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第2章「陰影」(9)

 大広間の吹き抜けから吊り下げられた幾つもの燭台には、雫の形をした硝子の欠片が揺れ、光を無数に反射している。

 楽隊の奏でる優雅な楽の()。たゆたう香水。大理石の床に踊る幾つもの影。

 衣擦れの音と、密やかな会話が織り成す騒めき。

 アスタロトは硝子扉を背にしたまま、じっとしていた。

 宴は舞踏会へと移り、大広間の中心にできた輪のような広い空間がその舞台になっている。

 中央ではファルシオンと王妃が緩やかな足取りで踊っている。幼い王子が母の手を取り踊る様は可愛らしく、微笑みを誘う光景だ。

 平穏な――。心からそう思える。

 軍とは言っても他国との戦乱は久しく無い。ミストラ山脈や黒森により他国と隔てられた国土は、それゆえに交易や親交を疎遠にするものの、この国が安定している要因の一つになっている。周辺諸国は情勢の不安定な地域が多く、特に東の山脈を隔てた国々は戦乱の噂が絶えず聞こえてくる。

 でもこの国は、安泰だ。軍など必要無いと思えるくらい。

 それは確かに、国内の治安維持は重要な責務で、正規軍は役割を果たしているが。

(もしか、したら……)

 その先は心の中でも、思い浮かべるのすら躊躇うものだった。

(でも)

 でも、心の中に形を成してきたそれを、アスタロトは気付いている。

 数百の燭蝋の灯りに揺れる影。楽曲が一度緩やかに終わり、今度は別の曲が流れ出す。アスタロトもこの曲は知っていた。

 『月光』――エアリディアルの為に作られた曲だ。

 ファルシオンは王妃の手を離すと今度はエアリディアルに手を差し伸べ、エアリディアルはほっそりした手をその上に乗せた。

 月の雫が零れる様を表現した澄んだ音から、降り注ぐ光と澄み渡る大気を感じさせる重なり合う音へと、曲は広がっていく。ふわりとエアリディアルの服の裾が舞い、周囲で踊る者達も微かな溜息を洩らした。

(きれい――私は、あんなふうに踊れない)

 踊る必要なんて無いとずっと思っていた。アスタロトは正規軍を束ねる将軍なのだから。

 炎を支配する炎帝公。たおやかさなどとは無縁でいいのだと。

(――)

 アスタロトはレオアリスの姿を探し、鼓動を打って瞳を止めた。ファルシオンの近くだ。

 胸の中心で、ふわりと沸き上がるこの感覚は何なのだろう。

 切なくて温かくて、痛い。

 見えもせず、捕まえる事もできないのに。

 傍らに立っていたルシファーがアスタロトを見る。その瞳は先ほどと同じ事を言っている。

『貴方は否定ばっかり。そんなのは損よ』

(……否定、したい訳じゃ、ないけど)

 髪飾りに気付かれないのが悲しい。

 傍に行けないのが、淋しい。

 声が聞けないのが――

(何言ってるんだろう、私)

 肯定したら、苦しい事ばかりじゃないか。

 レオアリスはファルシオンに近い位置に立ち、視線を向けている。その姿は目の前の華やかな光景とは一線を画すように見える。

 こうした場でアヴァロンが踊る姿など見た事がないから、多分警護としてそういうものなのだ。

 だからレオアリスが誰かと踊る事などないけれど、ああして目の前で踊る姿を見れば、きっと綺麗だと思うに違いない。

 ふわりと、風に揺れる柔らかな絹のような、仕草。

 レオアリスの視線はずっと、ファルシオンへ注がれている。

 他に向けられる事などない。

 ファルシオンへ――美しく羽根のように踊るエアリディアルへも。

 アスタロトは手をあげて、胸の位置を抑えた。

(――苦しいよ――)

 ――好き、という感情はこれだろうか。

 名前を呟けば心が締め付けられる。

 誰かを好きになるという事は、もっとふわふわと柔らかく楽しいものばかりだと思っていた。

 何故、こんなに、苦しいのだろう。

(――帰りたい)

