

 王都はこうした宿の侍女まで品がある。

「今行く。戻るまでに荷物はちゃんと出しておけよ」

 満足そうに頷いてホースエントはまとめておいた荷物の中に書状を入れ、扉へと歩きながら壁際に置かれていた姿見に映る自分を確かめ、着ていた服の襟を直した。

(衣装は一番上等なものを選んだ――、これでいい。余り良いものを着すぎても、気後れさせてしまうかもしれないが)

 これから近衛師団第一大隊の大将――、あの王の剣士との面会があるのだ。

 王太子ファルシオンが王位を継いだ時、近衛師団総将となると思ってほぼ間違いないと、ホースエントも考えていた。もしかしたら王太子が王位を継承する前に――、現王の代での総将就任もあるかもしれない。

(私はなかなか恵まれたな)

 おそらく山のように寄せられている面会の申し入れの中で、今日ホースエントが面会できるのは剣士ザインがレガージュにいる為だ。

(交易組合やザインが幅を利かせて何の旨みも無い街だと思っていたが、逆だったか)

 父から爵位を受け継いで二年、その間常に交易組合には軽んじられて来たが、ようやく運が向いてきたようだ。

 顔を繋いでいい関係を作れば、いずれ近衛師団総将に就いた時、王への口添えが期待できる。

「ヴェパールも上手く動いているようだし、これでマリの軍船がレガージュの港に寄せれば全くの見物だな。老いぼれどもが顔を青くして慌てふためく様を想像すると本当に愉快だ」

 マリの軍船とレガージュ船団とでは、さすがに力の差が有り過ぎる。カリカオテ達レガージュの組合の幹部もレガージュ船団のファルカンも、全く何もできずマリの軍船に怯えるしかない。

 そしてそこで、レガージュの領事たるホースエントが登場し、事態を収めてみせる――

 そういう筋書だ。

 今まで存在を(ないがし)ろにしてきた領事が、レガージュの困難を鮮やかに回避するのだ。

 さぞかし胸がすく事だろう。

 カリカオテ達は今までの態度を恥じて悔い改めるに違いない。

 先月、あの男――西海の三の鉾の一人、ヴェパールが訪ねてきた時ホースエントは初め少なからず否定的だったが、あの男はホースエントの疑念を解く努力を惜しまなかった。

 この国の近衛師団総将にも当たるような人物が、わざわざ何度もホースエントを尋ね、ホースエントの置かれている立場に理解を示し、真摯に語りかけた。

 西海は条約の再締結を妨げたいと思っている訳ではない。

 そこは彼等も慎重だ。条約を覆す事など望んではいないと。当然だろう。

 ただ少し、凝り固まった状況を揺さぶり動かす必要があると――、このままではせっかくレガージュという玄関口があり、西海との交易の手段が簡単に拓ける場所でありながら、余りに無為に過ごし過ぎている。

 もはや大戦は過去の事、いつまでも捉われていては新たな関係は築けない。

 古い考え方の交易組合幹部達では話にならないが、ホースエントならば革新的な話もできると期待していた、と。

 あの男はそう言った。

 今回の件が上手く行けばレガージュでのホースエントの地位は上がり、領事館の発言力も上がる。

 そして何より、組合とレガージュ船団の力を削ぐ事ができる。

 それは中央にとっても悪い話ではないはずだ。

 そう思うと次第に、ちょうどこれから会う第一大隊大将に、ホースエントの計画を話してもいいのではないかという気がしてきた。

 陛下の御為――、きっと王の剣士はホースエントの優れた考えを認めるに違いない。

 そう思い付くと、話したくてたまらなくなってきた。ホースエントがいかに優れた人物か、早く気付かせたい。

(いや、いや待て、早まるな。今明かしても手柄を持っていかれるだけだ。やはりマリとの問題を収めてみせてから、私の存在が一目おかれるようになってから初めて明かすのでなくては、せっかくの効果が台無しになってしまう)

