0歳―家族との初対面
2015/9/2 内容を若干修正。
ぱちり。目を開けると嫌にぼんやりとした風景が視界に飛び込んでくる。それを背景にこちらを覗き込んでいる2人の大人と1人の子供の顔らしいものが見えた。それでおや、と目を瞠る。そんな此方の動揺を気にした様子もなく、彼らはまるで永久の幸福が目の前に舞い降りたかのように身に纏った雰囲気を和らげた。
「母様、ジークが目を開けましたよ!うわあ、かわいい…、本当にこの子がぼくの弟ですか?」
「そうよ、レオン。うふふ、とってもかわいいでしょう?あなたの小さい頃にそっくりよ」
「ええ?ジークの方がずっとかわいいよ!そうでしょう、父様!」
「どちらがかわいいなんて比べるものじゃないよ、レオン。君もジークも私とリズのかわいい天使さ」
ジーク、というのがこの体の持ち主らしいことはわかった。そして、彼を囲んでいるのが、彼の兄であるレオンと彼らの両親だということも。どうやらジークはつい最近彼らのもとへ生まれ落ちたらしい。そこまで考えて、彼は気付いた。
――では、この意識の持ち主は?
その瞬間、目まぐるしいほどの情報量が彼の脳裏を駆け巡った。それは、所謂前世と呼ばれる記憶。そこには確かにジークではない誰かの存在が色濃く残っている。短く、けれども濃かったそれは、女性の甲高い叫び声と想像を絶するような痛みで終わりを告げた。
そうして彼―ジークハルト・エクヴィルツ・ノイエンドルフ―と、彼女―小早川翔―の記憶は統合されたのである。
(ああ、そうだ。わたしは確かにあの日死んだのだ)
小早川翔としての記憶を受け入れた彼は、まるで他人事のように冷静に彼女の死を受け止める。その心にあるのは死んでしまったものは仕方ない、というある種の諦念であった。どうやら小早川翔は些末なことには執着しない性質であったらしい。自身―と言っても前世ではあるが―の死を些末なことと表現するのは何とも言えないが、実際ここに生きているのはジークであって小早川翔ではないのでそれも当然のことと言えた。
ジークは自身が横たわるベビーベッドらしきものの上で、自身の誕生を寿ぐ家族を順番に見遣り、兄であるレオンと呼ばれた少年に視線を固定する。
(レオン…レオンハルト・エクヴィルツ・ノイエンドルフか!ということは、わたしはジークリンデ・エクヴィルツ・ノイエンドルフ…いや、先程レオンがジークを弟と言っていた。それでは、わたしは…ジークはいったい何者だ?)
ジークは前世の記憶から、自身が生まれ落ちたのが『世界はすべて君のために』というどこかの王族が口走りそうなタイトルの乙女ゲームであることと、兄であるレオンがそのゲームの登場人物――というか攻略対象であることを悟った。
レオンはゲームの舞台であるクラウゼリア王国を名実ともに支える貴族、ノイエンドルフ公爵家の後継ぎとしてヒロインの前に現れる。そして代々忠臣として王族を支えるその重みに苦悩する彼を、優しく暖かく支えるというのがレオンの攻略方法である。小早川翔は確かにレオンを支えてはいたけれど、文字通り叱咤激励していたため友情ルートにしかならなかった。彼女はそれで満足していたのだが。
その事実を彼が何故思い出せたかと言えば、前世で彼女が大ハマりして友情エンドをやりつくしたためである。
その乙女ゲームのライバルキャラが、ジークリンデ・エクヴィルツ・ノイエンドルフ。レオンハルトの実妹である。ジークリンデはレオンハルトのルートと、彼女の婚約者であるメインヒーロー、ルドルフ・ディースティル・クラウゼヴィッツのルートで見事な悪役令嬢ぶりを発揮してくれる。実はもう一つ隠しルートがあり、そのルートでもジークリンデは大暴れをしているのだが、それはある意味ジークリンデの物語とも言えるので割愛しておく。
レオンハルトルートでは兄に近付くヒロインを徹底的に苛め抜き、それをレオンに知られてノイエンドルフ公爵家から追放され、辺境の教会で修道女となって暮らす。ルドルフルートでは幼い頃から想いを寄せていたルドルフが婚約者となったことで有頂天になり、彼の意思を尊重せず好き勝手に行動した挙句、そんな彼女に愛想を尽かしヒロインに心傾けていくルドルフを見て嫉妬し、ヒロインを殺そうとして逆に自分が殺される――そんな女の子なのである。
だが、先程のレオンの言葉が正しければジークは男である。これで兄であるレオンはともかく、ルドルフにはフラグが立つことはない。なんせジークは男であるからルドルフの婚約者にはなれないのだ。その事実に気付いたジークは、ひっそりと口の端を持ち上げた。
「あっ!見てください父様、母様!ジークが笑っています」
「あら、本当だわ。きっとジークもお兄様に会えて嬉しかったのでしょう」
「いいや違うよ、リズ。ジークはレオンだけじゃなく私たち全員に会えたことが嬉しかったんだ」
「もうヴィルったら!…でもそうね、ヴィルの言う通りかもしれないわ。ジーク、私たちの愛しい子。この先あなたに何が降りかかろうと、私たちはあなたを信じ、愛し抜くわ」
紡がれたリズの言葉に、ジークは何とも言えぬ気持になった。ゲームの中でのジークリンデの末路が脳裏によぎったからだ。彼女もきっとこうして祝福されながら生まれてきたのだろう。しかし、自業自得とはいえ公爵家は彼女を見離した。それを仕方ないと思う気持ちと、リズに対してどの口がそれを言うのか、と罵る気持ちがせめぎ合う。
(……やめよう。今のわたしはジークリンデではないのだ。わたしはジーク。ノイエンドルフ公爵家次男のジーク。兄であるレオンを支えながら生きていくだけだ)
そう、それがジークとして生きる意味。そして今世こそ崇拝者ではなく友人を作って楽しい日々を過ごすのだ。そんなことは公爵家に生まれた時点で不可能に近いのだが、四民平等となって建前的には家柄に優劣のない世界で生きてきた前世を持つジークは気付かない。
(それよりも……わたしはこの意識を保ったまま赤子として過ごすのか………)
経験はないが、一応前世からの記憶で子育てに関する知識はある。ただし、ジークはする側ではなくされる側である。何が楽しくて23歳の意識を有しながら排せつ物の処理などをされなければならないのか。考えただけで顔から火が噴出しそうである。
「僕のかわいいジーク。早く大きくなって、僕のことをお兄様って呼んでね」
ジークは自身が生後間もない乳児であることを呪った。レオンの楽しそうな、嬉しそうな雰囲気は伝わってくるものの、その顔はピントがずれてしまった映像を見ているかのようにぼやけてしまって見えないからだ。これで彼がはっきりとした視界を持っていたならば、言葉にならぬ叫び声をあげていたことだろう。レオンの今の表情は、元々の美貌と相まってまさに天使と呼べるものであったからである。
そのもどかしさを誤魔化すように、ジークはうまく動かない表情筋を必死に動かして今の自分にできる最高の微笑みを作ると、レオンに向けてモミジのようなふくふくとした手を伸ばす。
「あうー、うー」
「もしかしてジーク、僕のことお兄様って呼んだの?」
ジークとしてはそのような意図はなかったのだが、レオンが勝手に勘違いしてくれたのでよしとしよう。兄に萌える弟なんて、ただのイバラ道を突っ走る変態でしかない。
――小早川翔改め、ジークハルト・エクヴィルツ・ノイエンドルフ。今世での家族との初顔合わせは上々の出来であった。