 ルシファーが、肩に手を掛け、引き寄せる。

 額をくっ付けるように頬を寄せた。そっと囁く。

「大丈夫、悲しい顔をしないで」

「――ファー」

「悩む必要なんてないわ。ただ縛られてしまっているだけ。貴方自身が、自分で今の立場に自分を縛り付けて目を閉じてしまっているのよ」

 慰めにアスタロトの頭を引き寄せ、髪を撫ぜた。ルシファーの声は優しく心をほぐしてくれるようだ。

「アスタロトだから駄目だって決めているのは、貴方じゃなくて王と周りよ。そんな事に貴方が捕われてしまうなんて意味が無いでしょう?」

「意味が――ない?」

 ルシファーの言う意味は、よく判らない。何だか頭が重い。夜明け色の瞳が綺麗だとか、そんな事を思った。

「大体ね、王が決めた事が絶対じゃあないわ」

「王――」

 そうか、王がそう決めたから。

 レオアリスを近衛師団に入れたのも、今の地位に押し上げたのも、全て王が決めた事だ。

「捕われる必要がある?」

 王が。

「捕われる、必要……」

 空気が揺れた。

 アスタロトははっとして瞳を上げ、二階の回廊の一角を見つめた。

 広間に満ちていた浮き立つような空気が、一点から広間の隅々へ、すうっと張り詰めていく。

 それだけで、判る。王がこの大広間に姿を現わしたのだ。

 アスタロト達の正面、回廊にある扉が開いていて、そこからアヴァロンが先に入ると、続いて王が入室した。

 王の面が真っ直ぐこちらへ向けられている気がして、アスタロトは思わず視線を落とした。

 追いかけられるような圧迫感を覚え、肩に力が籠もる。王の視線が向けられている。

 ただ、アスタロトに、ではない。

(――)

 アスタロトはそっと、王の視線を辿って瞳を上げた。傍らの――、ルシファーの横顔。

 ルシファーは顎を上げ、唇に柔らかな笑みを浮かべて、真っ直ぐ王を見つめていた。

 その、ひどく印象的な横顔。

「――」

 ふ、と圧力が消える。

 見上げれば王が視線を逸らし、回廊を歩き出したところだ。

 王の来臨に客達が騒めき、広間は一層の歓喜に満ちた。再び楽の音が流れ、あちこちで会話が戻る。

 アスタロトはふう、と息を吐き、それからふと思った。

 何故、王の視線に圧迫感などを感じたのだろう。いや、王の視線がはっきりアスタロト達に向いていたかも定かじゃない。

 多分アスタロトが考えていた事が、ちょうど王の事だったから――

(……王、の――)

 ぐっと何かが心の奥に差し込んだ。身体の芯がぶるりと震える。

 何かは判らないが、自分が考えていた事に、どことない戦慄じみたものを感じていた。




 ふわぁ、と小さくあくびをしたファルシオンに気付き、エアリディアルは弟の頬に手を当てた。祝賀の宴が始まってからもう二刻以上経って、今は夜の八刻を過ぎている。

「そろそろ殿下はお帰りになるお時間ですね」

 年に一回の特別な日とは言えあまり遅くまで起きているのはよくないし、そもそも一日中緊張し続けで、ファルシオンはすっかり疲れていた。

 エアリディアルがそう言えば、周囲にいてファルシオンに話しかけようとしていた者達も諦める他無い。

 眠くなっていたファルシオンは特に異存もなく、座っていた椅子から降りると広間を見回した。宴の主として、来賓達への挨拶を述べる為だ。大広間はすぐに王子の姿に気付いて、さわさわという微かな衣擦れの音を残して静かになった。

「今日は私の為に集まってくれた事に礼を言う。この後も心ゆくまで、宴を楽しんでもらいたい」

 人々が頭を下げて見送る中、ファルシオンは回廊へ上がり、大広間を後にした。

 王城の六階層から上が王やファルシオン達の居城となっている。王城と居城を隔てる門を潜るとまず「控えの廊下」と呼ばれる真っ白な石造りの廊下があり、長い廊下の左右に控えの間が並ぶ事からそう呼ばれていた。

 控えの廊下を過ぎ東の区画へ向かう。小山のような王都の(いただき)部分、ちょうど東側全てが王太子の為の館や庭園となり、王の館は南と西側を占め、また北面に王妃と王女の館があった。

