9歳―王都の自宅にて
気付いたら一年経ってました…
琥珀色の美しい液体が白磁のティー・カップに注がれるのをジークは眺めている。白魚の様な指先がソーサーとカップの取っ手を捉え、ゆっくりと口元へ運んでいく。目を閉じてその馥郁たる香りを楽しみ、そしてカップの縁をバラ色の唇へと近づける。
「うん、美味しい。これなら合格だ。よく励んだね、ヴォルフ」
やわらかな微笑みを浮かべ、ジークが称賛の言葉を口にすると、ヴォルフと呼ばれた少年が照れくさそうに顔を背ける。しかしジークは彼が内心ガッツポーズをとっていることを知っていた。
先だってジークが引き取って教育を施している少年は、元々の能力が高かったのか、スポンジが水を吸うような勢いでもたらされる知識や技術を習得していった。彼の為にノイエンドルフ公爵家・執事育成プログラムのさらに強化版と言える特別メニューを組んでいたこともあり、最早それは見習いの域から過剰にはみ出している。その成長ぶりにはさすがのジークも目を瞠るものがあった。
(うーん……正直いい拾いものをしたかもしれない……)
わかっていたことであるが、自宅に連れ帰り、隅々まで磨き上げたヴォルフことヴォルフガングはなかなかの美少年であった。美しく整った顔面を、前世も併せてかれこれ30年以上見続けているジークが手放しでそう評すほどの顔面なのだから、客観的に見てヴォルフガングの顔面偏差値は相当高いと言えよう。
加えて、名を与え職を与え文化的な生活を保障したことですっかり気を許したのか、ヴォルフガングのジークへの傾倒ぶりはすさまじいものであった。かつての薄幸系無表情イケメンは今や忠犬系ツンデレ美少年へと謎のジョブチェンジを果たしている。もう、彼に殺されるなんて悲劇は起きそうにもなかった。
「ジークハルト様」
「……ああ、すまない。少し考え事をしていた。それよりヴォルフ、仕事には慣れたかい」
「ええ、こき使ってくれる貴方のお陰で昔の仕事なんて忘れそうですよ。ありがたいことにね」
「そうか、それはよかった」
今のヴォルフを見て、彼が元暗殺者だと気付く輩がどれ程居るだろうか。ジークが施した教育は、たった数ヵ月でヴォルフを貴族の子弟へと変貌させていた。あくまでも見た目や立ち居振舞いという点であるが、少なくともかつて人を殺めることを生業としていたようには見えない。
出来れば今後、彼の手が血濡れることがなければいい。そう願っているはずなのに、彼を使うことも頭に入れている自身には呆れてしまう。それはそうだろう、死について恐怖を感じない人間なんていない。
もちろん、彼を道具のように扱う気はないし捨て駒にするつもりだってない。けれど、ジークとて命が惜しいゆえに、ヴォルフガングを使うことだってあるだろう。今は唯、その機会が少ないことを願うばかりである。
少しだけ気まずい思いを抱えてヴォルフから逃げるように窓の外へと視線を向ける。それまで意識していなかったが、景色の移ろいを感じるくらいには庭の木々が変容している。どうしてこれに気付かなかったのか、と最近の自身の多忙さにジークは溜息を吐き出した。
「もう、すっかり秋になってしまったね」
「そうですね。ここの庭は綺麗だからより一層それを感じます」
ジークが王都へ連れられてきてもう半年が経とうとしている。王都のノイエンドルフ公爵邸は四季折々の植栽が為されており、見るものに四季の移ろいを感じさせる。今の季節ならば、カエデやイチョウなどがその葉を美しく染め上げていた。それらを見やりながら、ジークは後々のことについて思考を巡らせる。
冬になる前に一度公爵領へと戻り、アドルガッサー男爵領とジルベール子爵領への食糧の手配をせねばならないし、対価である魔石の検品などもある。加えて、ジークが王都学術院へと通っている間の領政の引継ぎなど、やるべきことは山ほどあった。
(自分が好きでやっていることとはいえ、手広く抱えすぎてしまったかもしれない)
齢9つにして“若気の至り”なんて言葉を使わざるを得ない過去の自信の所業に苦笑を禁じ得ない。悲しいかな、チートの無駄遣いを量産してしまっている。それだって、自分が生き延びる可能性を少しでも増やすためであったが、いささか行き過ぎの様な気もしていた。
最早ノイエンドルフ公爵家は、クラウゼリア王国に置いて王家に次ぐ権力を持ち得てしまった。ある意味では王家を凌ぐかもしれない強大な権力を前に、ある者はジークが男であることを喜び、またある者は嘆いていると聞く。前世の記憶を持つジークにとっては鼻で笑ってしまうそれも、本人以外からすれば一大事のようだった。
王宮内のパワーバランスはヴィルヘルムが第一線を退いているためかそれほどまでに崩れていないものの、学術院の方では兄に阿ろうと画策する輩が多いとの噂だ。兄の同輩には王太子の他、オウォモエラ・レーヴェンガルト両公爵の子息、王太子の婚約者たるエルレバッハ公爵の令嬢、さらには幼馴染であるヴァイアーシュトラス伯爵の子息や王妃の甥にあたるディースティル侯爵の子息も居ると言うが、王太子殿下と言うよりは兄を中心として交流を深めているそうだ。これにはさすがのジークも頭を抱えてしまう。
(けどレオンはジークの事かなり溺愛してるしなあ…。わたしがやらかしたことだって笑って受け入れるどころか自慢話にしていると聞くし…。あまりにもわたしの話ばかりしすぎて王太子殿下がやきもちを焼いたってルドルフが言っていたな…)
