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第3章「潮流」(1)

 ぎし、と船体が鳴る。

 フィオリ・アル・レガージュは夜明け前から二隻の船団の船を出し、昨夕沈んだゼ・アマーリア号の捜索を開始した。

 ザインはファルカンと共に船団の船に乗り込んだ。

 風を孕んで膨らんだ帆が軽快に船を走らせ、波音が辺りを包む。まだ朝の遠い海は海面のすぐ下すら覗けず、固く艶やかな塊に見える。

 舳先が海面を割り、白い波を黒い海面に蹴立て、船が走る。

「この船の脚なら大体三刻くらいでゼ・アマーリア号が沈んだ海域に着く。ちょうど夜が明ける頃だ」

 揺れる船室で、ザインとファルカンは床に据え付けた卓に海図を広げ、小さな燭蝋の灯りを頼りに覗き込んでいた。ザザ、と船の回りを取り囲む波音が絶えず聞こえる。

「どこで沈んだかは想定できるか?」

「昨日、エレオノーラ号が破損したアマーリアの船体の欠片を見つけたのがこの辺りだ。ちょうど潮は大陸に向けて流れていた」

 エレオノーラ号の船長ミゲルからの報告を元にファルカンは海図の上を指で示した。陸上の地図と違って目印などほとんど無く、長年の経験が物を言う。

「嵐の後だから普段より潮流も早い。嵐が発生した時刻を考えるとおそらく、エレオノーラ号の停泊点から南東へ一刻ほどの――、この辺りだろうな。ぎりぎりこの国の海域だ」

「――南東、か」

 本当に、と聞き返したいところを堪え、ザインは眉をひそめた。ファルカンの指先が示した海域は彼の想定していた海域とは違ったからだ。

(西じゃないのか……)

『海でできた船が、ゼ・アマーリア号を沈めた』

 昨日、ユージュは夢の内容をそう告げた。

 その言葉はザインの脳裏に、三百年前フィオリの乗った船を沈めた西海の船を思い起こさせた。

 あれは、海の中から現れた。波が形を取ったような船。

 今回のユージュの夢。

 だから、ザインは――

 しかしファルカンの指はレガージュよりもずっと南を示している。少なくともそこは、西海の領海とは言えない。

「ザイン? どうかしたか?」

「いや、――判った」

(偶然、ユージュの夢の中で重なったのか)

 過去と現在が。多分そうなのかもしれない。

(俺が重ね過ぎているのかもな)

 西海との海域に近い位置でならともかく、ここまで深くこの国の領海に入り込んだ場所で事を起こせば、問題はレガージュの範囲では収まらないものになる。

 今回は、嵐で座礁しただけなのだ。西海は関係なく。

(――そうなのか、本当に)

 何が理由だろうか。少なからず感じる――、違和感。

「それで生存者の捜索方法だが、これも潮の流れを考えると座礁した海域より陸側を重点的に探すべきだと思う。まだ暗いが甲板に上がろうぜ、ザイン」

 ファルカンは海図の上に重しを乗せると卓の傍を離れ、背後の扉を開けて廊下へ出た。ザインと二人、狭い廊下から狭い梯子を昇る。ファルカンは梯子を昇った先にある扉の把手に手を掛けた。

 彼等の船から離れた場所の海面の、更にその下の深い所で、一瞬だけ緑色の玉のような光が揺れ、ふっと消えた。

 甲板の後ろ寄りにある扉ががちゃりと開き、ファルカンとザインが甲板に出てくる。船体の縁から水面近くに幾つも灯りを吊っているお陰で、辺りは少し明るかった。灯りは海面を見易くする事と、向こう――この場合遭難者から船を見つけ易くする事の二つの目的があるが、水面近くに灯りを吊すのは自分達の視界を妨げない為だ。

 ザインは船の縁に寄って海上を見回した。左右の海はまだ暗い空との境界も曖昧で、さほど遠くまでは見通せない。

 ぐるりと視界を移し、西へ向けたところでザインは瞳を据えた。

「――」

 昨日の夕方、ユージュが口にした言葉が再び思い出される。

 そして三百年前、この海で沈んだ船が。

(フィオリ)

 ふいに鋭い痛みが胸の奥に走った。冷えきった水のようなそれは、悲しみと言う名の痛みだ。

 或いは拭い切れない後悔と怒り。

(俺が、君を守ると言ったのに)