 居城の門を潜ってから更に長い廊下を歩くと、白い廊下の先にファルシオンの館の門が見えて来る。門の前には知らせを受けていたハンプトンや侍従達が並んで迎えていた。

 警護官長はファルシオンの館の門の前で足を止め、ファルシオンを見送る為に跪いた。

「長いお時間のご責務、お疲れ様でございました。一日、殿下を何事もなくお支えできた事に安堵致しております」

 ファルシオンの館の警護官長は一月からその任についたばかりで日が浅く、接し方もまだかなり堅苦しい。

「大儀であった」

「はっ。今宵はごゆっくりお身体を憩われますよう」

 深々と頭を下げて立ち上がり、レオアリスと出迎えたハンプトンにそれぞれ目礼すると、くるりと直角に向きを変えて歩み去った。

 ファルシオンは館に入らずじっと警護官長の後ろ姿を見送ってから、レオアリスを見上げた。

「はやく、もっとたのしくならないかな」

「それを仰るなら、気楽に、ですね」

「きらく」

 ファルシオンがこくりと頷く。ハンプトンは微笑んでお辞儀した。

「お帰りなさいませ、殿下」

 門を潜り館に入ると、ファルシオンはほおっと息を吐き、前を行くハンプトンの袖を引いた。

「終わり?」

「ええ、全て終わりでございます」

 ハンプトンが大きく頷き、ファルシオンはようやく解放された事に相当安心したようで、今度はもっと盛大に息を吐き出した。

「はぁー」

 静かな廊下にくっきりと流れ、レオアリスが笑みを浮かべる。

「ご立派でした、とても」

 その言葉が嬉しかったのだろう、きらきらとした瞳が向けられる。

「本当?」

「もちろんです」

「私は、父上に似てたか?」

「良く似ておいででした」

 ファルシオンは幼い面をぱあっと誇らしげな色に染めた。

 手を伸ばしてレオアリスの手を握り、少し背伸びするように顔を上げる。もうちょうどファルシオンの居室の扉の前だ。

「じゃあレオアリス、また私の警護についてくれるか?」

 ハンプトンは扉を開ける手を止めて、ファルシオンの横顔を見つめた。朝も同じような事を言っていたが、レオアリスが一日自分の警護に付いていた事はファルシオンにとって本当に嬉しかったようだ。

 レオアリスはファルシオンの前に跪き、頷いた。

「陛下がお命じになれば、いつなりと」

(あら……)

 ハンプトンがそっと口元を押える。立場に相応しい答えではあるが、ファルシオンにとっては期待していた言葉とは違うだろう。

「――うん」

 見開くようにレオアリスを見上げていた瞳が僅かに下を向く。しょげてしまった感じだ。

「? 殿下?」

 レオアリスは自分が言った言葉の裏を返したところにある意味など気付いていないようで、訝しそうにファルシオンを覗き込んだ。

「何でもない」

「とにかく、お部屋へ」

 とりあえずハンプトンは二人を居室へ通すとファルシオンを椅子に座らせ、それからファルシオンがまた喜ぶに違いない事を持ち出した。部屋の飾り棚に乗せていた小さな箱を取って戻り、レオアリスにそっと手渡す。

「大将殿、殿下への」

「すみません」

 事前に預けておいたものだ。数日前に街で見つけたファルシオンへの贈り物だった。

「殿下、これを」

 呼び掛けるとファルシオンは顔を上げ、まだ少し寂しそうな顔ながら、何だろうと首を傾げた。

「これは?」

 差し出された木箱をじっと見つめ、手を伸ばして受け取る。

「お誕生日のお祝いに。気に入っていただけるかは判りませんが」

「――レオアリスから?」

「そうです」

 それまで沈んでいた表情が再びぱあっと明るくなり、喜びの色が広がった。ハンプトンがこっそり胸を撫で下ろす。

「開けていい?」

 頷くのを確認し、ファルシオンは木箱の蓋を開いた。

 箱の内側には光沢のある赤い天鵞絨(びろうど)の布が張られ、薄い布で包まれた丸いものがしまわれている。布を開き、ファルシオンは目を見張った。

 布の上には細い鎖の付いた小さな銀の円盤が置かれいる。円盤には銀細工で透かし彫りが施され、下には青や黄色に染めた陶器の板が嵌め込まれて覗いていた。ハンプトンが察して感嘆の声を上げる。