 効果的に事を運び、そしてホースエントの功績は王の耳に入る。ホースエントはレガージュの領事などには収まらず、王都の重要な役職に就く事になるのだ――

(その時にはやはり、次期近衛師団総将というのは役に立つ)

 今から交流を持っておいて損は無い相手だ。きっと相手もホースエントと付き合いがあった事を誇らしく思うだろう。

(あの大将も若いが故に言われの無い苦労をしているのだろうし、私ならその気持ちも汲める)

 ホースエントも歳が若いというだけで、レガージュの組合の連中に軽んじられている。

 馬車に揺られて王城の第一層に入り、ほどなくして近衛師団第一大隊の士官棟に着いた。事務官に案内されて応接室の扉の前に立つと、ホースエントは開く扉の向こうに向けて、親しみに満ちた笑みを浮かべた。




「本日はわざわざのご足労有難うございます、フィオリ・アル・レガージュ領事、ホースエント子爵」

 そう言った近衛師団第一大隊大将レオアリスは、ファルシオンの祝賀で遠目に見ていたものの、改めて目の前にすると驚くほど若かった。

(何だ――、本当にまだ未熟だな)

 ただ漆黒の瞳と同じ色の髪、そして纏う雰囲気がホースエントも良く知るあの剣士、ザインに良く似ていた。

 自分と同じ、若さという理由で相手にされていない、そういう存在だとどこかで同類のような気がしていたが、ホースエントは裏切られた気持ちになった。

 だが例えそうでも、いい印象を残しておかなければ。

「いや、こちらこそお忙しい中お時間を取っていただき礼を申し上げる」

 にこやかに言って応接室に一歩入り、室内を見回した。

 扉と正面に広い三連の格子の窓があり、部屋の真ん中には毛足の長い絨毯の上に低い卓を挟んで絹張りの優美な椅子が五つ、向かい合って置かれている。

 右の壁には近衛師団の軍旗が掲げられ、左の壁には扉が一つある。扉は執務室に続くものだ。

 レオアリスの他にもう二人、大柄でいかにも武人といった壮年の男と、非常に整った容貌の二十代前半の青年がいる。それが誰だか判ったから、その応対は気に入った。

「レガージュには私自身非常に興味がありますから、今日こうして領事にお会いできるのは嬉しい事です」

 レオアリスは慣れた仕草でホースエントに長椅子を進めた。グランスレイ達以外にはどうでもいい話だが、これも昨日一日の成果だ。

「部下も同席させていただきますが、よろしいですか。副将のグランスレイと、一等参謀中将のヴェルナーです」

 そう断りを入れ、傍らに立っていたグランスレイとロットバルトをホースエントへ示す。

「もちろんです」

 全く異論は無い。近衛師団の重鎮とさえ言えるグランスレイと、特にヴェルナー侯爵家の子息ともあれば。

 やはり良い風が吹いている、とホースエントは心の中で笑みを零した。

「今回は王太子殿下のご生誕記念祝賀に合わせて久しぶりに王都へ出てきましたが、やはり王都は華やかでいいとつくづく思わされました。一昨日のファルシオン殿下の宴の見事だった事と言ったら、レガージュでは想像もできません。常に王都にいらっしゃる大将殿が羨ましい。私もできるなら王都で暮らしたいものです」

「しかしレガージュも華やかな街だと聞いています。王都とはまた違う気候風土なんでしょう。諸外国との交易で生まれた独特の文化のある街だとか。暮らすのは楽しそうだと」

「いや、レガージュなど本当に、田舎の街の一つに過ぎませんよ」

 ホースエントは笑って手を振り、腰掛けたまま少し体重を前にかけた。

(物を知らないな――せっかく王都にいるのに)