「……ザイン」

 ファルカンが遠慮がちにザインを呼ぶ。それが自分を(おもんばか)っているのだとザインにも判っていて、ザインは苦笑を隠してファルカンへと近寄った。

(俺は何も変わってないな――)

 あの日から、ずっと。

 ただ、変わるつもりも無いが。

 ファルカンは東の水平線を確かめるように睨んだ。

「あと一刻ほどで陽が上がる」

 彼方の水平線は次第に、空との境界線を浮き上がらせ始めている。

「その辺りで二手に別れる予定だ。俺達はこのまま真ん中の海路で現場へ、もう一隻は陸側から回ってアマーリア号の沈んだ海域に向かう。エレオノーラ号と船団の護衛船も夜明けと共に海域の捜索を再開するはずだ。必ず助けられる奴がいるさ」

 ザインは頷いて、ゼ・アマーリア号が沈んだ南の方角を見つめた。とにかく今は、少しでも多く船員達を助けられればそれでいい。

 次第に明るさを増していく空に合わせて、船も速度を速めたように思えた。







 きれいな(つるぎ)がある。

 青白く、月の光に浸したように輝く刀身。

 父の剣とも違うし、ユージュは自分の剣はまだ一度も見た事はないけれど、違うと思った。

 だってあの剣は、二本ある。

 互いの形を写したような、寸分違(たが)わぬ美しい剣。

 そこに宿る、身を震わすような力。

(誰の剣?)

 剣の向こうに誰かが立っている。それがこの剣の持ち主だと判った。

 ユージュには顔が良く見えなかったが、相手はユージュの視線に気付いて笑みを浮かべたように見えた。

 誰だか判らない。

 でも、近いうちに出逢う。

(きれいな剣――)

 もう少ししたら。

(早く会いたいな)





 意識がゆっくり浮上するのが判る。

 目が覚める時はいつもそう。自分の身体の中心から先端に向かって、次第に自覚していく感じ。

 指先を動かす。

 ユージュは寝台の上で眼を開けた。

 どれほど寝ていたのだろう。自分では全く判らない。いつも父が教えてくれて、それで初めてどれくらい寝ていたのかを知る事ができた。

「父さん」

 始めはかすれて小さな声だった。枕元に常に置かれている水差しから真鍮の杯に水を注ぎ、ごくんと飲んで乾いた喉を潤した。

「父さん?」

 今度ははっきり声が出た。声を出したら、その拍子に昨日の事を思い出した。

 夜か夕方かに一度、起きたと思う。長い間眠る事のあるユージュには、昨日ではないのかもしれないが、それでもつい最近だ。

 父はユージュがもう一度眠るまで、ユージュの頭を撫でてくれていた。でも今はこの部屋にはいない。

「下かな」

 居間にいるのかもしれない。取り敢えず今が何刻くらいなのか知りたくて、ユージュは寝台を降りて窓に近付いた。

 背伸びしてガタガタ音を立てる窓を押し上げ、鎧戸を開けると、朝の澄んだ陽射しと風がさっと室内に入り込んで来た。暖かい空気が冷えていた室内の空気と混じる。

 家の先にある岸壁の向こうに、いつものように輝く青い海が広がっている。

 その海を見たとたん、沈む船の光景が脳裏に閃き、さあっと血が下がるような感じがした。

「船――沈んだ?」

 ユージュは窓枠に手を付いて身を乗り出し、窓から見える限り、三方を見回した。

「船は――」

 海はとても穏やかに陽射しを弾いてたゆたっている。何も変わったところは見当たらない。

 ユージュはほぉっと息を吐いた。

 夢――そう、夢だ。船が沈んだ夢を見たのだった。とても、怖かった。

 その夢のせいで目を覚まして――、悲鳴を上げた気がする。それでザインが来てくれて、抱き締めてくれた。

 ただ夢を見ただけで、きっと船は無事だと、慰めてもくれた。

「父さん、どうしただろう」

 普段いる事の多い岸壁の上にも、今は姿は見えない。窓から離れ、部屋の扉を開ける。窓からの風がふわりと廊下に流れ込んだ。

 短い廊下のすぐ先に階段があり、階段の手摺りからは僅かに下の居間が見えるが、居間にもザインはいないようだ。

「そっか、今日はもう出かけたんだ」

 今は朝の七刻か、八刻だろうか。港に出ていてもいい時間でもある。起きた時に父がいないのはやはり淋しさを感じたが、それは仕方がない。ユージュは取り敢えず居間に降りる事にした。