「まあ、懐中時計ですわ」

「かいちゅうどけい? 時計なの? でもすごく小さい」

「左様です。持ち歩けるものですよ。大将殿、開けて見せていただけますか」

 レオアリスは手を伸ばし、ファルシオンの手のひらに置かれた懐中時計の円盤の留め金を示した。

「ここを押して開けるんです」

 ファルシオンが留め金を押すと、カチリと小さな音がして貝のように蓋が開いた。中には白い陶器の盤面に数字が刻まれ、細いが丁寧に透かし彫りを施された金色の針が回っている。

 ファルシオンは盤面の針と壁際に置かれた時計の針とを、何回か見比べた。

「本当に同じだ、すごい……こんなに小さいのに」

 微かな歯車の音と共に、時を刻む針がカチリと動く。

「ローデンという南にある国で作られたものだそうです」

「ローデンって知ってる。この間読んだ本にのっていた国だ」

 遠い異国の景色をそこに見ようとするように、ファルシオンは瞳を窓の外に向けた。

 再び手の中の懐中時計に視線を落とす。銀色の円盤は、まだファルシオンの片手には少し余った。

「この時計はずっととおい所から来たんだな。でも同じ――」

「遠い、違う国でも流れている時間は変わらない。どこにいても――誰でも、同じ時を刻んでいると思うと、何となく懐かしいような不思議な感じがしますね。そこへ行った事も、見た事も無いのに」

 レオアリスが言うように、ファルシオンにも金属でできた懐中時計が、どこか懐かしく温もりを持っているような気がした。カチリと動く針は時の鼓動だ。誰もが胸の中で刻んでいるもの。

「どこにいても……」

 ファルシオンはじっと盤面を見つめていたが、顔を上げ、そっと、レオアリスにしか聞こえない声で尋ねた。

「兄上も?」

 レオアリスが口元に笑みを刷く。ファルシオンはその笑みに答えを見つけ、両手で懐中時計を包み込んだ。

 そこにある、とても不思議な気持ちを壊さないように。

「じゃあ、私もレオアリスも、父上も母上も姉上も、ハンプトン達も――、みんな同じところにいるんだな」

 口には出せなくても――兄、イリヤも。

 この小さな時計が、全員を繋いでいるような、そんなふうに思えて、この時からそれはファルシオンの大事な宝物になった。






 王都で王子の宴が始まり華やかに繰り広げられている頃、南西のレガージュでは交易組合の会館が慌ただしい空気に包まれていた。

 今日の夜に帰港するはずの商船が一隻あったのだが、夕方の嵐に立ち往生したのではないかと、そう心配していたのが陽も沈んだ六刻頃か。

 当の船から急報が入ったのが、七刻。

 マリ王国の船が嵐で沈んだようだという知らせだった。

 交易会館から何人か報せが走ると四半刻もしない内に組合の幹部達が集まり始め、船団の団長ファルカンも七刻半前には会館に到着した。

 会館の会議室には幹部達が四人、膝を詰めて話していたが、入って来たファルカンを見て全員顔を向けた。

 交易組合の長カリカオテを初めとする幹部達も、普段やかつては交易船で大海原を行く船乗りだ。それぞれがっちりした体格をしているが、ファルカンはやはり一際筋肉の盛り上がった大柄の容姿をしていた。ただ短い金髪と緑の目の、なかなかの男前といえる。

