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第1章「フィオリ・アル・レガージュ」(1)

 王都の東にある高地から発し、大陸を横切って西海と南海とに注ぐ大河シメノス、その河口部の南側に、フィオリ・アル・レガージュという港街がある。

 国内外各地との交易で栄える、西方最大の商業都市だ。

 王都方面との交易は街道よりも、主にシメノス大河を行き来する船で成り立っていた。

 そしてこの街最大の利点は、前述の通り、大河の河口が南海にも面しているという事だった。

 西海には海皇の治める「異界」バルバドスが存在し、三百年前のバルバドスとの大戦以降、両国の間に結ばれた不可侵条約によって、現在も交易はほとんど行われていない。立ち入る事も躊躇われる場所だ。

 しかし、国境の線引き一つでがらりと変わる。

 南海の海域にはバルバドスを治める海皇のような存在は無く、南海を航海するのに妨げは無い。

 逆にこの国の南海沿岸はアルケサスの熱砂が数十里に渡って横たわり、南海沿岸から王都へ荷を運ぶには著しく困難だった。

 フィオリ・アル・レガージュはほぼ唯一、南海を経由して他の諸国との交易が可能な機能を有した街と言え、ある意味一人勝ちとさえ言えただろう。

 南海からもたらされる豊富な海の幸、他国との交易のその利潤によって、豊かな、個性的な文化の花開いた街だった。

 しかしこの街も、かつてはその交易の利潤が一因ともなり、交易を妨げようと図った西海の侵攻により、甚大な被害を受けた。その地形もまた、西海の侵攻を食い止める要塞にならざるを得ないものでもあった。

 三百年前の大戦の事だ。

 終戦後荒れ果てた街を復興し、交易を再開し、それも以前より更に軌道に乗せて、レガージュは西方のみならず、今や王都に続く第二の商都に成長した。

 そして長く、一人の剣士によって守護された街でもあった。




 年が明けて二ヶ月が過ぎ、南西に位置するフィオリ・アル・レガージュでは、早くも暖かい天気が続くようになっていた。時折汗ばむほどの陽気も顔を出す。街を行き交う人々は既に薄手の服に衣替えし、それらには異国の衣裳も数多く混じっていた。

 街は港となるシメノス河の河口に向けて、丘のなだらかな斜面に建てられている。河口の左右は絶壁と言うべき断崖が延々と続き、河口以外、船が接岸し荷の積み降ろしができる場所はない。

 この河口の陸を背にして右側が西海、そして左手が南海だった。フィオリ・アル・レガージュの街は河口左側、南海側に位置していた。

 斜面を埋める街並の、白い漆喰の壁と青く塗られた屋根が強い陽射しに鮮やかだ。河口には五基の桟橋が伸び、帆を下ろした帆船が大小十五隻、波間でゆっくりと船体を揺らしている。

 視線を上方に転じれば、対岸の西海側の丘には、白い灯台が一基、すうっと空へ背を伸ばして海を見つめている。

 風が海から、斜面の家々を撫でるように灯台のある丘へと吹き抜けた。途中丘の中腹にあるフィオリ・アル・レガージュの街門を鳴らす。

 西の基幹街道へと繋がる街門の開かれた白い街門の上部、弓なりになった梁の部分には、街の名が装飾的な彫刻で掲げられており、中心に飾られた楕円の石版に女性の横顔が彫られていた。三百年前からずっと、街の象徴として街を見守り続けてきた人物の肖像だ。

 街の住人達はこの下を通り過ぎるとき、ごく自然に挨拶をするように、彼女の横顔を見上げた。

 その街門の前から、街道とは別の細い道が左右に延びている。

 右を辿ると道は下りながら、街壁を迂回するように河口に出た。砂浜ではなく岩場だが舗装された遊歩道があり、そこからは街に入らずに港に行ける。

 左手の、緑の草地を抜ける道を辿ると、次第に街の屋根を追い越しながらゆるやかに坂を登って、時折古い崩れた防壁跡を回り込み、やがて丘の上に立つ一軒の家に行き着く。

 家は灯台と向かい合い、レガージュの街を挟むように建っていた。

 漆喰の白壁から所々に赤い煉瓦が覗く、二階建てのこぢんまりとした家だ。先端の尖った切妻屋根と、西南向きの壁に海を望む窓。玄関の前には一つ、揺り椅子が据えられ、腰掛けると街を一望できた。

 もっとも椅子の上には深い皿に無造作に切り花が生けてあり、家の主はここからのんびりと街を見下ろす状況にはいないようだ。

 花は昨日今日に活けられたばかりのようで、おそらく丘の斜面に咲いていた花を摘んできたのだろう、種類にまとまりは無いものの色とりどりの鮮やかな花弁を、屋根に遮られて少し陰った椅子の上で咲かせていた。