「まあ大将殿はレガージュとは付き合いはないでしょうが、浅からぬご縁はありますな」

 レオアリスはホースエントの言葉が何を差しているかすぐに判ったようで、同意を示すように頷いた。

「貴方は我が街の剣士、ザインに似ている気がします」

 それが気に食わないところだが、ホースエントは面には出さずにこにこと笑った。レオアリスが意外そうな眼差しをホースエントへ向ける。

「ザインに――」

 そう繰り返した様子は、そう言われた事を喜んでいるように見える。

(こんな言葉の何が嬉しいのやら。しかし判り易いな。ザインを上手く繋ぎにしていけば簡単そうだ)

 そう思って心の中で頷いた時、レオアリスは少し遠慮がちに笑った。

「実は先日、彼から手紙をいただいたばかりです」

「手紙? ザインからですか」

 ホースエントは予想していなかった話に聞き返し、それから内心で顔をしかめた。

(手紙だと――)

 領事たる自分に黙って近衛師団へ繋ぎを付けるなど、ずいぶん勝手な事をする。何か思惑があるのではないのか。

 いや、それより何が書かれていたのか気になる。

「それでザインは何と。レガージュの事を? 組合とか、領事館について」

 ホースエントがどことなく早口になっ事に、レオアリスは僅かに物問いたそうにしたものの、笑って首を振った。

「いや、手紙は彼のご子息が書いたもので、ユージュという……。ザインさんは宛名を書いたくらいじゃないかな。ただ彼が父の友人だと教えてもらいました。レガージュへ招待をいただいたので、いずれ伺いたいと思っています」

「それ以外は何か」

「? いえ」

 さすがに不審を持たれかけている事に気付いて、ホースエントは慌てて笑った。もう少し手紙の内容を確認したいが、妙に勘ぐられても困る。

「いや、しかし、お父上の。大将殿のお父上といえば、大戦の剣士と言われるあのジンではありませんか。それは素晴らしい。我がレガージュにとっても名誉な事です。では、もしかしたらどこかで血が繋がっているのかもしれませんな」

「血が――? ああ」

 そうか、と小さく呟いて、レオアリスは束の間黙り込んだ。

「そういう可能性も、あるかもしれませんね――」

「いやいや、きっと。そうだと思います。何せ剣士は数が少ないですからな、逆に繋がっていない方がおかしいというものです」

 ホースエントはレオアリスの感心を掴むいい話題だと、声に力を込めた。

「聞けば貴方の一族は、十七年前の例の一件で全て亡くなられたとか。全く悼ましい話ですが、だからこそザインが血縁であったらこれは素晴らしい事だ」

 レオアリスの傍らの椅子に座っていたグランスレイが咎める視線をホースエントに向けたが、ホースエントは気付かずにレオアリスと向き合ったまま話を続けた。

「ぜひ一度レガージュへおいでください。お二人の感動の対面に私も同席させていただきたいものですな。唯一の血縁との対面となれば、さぞ」

「ホースエント子爵」

 それまで黙って話を聞いていたロットバルトが、やんわりと口を挟む。

 ホースエントは視線を転じて相手を見て、僅かに息を押さえた。

 柔らかな笑みを浮かべているが、端正な面のせいかヒヤリとした近寄りがたさを感じたからだ。向けられる視線もどこか冷たい。

(何だ、筆頭侯爵家と単なる地方の子爵風情とでは、立場が違うとでも言いたそうだな。まあまだヴェルナーからすれば俺などは下かもしれないが、いずれ)

 ロットバルトはごく短い間ホースエントを眺め、口を開いた。

「――レガージュという特殊な街で領事の役を担われるのは、気苦労の多い事でしょう。特に交易組合との調整は、他の街とは格段に責務の比重が違うとお聞きします。先代のホースエント子爵はやり手だと王都でも(もっぱ)らの噂でした。いかがですか、今の状況は」

 話題ががらりと変わった事に一瞬戸惑ったものの、ホースエントはすぐ首を振った。

(私を試しているのかもしれないが、この程度で動じる訳がないだろうが――。しかしこれは使える。向うから話題を振ってくれるとは)

