5歳―春の庭にて
――ノイエンドルフの傑物。
畏怖と嫉妬をこめてそう呼ばれるのは、まだ幼子と言ってもいいくらいの少年だ。しかしそのビスクドールのような作り物めいた美貌に浮かぶ冷徹な表情を見れば、彼をよく知らぬものでも背筋に冷たいものが走るという。
年齢に不相応な落ち着いた眼差しから窺えるのは、聡明さか、或は侮蔑か。クラウゼリア王国においてとうの昔に廃れきっていた魔術を書物から得た知識のみで復活・改良し、王室騎士団長を剣で負かしたという傑物の名は王にも届いていたらしい。
先日、王は第三王子を伴ってノイエンドルフ公爵領を訪れたのだという。ノイエンドルフ公爵は代々王の片腕として、その辣腕を振ってきた家系である。現当主もまた王の右腕となりクラウゼリア王国に富と繁栄をもたらしており、次代を担う王太子と次期ノイエンドルフ公爵も父と同様に友誼を深めている。そして、第三王子とノイエンドルフの傑物と呼ばれる公爵家次子は奇しくも同い年だ。王が何を考えているのかは想像だに難くない。
そして、人々の想像通りノイエンドルフの傑物は、第三王子の対等な友として認められることになる。
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「ルドルフ、お茶を入れてみたんだが、君もどうだ?」
「ありがとう、ジーク。ご相伴にあずかろう」
王宮のとある中庭。春の庭と呼ばれる美しいその庭園の中にひっそりと佇む四阿がある。そこで給仕係も護衛もつけずに紅茶を飲もうとしている2人の少年が居た。ノイエンドルフの傑物ことジークハルトと、クラウゼリア王国第三王子ルドルフである。
普段はノイエンドルフ公爵家で会うことの多い2人だが、今日はジークがルドルフのもとを訪れていた。理由は簡単だ。ジークの父親であるヴィルヘルムが国王より召集を受け、ついでにジークもつれてこられたのである。もちろんそれを頼んだのはルドルフに他ならない。
ジークは流れるような手つきでカップに紅茶を注ぎ、ルドルフの前に差し出す。ルドルフがカップに口をつけようとした瞬間、ジークが口を開く。
「毒見をした方が良いかい?」
片目を瞑り、茶目っ気たっぷりにとんでもないことを言い放ったジークに、ルドルフは激昂するわけでもなくただくすりとやわらかな笑みをこぼす。
「ジークがどくにたよる訳がない。きみならばどくを使わずともぼくなどしゅんさつ出来るだろう。どくを使うメリットがいっさいかんじられない」
「なる程正論」
ルドルフの言葉をジークはあっさりと肯定する。それはつまりルドルフの言葉通りの戦闘力をジークが保有していることをも肯定しているのだが、それを自覚した上で頷いているのだ。自身の力を過大評価も過小評価もせず、ただ淡々と受け入れているに過ぎない。
(5歳児にして王宮騎士団長を剣で負かしているんだ、今更謙遜などできる訳がない)
ジークがその気になれば、ルドルフの首などあっさり獲れるだろう。もちろんそんなことしでかすつもりなどないのだが、自身の冗談を真っ向から正論で論破されているだけに何となく悔しい。
「それに、ぼくがいなくなれば、ジークには友とよべるものがいなくなる。ジークは意外にさびしがりやさんだからそんなことするはずないって思う」
「おうふ…っ」
ルドルフの口から飛び出した“さびしがりやさん”という単語に、ジークは崩れ落ちるようにしてテーブルに突っ伏した。いくら今は5歳児であるとはいえ、その単語を受け入れるには23歳の精神が邪魔をする。
(寂しがりやさんって!寂しがりやさんって!そんなのわたしのキャラじゃない!!!)