 大抵、ユージュが起きた時の為にザインは書き置きをしていく。

 いつものように食卓の上に紙があるのを見つけ、ユージュは手を伸ばしてそれを取った。

 薄い茶色の便箋に、父の字で数行の文字が記されている。

 今日の日付。三月――花待ち月の二十五日。

(寝たのは十五日だったから、十日前だ)

 今回は短かかったな、と思いながら、また便箋に眼をやった。

 食事ができているから温めて食べるようにという事。

(おなか空いた)

 起きた後はとても空腹だ。へこんだお腹の辺りをさすりながらユージュはその次に書かれていた文を眺め、とたんに空腹は吹き飛んでしまった。

「え……」

 マリの船が嵐で沈んだらしい、船団の船で生存者の救出に同行する、という事――。

「船が」

 ユージュは気にしなくていい、いつも通り過ごすように。

『今日は帰れないかもしれない。ごめんな』

 今晩自分が帰らなかったら街へ行くようにと書いてあった。

 気にしなくていいというのは、はっきり言葉にはしていないが、多分ユージュの見た夢の事だ。

 船が沈む夢。

 マリ王国の、何という船だったか――夢の中で明確に、その名前を見た――。

 ゼ・アマーリア号だ。ザインの手紙には船の名前は書かれていないが、でもマリ王国の船だった。

「夢――じゃ、ないんだ」

 どくりと鼓動が鳴る。

 嵐の中で、船がぶつかって――荒れた波に呑まれた光景が、まだはっきりと思い出せる。

 嵐の中をゼ・アマーリア号に近付いて、ぶつかった二隻の船。

「……違う、あれ、船じゃない」

 どくん、とまた鼓動が鳴った。

 海から生まれた。

 波が形を造って、船に化けた。それが、ゼ・アマーリア号にぶつかってゼ・アマーリア号を海に沈めたのだ。

 わざと。

 ユージュは思わず外に駆け出した。もやもやとした不安が黒い雷雲のように胸の中に湧き立った。

(父さんに言わなきゃ――)

「父さん!」

 手紙を握り締めたまま、ユージュは周囲を見回して声を張り上げ、父を呼んだ。

「父さん!」

 ザインは船の上だ。呼んでも仕方の無い事は判っているが、焦りと不安が渦を巻いて、ユージュはまた声を張り上げた。

 そうして声を張り上げながら、それは父に夢の内容を知らせたいと言うよりは、父を呼び戻したくて呼んでいるのだと自分でも判っていた。

 帰ってきて欲しい。

 海になんかいないで。

 でも沈んだ船を捜しに海に出たのであれば、本当に今日は戻らないかもしれない。

 心臓は落ち着かず大きく鼓動を鳴らしている。先ほど夢の事を思い出した時よりももっと、血の気が引いた。

 ザインは滅多な事では船に乗らない。それは彼の仕事が港とレガージュの街の中だけで済むからでもあるが、やはり深く辛い記憶が否応なしに思い出されるからでもある。だから父が船に乗るのは何か事故や事件があった時だけだ。

 ユージュも、父が船に乗ると聞くと不安だった。母、フィオリのように海でいなくなってしまったら――という不安だ。

 それでも大抵は、海と船での航海への憧れも、ユージュの中では強かった。

 けれど、今日は少し、違う。

 何故だか、いつもは感じた事の無い不安が胸の奥から湧き起こってくる。今すぐにでもザインを呼び戻したくて、ユージュは海に向かって父を呼んだ。

「父さん!」

 呼びながら、夢の話などするのではなかった、と心の片隅で思った。







 レガージュの交易船エレオノーラ号とその護衛についていたレガージュ船団の船も、夜が明ける頃から帆を張りマリの船員の捜索を始めていた。

 二隻の船の周辺には、海面にまだ点々と破損した船の木切れが漂っている。それを辿って船を進める内に、やがて前方の海面にいくつもの物体が散乱しているのが見えてきた。おそらくゼ・アマーリア号の積み荷だろう。

