二度目の誕生日
眼前に、四角く切り取られた『闇』が鎮座していた。
開け放たれた扉。一寸先も見通せぬ部屋の中には、確かに何かの息遣いが感じられる。じっとしていると、暗黒が腕とも触腕とも知れぬなにかに変形して、己が身を引きずり込みそうだ。
「今まで八人の方が入られましたが、ご覧の通りです」
「…事前の報告より多くありませんか?」
「…も、申し訳ありません、非公認の方々も幾人か招き入れてしまいました…!」
家主である初老の男性は、恐縮しきった風体で小柄な体を更に縮めた。
その前に立つ、黒髪黒目の青年は無表情に前方を見つめたまま、抑揚の無い声でさらりと一言。
「その件に関する是非は、後で《ステラ》の方に回して下さい」
「本当に申し訳ありません」
「俺に謝らないで下さい。それにそちらの心境は充分に鑑みることができますから」
―――こんな不吉なモノ、一刻も早く消し去りたいに決まっている
青年が、ゴシック調のロングコートを脱ぎ捨てる。
その一挙一動に、周囲を取り巻く家人の唇から、感嘆の吐息が漏れた。
美しい青年だった。
長身の、精悍な体躯。艶やかな黒髪は頭頂で束ねてもなお腰より長く、涼やかな瞳もオニキスの如き一点の曇りも無い。
髪と瞳、それらの持って生まれた漆黒を除いても、青年は全身これ黒づくめだった。ダークカラーのワイシャツにブラックジーンズ、黒革のブーツ。裏地が深紅のマントでも羽織らせれば、そのまま吸血鬼にでもなりそうな具合だ。
「では、三十分しても出てこなかったら、もう一度レイス=バルトロメイに連絡して下さい」
「分かりました」
主人が頭を下げると、背後に欠き割りよろしく居並んでいた残りの家人と使用人達が、紐を引いたように一斉にお辞儀をした。
それを視界の隅に収め、軽く息をつく。
「…ま、五分かからないと思いますけど」
その微かな呟きを、聞き留めた者は一人も無く。
『闇』が引く。
打ち寄せた波が沖へと戻るように、あるいは風がその寝床へ引き返すように。
「…う!」
最初に感じたのは全身に広がる鈍痛だった。
薬か、度数の高い安酒でも飲まされたように、思考も視界も動きが鈍い。
酷い頭痛に顔をしかめながら、なんとか上体を起こす。
同じように伏したまま呻く者が、自分の他にも数名見えた。
「ご無事で何よりです」
頭上から降り注ぐ、台詞にそぐわぬ傲慢な響き。弾かれるようにそちらを見れば、真冬の夜空よりなお濃い闇色の双眸に射抜かれる。
「お前は…!」
「お見受けしたところ《ステラ》の高等部在学生のようですね、ということは、無断の介入と?」
淡々とした口調には、確信とあからさまな侮蔑が滲んでいた。
反発、言い訳、混乱が思考の中で荒れ狂ったが、見下ろす黒衣の青年が抱えた『モノ』を目にした瞬間、すべてが瓦解した。
「それは…!」
「頂きました」
愕然とした言葉を、なんの感慨も無くあっさり肯定された。
青年が両腕で抱えた『モノ』
自分が欲した『力』
黒衣の青年は身を翻し、決して口の端を歪めることなく、声音だけで冷笑を浴びせた。
「無駄な努力と命の危険、ご苦労様でした、先輩方?」
「…このっ、バーネットおっ!」
射殺さんばかりの眼光に背を向ける。名も知らぬ『先輩方』の罵倒は他にも聞こえたが、無視する。
彼等は捕縛の後遺症で、まだ暫く自力では立てまい。よって遠吠え以上の危害を加えることはできない。
それよりも。
「大丈夫か?」
腕の中に収まる、小さな存在を気遣った。
怯え、震え、惑いに濡れる大きな鮮血色の眼がこちらを見上げる。