 不意にばたん、と音を立て家の扉が開く。花は扉が呼んだ風に身を揺らした。

「父さん」

 十歳くらいの子供が扉から辺りを覗き、玄関前の短い階段を下らずに、手摺りを乗り越え芝生の上に軽快な仕草で飛び降りた。

 肩口辺りまでの短い黒髪に黒い瞳、少し白すぎる肌だが、健康さを損なっては見えない。子供は迷い無く家の角を海側に曲がった。

 探していた父の姿はすぐ見つかる。この時間、たいてい同じ場所にいるから。

 家の南側は海に突き出した崖になっている。父はその崖の先端の、ゴツゴツとした岩肌の上に立っていた。

 二十代後半の、すらりとした体躯の黒髪の男だ。半袖の軽装に、日焼けした引き締まった筋肉が伺える。

「父さん!」

 男は振り返って子供を認めると、鋭い瞳に暖かな笑みを浮かべた。

「ユージュ、おいで」

 子供を招き寄せ、肩に手を置いた。その手を上げてユージュの頭を幾度か撫でる。髪は父の色と同じだが、柔らかいくせのある髪質はどちらかと言えば母親譲りだ。

 面差しや、少し吊り気味のまなじりの黒い瞳も、母、フィオリのそれを受け継いでいる。

「お昼だよ。――あ、交易船だね。あれはどこの国?」

 ユージュが指差した先、青い水平線にぽつりと、帆に風を受けて走る帆船が見える。この街の港を目指している。

「あの紋章はマリだよ。香辛料とか紅茶が積み荷だな。あと一刻くらいで入港する、もう少ししたら立ち会いに行ってくるよ」

「うん」

 ユージュは父の手を引いた。

「ねぇ、早くお昼食べようよぉ、お腹すいたよ」

「判ってるって」

 そう言いながらザインはまた海へ視線を向けた。

 どうしても、引き寄せられる。それは当然だ。できる事ならいつまでも、海を眺め海と向き合い、語りかけていたかった。

 ただ、それだけをする事を、彼女は望んではいない。

「父さん」

 放っておいたらいつまでも海を眺めている父を引き戻すのは、いつもユージュの役だ。

「父さんってば」

「もう少し――。見てごらん、いい景色だ。街の屋根の鮮やかな色合いと、どこまでも続く海と――、ここは最高の街だよな」

「いっつも同じこといってる気がするなぁ、父さんは。ボクは何か、ずっと起きてるみたい」

「寝る前と後で、全く違うことを言ってたら不安じゃないか? だから父さんはしっかり考えた上でな、同じことを言ってるんだ」

「単に進歩がないんじゃない」

 ばっさり切り捨てる口調にも、ザインは気にした様子はない。

「まあ俺も三百歳を越えてるからな。この歳だと昨日見た事でも美しく感じるものなんだ」

「逆じゃないの?」

「そういうものだよ。この先どれだけ生きるのか判らないんだから、そう思うと何でも新鮮に見えるだろ」

「そんな事言わないんだよっ、子供(ボク)がいるのに。わざわざ子供を不安にさせる親なんていないよ、もう!」

 叱られて、ザインはしゅんとうなだれた。

「だって……。ジンが死んじゃったんだぞ。あのジンが」

 ザインは見た目に似合わず、じわりと涙を浮かべた。

「彼でさえ死んじゃうのに、父さんなんて……っ。ジン~! 何で君っ」

「あー、もう、泣かないでよっ」

 三ヶ月くらい前か、去年の冬の初め、王都からこの街にも、その噂が届いた。

 ザインと同じ、剣士について。

 ザインはそれを知って悲しみ――、また喜んだ。

「でもほら、あのひとがいるじゃない」

 ユージュが上手く掬い上げる。ザインはさっと顔を明るくした。彼が喜んだ方の話だ。

「ああそうだ、会ってみたいなぁ、王都の剣士に。きっとジンの力を受け継いで、彼みたいに強いんだろう」

「父さんより強い剣士なんていないよ」

「いや、いるぞ、たくさん」

「たくさん?! やだあ」

 子供らしい表現で顔をくしゃりとしかめる。誰よりも自分の父が一番だと、心の底から誇りにしているのだ。

「まあ俺もそれなりだろうけど、彼はあのジンの息子だし、そりゃあ強いだろう」

「父さんは友達だったんだよね、ジンと」

 ユージュが誇らしげに顔を見上げ、握った手に力を込める。ついこの間初めてそれを聞いて、やはり嬉しかった。何と言ってもジンは伝説にまでなっている剣士だ。

「そうだよ。ジンがいたあの大戦の時、俺はまだ覚醒したばかりで駆け出しの剣士だった。彼の剣を目の前で見てたけど、青白い光を(まと)った素晴らしい剣だったよ。父さんの憧れだったんだ」

「何度も会った事あるんでしょ?」

「毎日のようにね。この間言わなかったかな、父さんはジンの叔父さんの」

「親戚?! すごいすごい!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねたユージュに申し訳なさそうな顔でザインは続けた。