 この話題は控えようと思っていたが、こうなると話は別だ。

「何の、さほどでもありません」

 そう言った後、あえて少し迷う素振りを見せてから、ロットバルト、グランスレイ、それからレオアリスの顔を順々に見た。

「――いや、正直申しますと、レガージュの古い体制には苦労させられますが」

 この話題に持って行くのはもっとずっと後だと思っていたから、ホースエントは気負わないようそっと息を吐いた。

「皆さん、レガージュでは交易組合がほぼ自治に近い事を行っていて、領事館は力を持っていないとお考えでしょう」

「――」

「いやいや、貴方を責めている訳ではありません。多くの者がそう思っているのです。そしてそれがレガージュの現実です」

 レオアリスはホースエントに真っ直ぐ視線を向けている。その眼差しを前に話をするのは、どことなく息苦しかった。

 だが、こんな機会は作ろうと思っても中々作れるものではない。

「……百年前、我がホースエント子爵家がレガージュに封領された当初からそれは変わりません。百年ですよ」

 力強くそう言い、それからここだけの話と言うように、ホースエントは声を潜めて三人を順に見回した。興味を引いて、取り込みたい。

「そして変わらないという事は――、お分りでしょう」

 誰か後を引き継ぐかと思ったが誰も口を開かないので、ホースエントは自分で口に出した。

「体制が古いんです。全く」

 困った事だと眉を寄せ、息を吐く仕草をして見せる。

「レガージュは変わるべきですよ。ファルシオン殿下の御代ももう遠くないこのご時世に、今のまま旧態依然とした仕組みをただ続けていくなど愚かしい」

 一瞬、目の前の少年が纏う空気が変わった気がしたが、そこに危機感を覚えるほどには、ホースエントは鋭くは無かった。

 普通なら自分の失言に気付き背筋を凍らせるところを、そのままぐっと身を乗り出した。

「そうした時に、ぜひ大将殿にはお力添えいただきたいと」

 ホースエントの言葉を遮り、ロットバルトが穏やかに割って入る。

「ホースエント子爵、お話の途中で申し訳ありませんが、そうした案件は我々では受けがたいものです。我々近衛師団の管轄はあくまでも王の御身と王城の警護ですから、話をお聞きしている限りでは我々の範疇ではありません」

 その言葉はやんわりと、だが明確にホースエントの要望を退けるものだ。

「あ、いや、つい興に乗ってまだ私一人の考えの範囲に過ぎない事を話してしまいました」

 ホースエントは素早くグランスレイ、それからレオアリスの反応を確認した。

 レオアリスはこの件に関しては先ほどから何も口を開いてはおらず、グランスレイもホースエントの話に同意を覚えた気配は無い。

 額にじっとりとした汗を感じる。

(早過ぎたか)

 彼等の反応は、一線を引いたものだ。まだ早過ぎたと、それだけはホースエントにも理解できた。

「ま……まあまだまだ良く検討し、慎重に煮詰めていかなければならない話ですがね。しかしいずれは、近い内に改革は必要なのです。誰かが使命感を持って行わなくては――。しかしそれが達成できれば、いずれレガージュは、王都にもっと近い場所になりますよ」

 そう言ったが、感銘を受けた様子は全く無かった。

 溜息を吐きかけ、それを押さえる。

(頭の固い――近衛師団はやはり体制が古いのだろうな)