 歳の頃は四十代半ば、この街の出身で、十六の頃からレガージュ船団に入り、船団長としては七年の間、船団を率いて来た。フィオリ・アル・レガージュの実力者の一人だ。

 レガージュでは交易組合の長が最も力を持ち、その次にこのファルカンがいる。他の街では最も地位のある領事は、ここでは三番手に過ぎない。

 組合長であるカリカオテが真っ先に口を開いた。カリカオテは既に現役を退いたが、かつては南海を航海していた大商人でもあった。

「聞いたか」

「聞いた。沈んだのはマリの船だって話だが、何で判った」

「海面に壊れた船体が散っていたようだ。その中に船名も読み取れた。ゼ・アマーリア号だ」

 ファルカンは唸るように頷いた。

「今日ここを出たばかりで嵐に遇うなんて運が無いな。早めに船名が判っただけマシか――」

 そうは言ったが、マシな事など一つも無い。荒れた海のただ中に投げ出されては、乗組員達も無事では済むまい。

「生存者と、マリへの(しら)せは」

「今捜索中だよ。マリにはまだだが、明日には伝令使が飛ばせるだろう。まあ少しでも生存者を見つけられれば、その報せを添えるに越した事はないからなぁ」

「そうか。領事館は?」

 領事も海で事故があれば会館に駆け付ける事になっていたが、今は姿が無かった。カリカオテは厄介そうに眉を寄せた。

「領事は王都だ。今日は王太子殿下の祝賀だからな。それに王太子殿下の晴れの日に船が沈んだなんて、そんな不吉な話を出すものじゃない。報せたら中央に報告しなきゃならんし、そうすればすぐに陛下まで伝わるだろう」

 他の幹部達も頷く。

「こんな日にわざわざ報せて、配慮が無いと王のご不興(ふきょう)を買うのも遠慮したい。明日以降、全体がはっきりしてからでいいだろう」

「嵐が原因だしなぁ、粛々と報告するしかどうしようもないが……」

 その事については、既にファルカンが来る前に結論が出ていたようだ。ファルカンも特に異論なく頷いた。

 他国の船が沈んだ為中央には報告する必要があるが、基本的にレガージュの内部で対処すべき案件でもある。

 そこには少なからず、自分達は交易都市レガージュなのだという自負もあった。

 白い髭の幹部が顎をさする。

「しかし災難だったな。嵐程度で沈むような船じゃなかったが」

 ゼ・アマーリア号はマリ王国からほぼ半月もの航海を、何度も経験している船だった。乗組員達も経験豊富な男達ばかりで、嵐にも慣れているはずだった。

「まあ、仕方ない。何があるか判らないのが海だ」

 ファルカンがそう言った時、ちょうど扉が開き、厳しい顔付きのザインが入って来た。ファルカンは片手を上げ気軽な挨拶を向けた。

「ザイン。あんたまで来てもらって悪いが、どうやら問題なさそうだ」

 気さくな口調だが、根底には尊敬の念が伺える。ファルカンがまだよちよち歩きの時から、ザインはレガージュの守護者として変わらずこの街にいるのだ。

 交易組合、船団、領事館――この三つの組織の力関係とも、ザインはまた別格に位置している。

「沈んだのは、どの船だ」

 低く抑えられた声を不審に思って、ファルカンはザインに向けた瞳を細めた。

「何だ。マリの船だが――今はまだ捜索中だよ」

 ザインは鋭い視線を室内に巡らせた。カリカオテ達幹部は海図を中心に捜索について意見を交わし合っているが、さほど緊迫した様子は見当たらない。

「朝になったら後二隻、船団の脚の早いヤツを出す予定だが」

「ファルカン、ちょっといいか」

 ザインがファルカンを手招き、室内から廊下に連れ出す。廊下の突き当たりの壁際で、ザインは素早く囁いた。

「ユージュが沈む夢を見た」

 船が、という主語は無かったものの、ファルカンは鋭く視線を返した。ザインが続ける。

「ゼ・アマーリア号だと、そう言った。沈んだのはどの船だ」

「――」

 ほんの数瞬、ファルカンは考え込むように黙り、唇を舐めた。

「ゼ・アマーリアだ」

「――」

 今度黙り込んだのはザインの方だった。

「ザイン、ユージュはそういう夢を良く見るのか? 予知夢みたいな」

「いいや。今まで見た事もない。少なくとも俺は聞いた事は無い」

「ふぅむ」

 ファルカンが筋肉の張った太い腕を組み、口をへの字に曲げる。どう捉えるべきかと思案する顔だ。

「ファルカン、ユージュは……」

 口にしかけて、ザインは一度口を閉ざした。

 まだマリの船が沈んだ事が偶然合致しただけで、それ以上ではない。

 疑念は強く、だがまだ口に出すには余りに確証が薄かった。

「どうかしたか?」

「いや――明日、俺も船団に同行させてもらおうと思うが、いいか」

「当然だ」

 頷いたファルカンの肩を叩き、ザインはまた室内へ戻った。





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