確かに昔はぶっ飛んだ性格をしていた自覚はある。しかしこれを受け入れられるほどの性格をしていた訳ではない。そのあたりの羞恥心は至極真っ当なつもりだ。ジークは今も昔も人前で衣服を脱ぐことにあまり抵抗はないけれど、こうした事態には人並みに弱いのである。
「どうしたの、ジーク」
「いいや、何でもないよ。ただ自分の在り方について考えていただけさ」
5歳児が言うことではないとは思うが、今更子供らしさを取り繕うだけ無駄だとジークは思っている。この物言いもそうであるし、過去の所業を鑑みるに、余計な詮索をされそうだからだ。ジークは今も昔も自身の周りを嗅ぎまわられることを嫌悪していた。自ら進んで話題を提供してしまった以上、更なる詮索は自身の精神衛生上悪影響であると判断する。それならばいっそルドルフの対等なる友人ということを笠に着て、自分らしくのびのびとしていた方が遥かにマシだ。
自ら招いたことであるが、半ばやけくそになりつつ紅茶を口にする。その瞬間、豊かな香りが口の中に広がった。今日の紅茶はノイエンドルフ公爵領にある農園でジークが作らせた最高級品の一つだ。ジークはダージリンよりアールグレイ派であったので、加工の手間はあるものの紅茶の王様と呼ばれるダージリンではなく香り豊かなアールグレイを、自身の農園の作物として選んだのである。この国で紅茶と言えばダージリンであったのだが、良くも悪くも名の知れているジークが手ずから育てているアールグレイは、その品質の良さとネームバリューで国中に浸透しつつあった。
それはさておき。ジークはこの乙女ゲームの世界について思いを馳せる。ジークがもう既にこの世界の中の人である以上、単純にこの世界をゲームの中であると仮定するのは危険だと考える。ジークは18歳のルドルフを知っているが、ジークリンデがジークハルトになっていることから今の彼がジークの知っている彼になるとは限らないのだ。ルドルフはプログラムではなく、この世界にしっかりと生きる、ただの人なのだから。
ゲームの世界で、ルドルフは女性嫌いの俺様王子であった。それはもちろんジークリンデの影響である。幼い頃からジークリンデに纏わりつかれていたルドルフは、気を許せる友人を得ることもなく孤高の存在として生きるしかなかった。その彼を変えたのが主人公であるのだが、今の時点でそれはあまり関係のないことだ。
この世界のルドルフは、ジークという友人を得、はた迷惑な婚約者もいない。まっすぐで健全な、まごうこと無き王子様なのである。これは18歳になった時が楽しみだな、とジークは思う。友人をひけらかしたい訳ではないが、自慢できるような友人が居るのと居ないのでは結構な違いだ。
上機嫌で紅茶を口にするジークに、ルドルフが訝しげな視線を向ける。
「どうした、ジーク。やけにたのしそうだ」
「いいや、君もそのうち気立ての良いどこかの令嬢と恋に落ちるのかなぁと思ってね」
「ぼくはきっと恋はしない。きめられたいいなずけとどうにかうまくやっていくだけさ」
ルドルフの投げやりな言葉に、ジークは少しだけ顔を顰めそうになる。お前がそれを言うのか、と喉までせりあがってきたものを必死で飲み込んだ。それは、幼き日に母の言葉に感じたものと同じ思い。
(いくらジークリンデがあれだったとはいえ、向こうの君は確かに恋をしていたくせに)
あれは所詮ゲームだから仕方ないとはいえ、どうしても腑に落ちない部分はある。
(わたしはわたしと友達になってみたかった)
彼女とルドルフが、自分が介入することでどのような未来を得るのか、見てみたかったとジークは思う。それは決して叶うことないけれど、常々思っていることでもあった。自分は結局のところ、ジークリンデ・エクヴィルツ・ノイエンドルフという少女を救いたかったのだろう。
「否、君はきっと恋をする。それも、身を焦がすどころか、焼き尽くすような激しい恋を。……僕はきっと人を愛することなどできないから、君だけでも幸せになって、僕に少しでも幸せを分けてくれるとありがたい」
いくらこの身体は男のものとはいえ、中身は女だ。普通の女性と恋愛ができるはずもなく、かといって男性と恋に落ちる訳にもいかない。加えてジークは今も昔もそう言った意味で人を愛したことがない。そんな自分がまともな恋愛をできるとはつゆほどにも思っていなかった。
「人をあいすることが出来ないとはどういうことだ?」
「そのままの意味さ。僕はどうもその手の感情が欠落しているらしい。僕の家族にも既に伝えてあるよ。父上は僕がまだ幼いことを理由にあまり納得されていない様子だったけれど、それでも婚約者はつけずに、もし僕が人を見初めたならばその人と契ればいいと言ってくださっている」
ただの5歳児が、人を愛することが出来ないと言ったところで一笑されるだけだが、ノイエンドルフの傑物と呼ばれるジークは違う。自分はどうも他人に興味が持てぬようで、次代を残すことが難しい。そう告げた時、両親はジークがそう言うことをわかっていた様子であった。
ジークとレオンの兄弟仲は悪くないどころか極めて良好であり、ジーク自身も次期ノイエンドルフ公爵であるレオンに忠誠を誓い、総てを捧げるとしている。しかし後継ぎとなる子が生まれたらそれも変わるのではないか。心優しい両親はともかく、他の人間はそのようなことまで言っているようだった。
ヴィルヘルムはジークがレオンとの軋轢を嫌って敢えて子を成さぬようにすると言ったと思っているに違いない。しかしそれは勘繰りすぎであり、実際は言葉通りの意味しかないのだ。
「では、ジークはだれかにうつつをぬかすことなくぼくのそばにいてくれるのだな」
「さあね。僕が君の傍に居たくても、君が僕を邪険にするかもしれないから何とも言えないな」
少しの悪意をこめて、ジークは毒づく。先程感じたやり場のない感情を、大人げなくルドルフにぶつけている自覚はあったが、止められはしなかった。
ジークの言葉にルドルフは目を丸くする。言い過ぎたか、と内心で冷や汗をかくジークであったが、それは杞憂であった。
「ぼくがジークをじゃけんにするなんてありえないね。ジークはぼくがゆいいつとなりにならび立つことをゆるしたものだ。それに、」
「それに?」
「いや、なんでもない。それよりジーク、お代わりを入れてくれ」
何か言おうと一瞬目を細めたルドルフであったが、促しても口を開こうとはしなかった。急すぎる話題転換であったが、ルドルフにも言いたくないことがあって当然だ、とジークは気に留めることもせず、さっさとお代わりを注ぎ足す。
「――――………」
「何か言ったかい?」
「いいや、なにも」
ぼそり、とルドルフが何かを呟いた気がしたが、気まぐれな風に揺すられた木のざわめきでジークの耳に届くことはなかった。