 残念だし失望したが、話す相手が間違っていたのだと諦めるしかない。

「――私はこれで。もう一刻後には王都を発たなくてはいけないのでね」

 壁際の時計を見てホースエントは立ち上がった。面会の時間はあと四半刻ほど残っていたが、これ以上いるのはあまり意味が無いと思っていた。

 繋ぎは付けられたのだから、充分に成果はあった。

「とにかく、大将殿がレガージュを訪れる日を楽しみにしていますよ。何といってもザインとの感動の対面ですからな」

 にこやかにそう言って、握手もそこそこ、ホースエントは第一大隊の応接室を後にした。

 士官棟を出て引き出された馬車に乗り込むまで穏やかな表情を浮かべていたが、扉が閉まり見送りの事務官も見えなくなると舌打ちをした。

 思いの他鋭い音が立ち、気まずさを覚えて馬車の窓に視線を走らせる。多分外までは聞こえていないだろう。

 馬車は車輪が石畳を噛む音を立て、動き出した。

「――ふん、話すだけ時間の無駄だったようだ」

 あの場の空気を思い出すと、自分が否定されたような気がしてくる。

「全く、何が父親の友人だ。肝心な話には何一つ乗ってこないで、くだらない。やはり周りが言うようにまだ若過ぎるのだな」

 そう言えば、ザインに会いにレガージュに来るというが、いつになるだろう。

 ホースエントはふと、熱っぽい瞳を上げた。

「――今日明日にでも来ない限り、ザインには会えなくなると教えてやれば良かったか」

 いや、それはまずい。ホースエントはあくまで何も知らない立場なのだ。

 ただそれを知った時のあの若い剣士の反応が楽しみだと思った。




 ホースエントが退出した後、グランスレイは重々しく息を吐いた。溜息を聞き付けて視線を上げたレオアリスが笑う。

「なかなか際どい事を言う人だったな。返答に困った。下手な事は言えねぇし」

「充分です。ああいう場合は積極的に答えを返す必要はありません」

 レオアリスはロットバルトの言葉に頷き、ただその後は椅子に腰掛けたまま、どこか考え込む風情で肘置きに頬杖をついた。

 グランスレイはその姿に一度思わしげな視線を送ったものの、何も言わずにロットバルトを手招き応接を出た。

「――全く、何だあれは、軽薄な。話をしている相手を理解しているのか。初対面の、それも管轄違いの相手に軽々しく口にする内容ではない。王都とレガージュとの調整を担う領事という自覚が足りないのではないか」

 グランスレイにしては珍しいほど饒舌(じょうぜつ)だ。

 それだけホースエントの語った事は、今回の個人的な面会で話す内容には相応しくない。

 そしてもう一つ、レオアリスにとって一番の繊細な問題である血縁について、ああも軽々しく無責任に言及した事も、グランスレイにとっては腹立たしかった。

 レオアリスはその可能性を今まで考えてはいなかっただろうが、多分今はそれを考えている。

 ザインがもし、自分の血縁なら――と。

 ザインはそうは言って来ていない。

 だから可能性は無いのだとそう判っていながら、もはや考えずにはいられないだろう。

「途中で叩き出したくなりましたね――」

 ロットバルトはあながち冗談とは思えない笑みでそう言って、グランスレイに頭を下げた。

「申し訳ありません、少々読み違えました。レガージュは今後付き合いが必要と思っていましたが、領事があのような考えを持っているとなると政治的には距離を置くべき相手のようです」

 ホースエントはレガージュでの領事館の有り方について大分熱心に語っていたが、単なる理想の肥大か、それとも何か確信があるのだろうか。

 ホースエントの言う改革を本気で実行するつもりであれば、王都と連携し、よほど上手く立ち回らなければ却ってレガージュとの関係をこじれさせる事になる。

 改革と現状維持では確かに前者の方が耳障りはいいが、今の仕組みは王都にも充分利があるものだ。

 現状で王都側が危険性を呑み込んでまで、レガージュの状況を変えたいと考えているとは思いにくかった。

「まあさほどの影響はないでしょうが、ザインとの事もあります。少し動静を知っておいた方がいいかもしれませんね」

「そうだな」

「今のレガージュ領事館への評価と、内政官房や地政院でレガージュに絡む動きがあるかどうか、その程度をできれば充分だとは思いますが」

 ロットバルトの言葉にグランスレイも頷き、それからもう一度、まだ開かない応接室の扉を見た。





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