「……息子の奥さんのいとこなんだ」

「……?」

 ユージュは飛び跳ねるのを止めて首を傾げた。

「――それって、血のつながりないよね」

「うん、要は知り合いだな」

「なぁんだ、つまんないよぅ」

 すとん、と草の上に座る。それでもユージュが手を離さないから、ザインも一緒に座った。

「ははは。でも狭い世界で小さな部族だからね、歳も近かったし、彼は近い存在だったよ」

 そして目指すには、遠い存在だった。

「でもじゃあ親戚? 友達?」

「そうだな――、友達だ」

 そう思っていたのは多分、彼の方ばかりでもないだろう。

 ジンが北へ居を移す時、共に来るかと誘われもした。

 ただ、自分には、もう守るべきものがあったから。

 主の遺志を。

 この紺碧の海の街を。

 風が緩やかに頬を撫でて過ぎる。

 潮と乾いた風と――ずっと変わらない匂いだ。彼女が傍らにいて、言葉を交わしていたあの時から。

 ユージュは隣の父の顔を見つめた。

 いつ起きた時も、父は遠い瞳をしている。

「……早くお昼行こ。じゃないとボクまた寝ちゃうよ」

 それを聞いてザインはとても寂しそうな顔をしたから、ユージュはようやく安心した。もう一度、しっかりと手を握り直す。

「王都に行って、ジンの子供に会ってみたいね」

 この先の話をするのは楽しい。ユージュが起きている時の話。

 どこへ行こう、とか、何をしよう、とか。

 二人は立ち上がり、家の玄関へ歩き出した。

「ああ――ジンの事はまだ信じられないけど、彼がジンの息子と聞いて嬉しいよ。ここを離れる訳には行かないが、いつか会いたいものだ」

「そっか、父さんは街の守護者だもんね。――でも、そしたら呼んだら来てくれるんじゃない? こっちに遊びに来てくださいって」

 ユージュの純粋な期待が微笑ましい。

「王都は遠いからなぁ。それに近衛師団の大将じゃあ、あまり個人的な用件で王都を空けられないだろう。特に今の時期は――。もしかしたら、この春が過ぎたら時間を取ってもらえるかもしれないけど」

 それよりも先に、もしかしたら、彼はこの街の近くまで来るかもしれないが。

「それでもいいよ、会いたいな。剣を見せて欲しいな。でも絶対父さんの方が強いけど」

「ははは、そうだといいな」

 玄関を潜るとそこが居間兼食堂だ。と洒落た言い方をしてみても、要は一つしか部屋がないのだが。

 食卓には食器が既に並べてある。色鮮やかな色彩が施されている食器達は、海を越えてやってきた陶器や硝子で、この街では王都より遥かに安く簡単に、これらの輸入品が手に入る。

 壁を飾る布や床の絨毯も、異国から交易船が運んで来た品だ。どちらかと言えば、家の造りも王都とは違う、異国風だった。

 他国のものをより身の回りに置くのは、この街が積極的に他国の品を受け容れるという意思表示でもある。

 ユージュは小走りに台所へ入ると、鍋を抱えてそろそろと戻って来た。

 ザインが重い鍋を受け取り、食卓に置いて皿に()ぐ。野菜や魚を煮込んだ美味しそうな料理からは、温かな湯気がまだ上がっている。ザインが作り、ユージュが先ほど温め直したものだ。

 いただきます、と口を揃え、食卓が始まった。



 ユージュは満腹になってお皿を下げた後、窓辺の木の椅子に腰掛けた。ザインが出掛ける仕度をしている様子を首を巡らせて追いかけながら見守る。

「そうだ。ねえ父さん、ボク王の剣士に手紙を書くよ。父さんに会いに来てくださいって。ジンの友達だって言ったら、きっとすぐ来てくれるよ」

「それはいいな。手紙なら時間のある時に読めるし、喜んでくれるんじゃないか? 来てくれたら父さんも嬉しいしな」

「うん! 父さんが港に行ってる間に、書いておくね」

 ユージュは早速、壁際にある棚から便箋と筆と墨壺を取ってきて、食卓に置いた。ザインが微笑ましそうに眼を細める。

「ボクが起きてる間に来てほしいなぁ。だめかなぁ」

「もし寝ている時に来たら起こしてあげるよ」

「きっとだよ」

 そういってから、小さく欠伸をした。少し眠そうな顔をしているのに気付き、ザインはユージュの頬に手を当てた。

「眠かったら、寝てもいいぞ」

「――やだ」

 ふるふると眠気を追い払うように頭を振り、ユージュはきっと顔を上げた。

「まだ、昨日起きたばっかりだもん。寝たくないよ」

 ユージュはいつだって父を一人残して眠りたくはないし、父は気にしなくていいと言うが、いつだって本当は寂しそうだ。

「帰ってくるまで待ってる。今日の晩ご飯も、父さんと食べるんだ」

「そうだな――、父さんもその方がいい」

 ザインはユージュの傍に寄り、両手を広げてしっかり抱き締めた。それから、頭にぽんぽんと手を置いた。





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