多勢に無勢、血眼になりながら、よってたかって先陣達が毟り取ろうとした『力』の根幹が。
問うように、縋るように、庇護を願うように、自分を見上げる。
その畏れを払拭せんと、ぎこちなく指を伸ばし、額に散る乱れた黒髪を払ってやった。
***
「あの、ちょっとよろしいですか?」
依頼人の家から出てすぐ、イザベラ=バーネットは控え目な女の声に呼び止められた。
振り向くと、綺麗に装った少女が一人、頬を上気させて佇んでいる。
「あの、そのエンブレム、ひょっとして《ステラ》の学生さんですか!?そうですよね!?」
少女は年の頃せいぜい十三、四。その年齢に相応しい屈託の無さと思い込みの勢いで、無遠慮にこちらを指差し、畳み掛けてきた。
少女の視線を辿る。イザベラの胸元、ネクタイピン代わりに留めた輝くエンブレム。
三日月を貫く赤いレイピア。
確かにこれは、この国の最高峰たる魔術師養成学校の紋章であり、在校生が外出時に着用を義務つけられている身分証だ。
だが、イザベラは、もう《ステラ》の学生ではない。ただ便宜上、出かける時には身につけることを指示されているにすぎない。
「…あ、あれ…?違いましたか…?」
「いいや」
沈黙を勘違いと受け取った少女が不安げに眉を曇らせたので、首を振って否定する。
途端、幼さの残る顔にぱっと笑みが広がった。
「でしたら!」
子犬がじゃれつくような無邪気さで、イザベラの腕を掴んで。
「でしたら是非いらして下さい、
今日、妹の二度目の誕生日なんです!」
二度目の誕生日。
明るさに満ちたその言葉に、漆黒の柳眉が嫌悪で歪む。
普通に聞けばなんのことはない報告だが、それが型通りの『儀式』でないことを知っているイザベラは、瞬時に拒否反応を示した。
だが、自分の功績に受かれた相手は全く気付かず、むしろ無理矢理という形でイザベラを連行していった。
少女の家は依頼人の並びの通りにある邸宅だった。
優美な門扉を潜ると、広々とした欧風の庭には既に多くの人がひしめいていた。
皆着飾り、手にはグラス、くつろいで会話を交わしている。
これがどういう集まりか、知らぬ者が目にすれば、立食パーティーと勘違いするだろう。あたたかな陽射しの中、明るく、華やかな賑わいが、庭と人々の間に充分行き渡っている。
「お父さん、ステラの学生さんを見つけたの!」
先の少女が人の輪に突っ込み、壮年の紳士に自慢げに報告した。
「偶然そこの通りにいらしてね、アイリのために聖句を読んでいただきたくて」
「ほう、それは」
グレイの髪を上品に撫で付けた少女の父親は、娘に負けず劣らず嬉しそうに微笑んだ。
「これもお導きでしょう、どうか一つよろしくお願いいたします」
「はあ…」
見慣れた藍色の背表紙を持つ書物を手渡され、気の無い返事をする。適当にあしらって逃げる算段もなきにしもあらずだが、下手な振る舞いをして悪印象でも抱かれれば厄介だ。ただでさえ、火の無い所に煙を立てたがる輩に囲まれているのだから。
「学生さん、あちらに妹がいますの。妹のアイリです」
少女に招かれ、人垣の更に奥へと歩みを進める。
あちこちに点在する純白の丸テーブル。
その一つに、部外者が目にすればぎょっとする『物体』が静置されていた。
黒いリボンが飾られた、黒ぶちの写真立て。
それが何を意味するか。
写真立ての中では、くるくるとした金髪を肩に広げた、まだ片手の指に足りぬ程の幼い娘が、こちらに向かって笑みを振り撒いている。
一目で知れる、それが故人を示すモノだと。
しかし、
その写真立ての傍らの椅子に。
―――写真の中で微笑む幼女、その人が座っていた。