「沈んだのはここらだな……」

 エレオノーラ号の船長ミゲルは厳しい顔を辺りに向けた。既に太陽は東の空に斜めに上がり海面は遠くまで見通せたが、見えるのは船の木切れと積み荷だけで船員の姿が無い。

「ひでぇな、ばらっばらになったんだ」

「あの嵐でか? 信じられん。そこまで柔な造りかなマリの船も」

「何かあったんじゃないか――海賊とか」

 少なくともそれは、嵐で沈んだだけとは考えられない光景だった。(ひし)めくように散乱する木切れと積み荷は、この船が無慈悲に打ち砕かれた結果だとありあり見せつけている。

「けど、積み荷がほとんど残ってるぜ。海賊たぁ思えねぇ。ああ、ありゃうちの小麦だろ、あの袋」

「ああ――」

 寒々しい光景に、ミゲル達もレガージュ船団の団員達も、束の間言葉を無くして黙り込んだ。

 ザインはユージュの夢の内容をまだファルカンにも伝えてはおらず、彼等はマリの船が嵐で沈んだとしか考えていない。ただそれでもどこか小さな違和感は彼等にも感じられていた。

「とにかく生存者を探そう。昼前にゃあファルカン団長達も来る」

「そうだ、これだけ荷が浮いてりゃ、案外助かった奴は多いかもしれないぞ……」

 そう口にした船員も、それが気休めだと自分でも分かり切っていて、声は最後は口の中だけで消えてしまった。

 氷の海を割るように、船は舳先で浮かぶ積み荷を掻き分けながらゆっくりと進んだ。舳先にぶつかった積み荷がその度にゴツゴツと音を立てる。

 陽射しが強く空と海の青さが際立っているのが、いっそ不思議な感じがした。

 全員黙ったまま海面に視線を凝らす。動くものが少しでも、人影が一つでも、あればいい、と――

 帆柱に登って海面を見渡していた船団員はある一点で目を止めた。水中で何か光った気がしたからだ。

「あれは……」

 船団員はその一瞬ちらついたものに目を引かれ、正体を探そうと帆柱に掴まって身を乗り出した。

 何か――緑の小さな光が、すうっと尾を引いて海の底に沈んでいく。

 光があった場所には積み荷の木箱が一つ、と。

 船団員が瞳を見開く。

 人影だ。

「――おい、おいあそこ! いたぞ! あそこだ!」

「本当か、どこだ」

「右舷後方!」

 反対の(へり)で身を乗り出して海面を睨んでいた船団員達も、朗報に駆け寄る。ちょうど船の右舷から五間ばかりの波間に、木切れにもたれかかるような人影が確かに見えた。

「生きてるか?!」

「判らん、こっちを見てない!」

「早く船に上げろ!」

 一人が着ている物を脱ぎ捨てると、どぼんと水しぶきを立てて海に飛び込んだ。同時に投げ入れられた救命具を片手に、抜き手を切って漂う男へと近付いていく。

 水音にも男は動かず、木切れにうつ伏せの状態で漂っていて、甲板の上には息を飲み込むような沈黙が流れた。

 ほどなく看板に、ぐったりとした男が引き上げられた。

 二十代後半ほどの体格のいい男だが、身体は冷えきりあちこちに傷を負っている。傷は海の水にすっかり洗われ、褐色の顔は血の気が失せていた。

「――」

 駄目だ、と誰もが心の中で思いながらも、船団員が一人、急いで人工呼吸を始めた。別の船団員が持ってきた毛布で身体をくるむ。

 男の身体についた傷を確かめて、この船の船長でレガージュ船団の曹長のクレメルは片方の眉を上げた。

「こりゃ刀傷とかじゃねぇな。沈んだ時に船の破片でやられたんだろう」

「じゃやっぱり嵐で沈んだのか」

「多分だけどな」

 クレメルが頷きかけた時、蘇生措置をしていた船団員が声を上げた。

「息をしたぞ!」

 ごほ、と何度か咳を繰り返し、それから弱い呼吸が戻る。甲板に歓声が上がり、クレメルも男の傍らに膝を付いた。

「おい、判るか」

 呼びかけには明瞭な反応は無く、半分開かれた目はまだ焦点を結んでいない。

「まだ無理か――とにかく船室に運ぼう」

 立ち上がりかけたクレメルの服の裾を男の手が掴んだ。

「おっ」

 男はぶるぶると唇を震わせた。

『――ふね、は』

 マリの言葉だ。

『お前の船は嵐で沈んだんだ。でもお前は助かった。助かったんだよ、もう大丈夫だ。今他の船もお前の仲間を捜してる』

『……が』

 男は紫に腫れ上がった唇を、無理に開こうと懸命になっている。