そういえばたまにジギスムントからの何とも言えない視線を感じることがあったな、と今更ながらに思い出す。あれはきっとレオンの弟自慢をどうにかしろという文句だけなく、ジークに対しての悋気だったのかもしれない。
(それならば不味いことをしたなあ…)
レオンは曲がりなりにもジギスムントの側近である。そんな彼が最優先すべき主よりも、弟を優先している現在の状況はジギスムントとしてはかなり面白くなかったに違いない。けれども兄がそれほどまでに己のことを溺愛しているという事実はジークにとっては僥倖であった。
(うん、とりあえず王太子殿下にはさりげなくフォローを入れておこう)
ついでに自領で産出した魔石を加工した装飾品でも送ろうか。あからさまなご機嫌取りではあったが、それが意味することをあの聡い王太子ならば理解してくれることだろう。そうと決まれば早速領地へと使いを走らせねば。そこまで考えてふ、とジークの脳内に天啓が閃く。
(そうだ、ヴォルフに公爵領へ行ってもらえばいいんじゃないか?ヴォルフならわたしの意図を理解してくれるし、何よりわたしが公爵領を治める時に彼がいてくれた方がきっと楽になるはず。ああでもヴォルフが近くにいた方がゲームシナリオ的にはいいのか?ならば15になった頃呼び寄せれば問題ないか)
ジークの考えはまとまったが、果たしてヴォルフはそれを受け入れてくれるだろうか。出来れば無理強いはしたくないところだ。どうあってもヴォルフを公爵領へと送る気でいるくせに相手を気遣うなんて矛盾しているとは思う。それでも彼が己の頼みを受け入れてくれることを望んでいる。まったくままならぬ心だ。
「なぁヴォルフ」
「はい、何でしょう」
「無理強いするつもりはないのだけれど、わたしと一緒に一度公爵領へ行かないか。そしてそのまま領地に残ってわたしの代わりに領地を動かしてほしい」
ジークの言葉に、ヴォルフが短く息を飲む。それがどういう感情からくるものか、ジークにはわからない。わからないけれど、少しだけ、胸騒ぎがする。
「もちろん領政に関してはわたしが指示を出しそれを実行して欲しいだけだから安心してくれ。それとわたしが15になった時には君を学術院へと呼び寄せるつもりでいる。だからおそらく君がノイエンドルフ領に居るのは5年くらいになると思うんだけど、お願いできないか」
これで断られたならばあとは事後承諾で公爵領へ連れて行ってしまおうか。そんな物騒なことを考えるジークであったが、ギョッと目を見開くことになる。
ヴォルフが泣いている。しかも恐らくではあるがヴォルフ本人は泣いている自覚がないに違いない。その、猫の様な大きな金の瞳からぼとぼとと涙を落として、何かを言いたげに、しかし言葉にできずに唇を震わせる様は、ジークに罪悪感を抱かせるには十分すぎた。
「泣くほど嫌ならもう言わない。すまない、そんなに嫌がられるとは思わなかったんだ」
「ちが、違う!」
「でも現に君は泣いている」
「だって、アンタがオレを、オレに大事なモンを託そうとするからッ…、オレは、アンタに大事なモン託してもらえるほど信頼されてて、しかも隣に居ることを許されてんだって思ったら、も、何も、言えねえの…ッ」
「え、嫌ではないのか?」
「嫌な訳ねえだろ!アンタに拾われてオレは獣から人になった。アンタの為ならオレは何だってする。だってアンタはオレを人にしてくれた。オレがアンタの役に立つんだったら前と同じことだって、執事の仕事だって領地の仕事だってやってみせる。だから、もしオレがいらなくなったとしても捨てないで…」
ジークの足元に跪き、その手を捧げ持ち自身の額を押し当てるヴォルフの姿は敬虔な修道者のようにも見えた。それならばさしずめジークは彼の神と言ったところか。まったく、喩えが適切すぎて笑うに笑えない。
しかしヴォルフのジークに対する好感度の高さを甘く見ていた。これはカンストというレベルではないかもしれない。下手すればジークが頼まずとも自主的にヴォルフはジークの為に動き出しかねない。これはよくよく手綱を握っていなければならぬとジークは覚悟を決める。
「わたしが君を捨てる時は、きっとわたしがわたしでなくなった時だろう。だからそうなる前に君がわたしを止めるんだよ、いいね?」
わたしも、君がおかしくなりそうな時は止めるから、とは言えなかった。ヴォルフがヒロインと出会って恋に落ちたとして、果たして己はどんな行動をとるのだろう。一応想像してみるけれども、靄がかかったように思考を邪魔され、鮮明なイメージは浮かんでこない。
泣きじゃくるヴォルフをあやしてやりながらジークは窓の外を見やる。もう学術院への入学まで時間がない。
次の春には舞台へと上がることになる。己は8年という長いようで短い時間の間に何を為すのだろうか。取り留めのないことを考えるジークの視線の先で、赤く色づいた庭木が風に揺られている。
(ヒロイン、なんてものが居なければいいのに)
そんなことを考えている間にも時間はどんどん進んでいく。クラウゼリア王国に、ジークの下に、冬がもうすぐそこまで近づいていた。
次はようやく入学編か、もしくはあと一話入学前の話を入れたいです。
お付き合いいただきありがとうございました。