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第3章「潮流」(6)

 陽の傾いてきた夕刻の海の上を、一羽の海鳥が矢のような速度で翔けていく。

 白い鴎に似た鳥は海面の近くを低く飛び、黒い影を青い水面に落としながら東南の方角を目指していた。見渡す限り広がる海原には他の海鳥の姿すら見えず、陸地との距離を伺わせる。

 力強い羽で風を煽り、自らの影を置き去りにするように一直線に飛ぶ――

 ふいに前方の海面が大きく盛り上がり、鳥目がけて勢い良く伸びた。

 鳥が回避する間もなく、先端がまるで蛇の(あぎと)のように二つに割れて広がり、鳥を包み込んだ。

 ばくり。

 雫を飛ばして水の顎が閉じる。

 どうっと重いものを水面に打ち付ける音と共に、鎌首のように突き出していた水の塊が頭から海面に落ちた。

 砕けもせず、あがく鳥を意にも介さず、塊は水底(みなそこ)へと鳥を飲み込んだまま沈んで行く。

 光がギリギリ届く水の底に、一人の男が立っていた。落ちてくる塊を悠然と見上げている。

 鳥を飲み込んでいた塊は男に近付くと、すうっと吸い込まれるような動きで男の左腕になった。

 あがく鳥を掴んでいるのは、今は五本の指だ。

「アル・レガージュの伝令使か。可哀想だがマリへは行けん」

 男は鳥――フィオリ・アル・レガージュの伝令使を冷たい銀色の瞳で見下ろした。

 陽の光が当たらない深海の国の住人を物語る、白くぬめりとした肌。後頭部が(いびつ)に突き出した頭。瞼の無い丸い瞳は時折奥底で光を弾く鈍い銀だ。

 西海の海皇守護兵団を率いる三の戟の一人、ヴェパールは、耳の辺りまで裂けた口で笑った。

「どうせわざわざ行かなくても、マリの方から会いに来てくれるさ。さほど待つ事もあるまい」

 掴んでいた伝令使を無造作に放る。暗い水の奥から巨大な鮫がすうっと現れ、幾重にも並んだ鋭い牙の中に伝令使を呑み込んで、微かな泡を残して水の向こうに消えた。海中には断末魔の悲鳴すら響かない。

「さて――今海の上にいるのはザイン。我が旧知か」

 海上へ瞼の無い瞳を転じる。水面の向こうにある太陽が、小さな白い球のように見えた。

 さほど遠くはない所に、かつて知った気配がある。昨夜沈めたマリの船の生き残りを探しているのだろう。

 依るところなど全く無いこの広大な海原に、頼りなく船を浮かべて。

 そもそも海を()こうとする事そのものが小賢しい。

 それが苛立たせる。

 かつての、あの女のように。

「――挨拶を交わすにはまだ早い。貴様の周囲には幾つかの舞台が用意してある。それを楽しんでもらおうか」

 今後繰り広げられるものを思い、ヴェパールは喉の奥で笑いを転がした。

 今のところ全て予定したとおり――マリの軍船を引っ張り出し、沈めたマリの船の船員を彼等の懐に投げた。七日後にはレガージュの港に、怒りに満ちたマリの軍船が姿を表す。

「さあ、私の傀儡どもは上手く踊れるかな――糸が切れても」

 左右に(えら)のような三筋の亀裂のある喉が震え、重い水の中に笑いの振動が伝わる。

 周囲を泳いでいた鮫や魚達が、振動を怖れるようにさっと散った。





 ザインはふっと瞳を上げた。

 鋭い眼差しが睨み据えた視界には、低く落ち始めた太陽が投げる陽射しに輝く、穏やかな海が広がっている。

 何も変わったものは映っていない。だがざわりと首筋を撫で上げる感覚を、確かに感じた。

「――」

 それまで話をしていたレガージュ船団の曹長コンテが、船の(へり)に手を置いたまま黙り込んだザインに気付いて眺める。

「ザイン、何か?」

 ザインはもう一度自分の感覚を探るように瞳を細め――、首を振った。一瞬だけ、すぐ隣に立つコンテも気付かないほどの微かな笑みがその頬の上を過ったかに見えた。

 ザイン自身さえ意識しているか判らない、ほんの一瞬の閃き。

「――いや、何でもない」

 ザインは視線を戻したものの、たった今意識に触れた感覚はまだ残っていた。

 掴み取り(がた)い微かなものだったが、覚えがあった。

 忘れた事など一度たりとも無い。

 ザインはおそらくそれをずっと――、待っていたのだ。

 右腕が、騒めく。

「組合にゃもう事態が伝わりましたかね。太陽の感じだと五刻くらいかな」

 コンテが言って、ザインは自分の内に向けていた意識を戻した。

「――船団の伝令使なら、この海域から二刻もあればレガージュに着ける。もうカリカオテ達も方針を決めてるはずさ。早ければ飛ばした伝令使がファルカン達の船に戻る頃だろう」

 ファルカンが救出したマリの男を乗せてレガージュへと引き返してから、既に四刻ほどが過ぎている。ザインはレガージュ船団の二番船と共にゼ・アマーリア号が沈んだ海域に残り、船員達の捜索を続けていた。

「しかしファルカン隊長がレガージュに着くにゃァもう三刻ほどかかるでしょう。あの男、()ってくれりゃいいんですが」

「ああ――」

「だいぶ陽が落ちてきて海面の反射がきつくなってきましたしね。この時間帯は波が見えにくくていけねぇや」

 コンテは口元が尖らせて言う。そこにはまだ他の船員を誰も救助できていない事への焦りがあった。今のところ真相を確かめられるのは、あの男一人でしかない。

 たった一人しか救けられないというのも、ゼ・アマーリア号が沈んだその原因も確かめられないままになるのも、どちらもこのまま済ませる訳にはいかない。

「まだ捜索を始めたばかりだ。俺達が動かなきゃ助かる者も助からない」

 ザインはそう言ってコンテの肩を叩くと、再び視線を橙色に染まりかけている広大な海原へ向けた。






 ユージュは弾かれたように顔を上げた。

 ザインの帰りを待って、船団の船が港に入ってくるのを見つけようと、街へは行かずにずっと家の前の海を見渡す芝の上に座っていた。

「――」

 草の上で膝を立て、崖壁の向こうに広がる海へ身を乗り出す。本当にあと僅か前に出れば遥か下の海に落ちてしまいそうだったが、それも全く気にしていない。

 ユージュはそのままじっと身動きせず、遥か南の水平線を見つめた。

 遠くから一瞬、突き刺すように海を抜けてきた、感覚――

 真っ直ぐ、瞬きもせずに水平線を見つめていたユージュは、やがて細い身体を震わせ始めた。

 芝の上に膝を抱えるようにして(うずくま)り、ただ瞳だけは熱を帯びながら真っ直ぐ水平線に向けられている。

 目覚めて、父が海へ出た事を知った時よりももっと大きな不安がユージュの中に膨れ上がっていた。

「父さん――」

 怖い。

 すごく――、すごく怖い。

 こんな感覚は初めて感じた。

 その空気だけで、肌を裂くような。

 自分でも気付いていないまま、ユージュは小さく呟いた。

「父さんダメだ……帰ってきて……」






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