『いいから、安心して寝ていろ』

『……ちが、う』

 クレメル達は顔を見合せた。

『違う? 違うって何が』

 この状態で話をさせるのは酷かとも思ったが、妙に気になってクレメルは膝を付き男と向かい合った。

 男が一度、息を吸い込む。ごほ、と何度かむせた。

 ただ男の半開きの目には、無視できない光がある。何かを必死に伝えようとしている。

『……沈め、られた』

「ええ?」

 男の声ははっきり響いた。

『しず、め、られたん、だ……くそ』

 クレメルは隣の船団員と視線を交わし、船団員は帆柱に登っていた他の船団員へ合図を送った。

 近くに海賊船がいるのかもしれないと思ったからだ。

『――何に……海賊にか?』

『レ……ガージュ』

 クレメル達は初め男が何を言ったか良く判らず、自分の聞き間違いかと仲間達を見回した。

『船団――レガージュ船、団の、船に』

 呆気に取られ、クレメルも船団員達も皆男を見下ろした。

『船団が、俺たちの船を……ふざけやがっ……て』

「――いや、おい――お前何言ってんだ」

 話が良く判らない。クレメル達はついぼうっとその場に突っ立った。

『国に、報せ』

 呻くように言って、男はそのまま昏倒した。

「――おいっ! ――しっかりしろ! 今の話は何だ!」

「よせ、気を失ったんだ」

 揺さ振ろうとした船団員の肩を掴んで止めたものの、クレメルも混乱した顔で気を失った男を眺めた。

「今、船団の名前を出したよな」

「まさか――、聞き間違いだ」

「聞き間違いじゃねぇよ。確かに船団って言いやがった」

 レガージュ船団の船が、ゼ・アマーリア号を沈めたと。

 本当にそう言ったのなら、無視はできない問題だ。当然誤解だと思うが、きちんと状況を確認し、何があったのかを確かめる必要がある。

「どうする?」

「どうするったって目を覚まさねぇと確認もできねぇし」

 船団員は不安な面持ちで男を見下ろした。その不安は、男の容態が悪い事から来るものだ。

 もし万が一、このままこの男が死んでは、男が言った言葉の真相を確認できなくなる。

 クレメルは歯痒そうに唇を引き結んだ。

「――できねぇモンは仕方ねぇ。ファルカン団長に報告して、判断はそれからだ」

 視線を海に転じれば、鮮やかな青の中に浮かぶ木切れと積荷が無残さと無念さを訴えてくるようだ。

「船団が船を沈めただと――? ばからしい。単なる思い違いだ、混乱してんだよ」

 彼等の船のずっと下の海中で、丸い緑の光がゆらゆらと揺れた。水中に微かな笑い声が響いていたが、誰も聞く者はいなかった。








 エレオノーラ号とレガージュ船団の船がゼ・アマーリア号の遭難場所で男を引き上げてから四刻ほど後――百数十里離れた南海の海原に、一隻の船が炎を上げていた。もう帆柱は崩れ落ち、今にも沈みかけている。

 そして燃え上がる船を囲むように十二隻もの船が停泊し、ものものしい雰囲気を漂わせていた。

「最近海賊どもが賑やかだ。これでマリを出てから三隻目だぜ、海賊の船を沈めるのは。二十日で三隻たぁ全く、時間をもてあまさなくて助かる」

 事もなく言い放ったのは中央の船の舳先に立つ壮年の男だ。短く刈った黒髪と陽に焼けた肌、軍服に包んだ隆々とした筋肉と六尺五寸はあろうかという上背、左目から頬に一筋走る刀傷とその隻眼。迂闊には近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

 船は南方マリ王国が有する海軍の軍船で、最近、頻繁に交易船を襲っている南海の海賊を討伐する為に、二十日前に母国を発っていた。

「ほぼ情報通りですね、メネゼス提督」

「まあな。わざわざこんな遠海まで一個船団も引っ張って出てくるのはどうかと思ったが、こうしょっちゅう出会うんならこの先の島が海賊どもの巣だってのはあながち嘘でも無さそうだ」

 国を出る前に得た情報――正確にはその情報があったから、メネゼス達は一個船団を率いてこの海域にやって来た。

 マリ王国の海軍府に持ち込まれた海賊の根城に関する情報で、港に流れ着いた水夫の話だった為に信憑性には多少の疑問もあったが、日頃交易船への海賊行為に業を煮やしていたマリ王国海軍は、提督メネゼスが十二隻の船団と共に討伐に出た。

「貴方の甥御の為にも、さっさと一掃したいものです。アマーリアは今ちょうどレガージュへ交易に出ているんでしたっけ」

「ああ、そろそろ帰路のはずだ。まあ甥っ子だけの話じゃねぇけどな。根城を叩けばしばらくは安全に航海できるだろう」

 海賊達の根城といわれる島は、強国アレウス王国の交易都市フィオリ・アル・レガージュとの重要な交易路に程近い海域にある。小さな無人島が点在する環礁群の中で、交易路から南に二日ばかり逸れた場所だ。今彼等がいる地点からだとあと三日ほどかかる。

「どっちかって言うとレガージュに近い場所だよな。まあレガージュ船団はさすがに自分達から海賊討伐なんて事は考えないだろうが、それなりの謝礼でも貰いたいところだ」

 メネゼスが冗談めかしてそう言ったのは、海賊の根城とされる環礁群がフィオリ・アル・レガージュから船でほぼ五日の場所にあるからだった。

「例の剣士がいるんだからレガージュにも討伐は可能だと思いますがね」

「剣士か? 大層な力を持ってるらしいが、それも話半分だな」

「まあ今回海賊を叩けば、取引で我々に有利になる交渉ができますよ」

 海賊船が完全に焼け落ちたのを確認し、マリ王国海軍一個船団は大海原を西へ進み始めた。

 先ほどの海域から一刻ばかり進んだ、ちょうど太陽が中天に上がる頃の事だった。帆柱の監視台にいたマリ水軍の一等兵が、手にしていた遠見筒を覗き込み、それから甲板へ合図の旗を振った。

「提督、前方に一隻、帆船がこちらへ向かって来ています」

 メネゼスと副官が顔を上げる。

「海賊か」

「いえ――」

 一等兵はもう一度遠見筒の中の船影をじっと見つめた。帆柱の先端に翻る旗の紋章が確認できる。「レガージュ船団の船です」

「レガージュ船団? 一隻でか」

 メネゼスは一段高くなっている舳先への短い階段を登り、前方へ目を凝らした。船影だけならもう肉眼でも確認できる。確かに一隻だ。

交易船(おや)はいないのか?」

「見当たりません」

「珍しいな、船団の船一隻だけとは」

 レガージュ船団の役割は交易船の護衛で、一隻の交易船に一隻付くのが基本的な形態だった。今のように船団の船一隻だけで航海しているのは非常にめずらしい。

「はぐれたのかも知れねぇな」

 昨夕、ゼ・アマーリア号の船員が口にしたのと同じ言葉を、メネゼスも口にした。

 太陽の陽射しに海面が温められて陽炎のように揺らぐ空気の幕の向こうから、レガージュ船団の船は真っ直ぐ彼等の方へ進んでくる。

「事情でも聞くか。交信しろ!」

 メネゼスの指示で、物見台にいた一等兵は手鏡に陽光を反射させ、近付いて来るレガージュの船に信号を送った。停船を求める信号だ。

「――」暫くの沈黙の後、一等兵は甲板に叫んだ。「停船しません! 返信も無しです!」

「はあ? こんなに近付いてながらこっちを見てねぇのか。有り得んな」

 船乗りの常識と決まりとそして礼儀として、それは有り得ない。もう一度信号を送れ、と片手を振る。

 一等兵は遠見筒を覗き、それからまた手にした鏡を持ち上げた。

「……ん?」

 一瞬、前方のレガージュ船団の船影が、太陽の光に透けたように揺らいで見えた。

 直後に船首の下あたりの海面で、緑色の光が踊ったように見える。

 だが良く目を凝らそうとする前に、一等兵は別のものに気を取られた。

「――何だ、あれは」

 再び遠見筒を覗き込み、一等兵は呻き声に似た唸りを上げた。

「何て事だ――」

 舳先に人が括り付けられている。

 もうほぼ肉眼でも、船の全体が確認できる距離だ。遠見筒では括り付けられた男の服装までが良く見えた。

 マリの衣装を纏った、おそらく水夫だ。意識が無いのか、ぐったりと首を垂れている。

「――て、提督!」

 一等兵の声には警告と憤りがあった。

 船の舳先に、まるで船首像代わりに括り付けられた水夫。それは明らかに、(まが)いようの無い敵意と悪意を感じさせた。






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