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第六話

 次の時、ツクヤメは目を丸くした。

 炎が二つになっている。

 瞬き見つめ直してから気付いた。正しくは松明が二つになっている。火の守り役が二人いるということだ。

 松明を持つ手を見た。そして息を飲んだ。

 向かって川上の方に立っているのがホヅカサヲだ。ホヅカサヲはツクヤメが見たこともないような冷たい目で自らの前に立つもう一人の火の守り役を見つめていた。その顔も心の動きを映さない。ツクヤメの知っている人ではないかのようだった。

 向かって川下の方に立っているのは、アラナミヒコだった。

 ツクヤメは眉根を寄せた。

 アラナミヒコもまた真新しい麻の衣に身を包み、首元に見たことのない首飾りを下げていた。背にはホヅカサヲと同じく供え物と思しき何かが山と盛られた籠を負わされている。しかしホヅカサヲとは異なり、アラナミヒコは弓や矢、剣や斧と言った狩りに使うものは持たされていなかった。そしてアラナミヒコの顔は険しい。硬く強張り、ともすればホヅカサヲを睨みつけているようにも見えた。

「真であれば我が兄タカナミヒコが参るところを、先の嵐にて流され死したがゆえ、代わりに弟のアラナミヒコが努めさせていただくこととなりました」

 そう述べるアラナミヒコの声が震えている。どうして震えているのだろう。どんな気持ちに動かされてそんなことを言っているのだろう。

 応えるホヅカサヲの声は聞いていてツクヤメが怖くなるほど落ち着いていた。

「なるほど。して、そちのような若造がこのような務めを負うことになったのか。そちらの村にはもう若い男がいないのか?」

 アラナミヒコがうつむく。歯を食いしばって拳を握り締めているのが見える。

「舐められたものよ。このような出迎えを受けようとは、この度が初めてだ」

 炎が揺らめいた。

「ひざまずけ」

 ホヅカサヲが言い放った。アラナミヒコが目を大きく丸くした。

「己が身の程を弁えよ。いかなる立場にあるのか身をもって知れ」

 アラナミヒコの目が落ち着きなくさ迷った。けれどホヅカサヲはそんなアラナミヒコを見据えているだけだ。アラナミヒコが自らの前に膝をつくのを待っているらしい。

 ツクヤメには、何が起こっているのか、ほとんど分からなかった。ただ、ホヅカサヲがアラナミヒコの村を貶め、辱めようとしていることしか読み取れない。しかしどうしてそんなことをするのか分からない。

「……ふざけるなよ」

 アラナミヒコが震える声で言った。その震えは、怒りだ。

「何が『大人で優しいひと』だ。どこがだ、ふざけるな」

 ツクヤメははっとした。思わずだめ、と叫びそうになった。それから先は言ってはいけない。アラナミヒコにとって良くないことになる。だができない。ホヅカサヲに気付かれてはいけない。ツクヤメはここにいないはずなのだ。

「ずっとずっと不思議に思っていた。どうして俺たちばかりこんなに貢ぎ物を持って山に入らないといけないのか、どうして俺たちばかりこんなに川に振り回されないといけないのか。みんなあんたたちのせいだったんだな」

 アラナミヒコが顔を上げ、ホヅカサヲを睨みつけた。

「山に棲んでいる鬼というのはあんたたちのことだったんだな……!! あんたたちが川の流れを変えたせいで俺たちの村はっ」

 ツクヤメは言葉を失った。手で口を押さえてその場に座り込んだ。

 村には大きな堤がある。堤のおかげで村と川はともに生き村は川の恵みを受けることができる。

 堤が出来る前、川がどう流れていたかを、ツクヤメは知らない。ツクヤメが知っているのは、アラナミヒコの父母と兄がこの川に呑まれて死んだということだけだ。

「何なんだよこれっ! どうして俺があんたに頭を下げないとならない!? 俺は嫌だ、お前らになど従わないからなっ!!」

「これだから子供はよこすなと言っておいたのに」

 ホヅカサヲは「そちは分かっていない」と答えた。

「裏切り者はそちらだ。そちらが我々を先に裏切ったのだぞ」

「はっ、何が裏切っただ」

 アラナミヒコがホヅカサヲを指して「逃げるに決まっている」と怒鳴りつける。

「あんたたちと一つだったなど反吐が出る……! もうあんたたちのために魚を獲ったり塩を作ったりする暮らしをするのはうんざりだッ!!」

「それで、どうする」

 あくまで落ち着いたホヅカサヲへ、アラナミヒコが「あんたたちにオソナエモノを届けるお祭りは俺で終わりにする」と言い放った。ホヅカサヲは「強がりを言う」と鼻で笑った。

「再び川の流れが変わったら、困るのはそちらだろう? 大人しく貢ぎ物をよこしたらどうだ。代わりに山の幸を恵んでやる、腹が満ちれば何ということもないだろう」

 アラナミヒコが「あんたたちは鬼だッ!」と叫んだ。

「川を質にとるなど……っ」

「川下に逃げたそちらの負けだ」

「好きで逃げたのではないっ、あんたたちが海に行かせたと聞いたぞ」

「そちらが帰ってこなかったのだ」

 「さあ」とホヅカサヲが迫った。

「そちはまだ子供だ。ひざまずいて許しを請えば今宵のこの愚かな振る舞いも村の長たちに黙っておいてやろう。よくよく自らの浅はかな言葉を省みてこれからも我が村のために畑作りや釣りに励め」

 次の時、ツクヤメは腸を握り締められたような苦しみを覚えた。

 アラナミヒコが腕を伸ばした。左手に松明を持ったまま右手でホヅカサヲの胸倉をつかみ上げた。

「このくそったれ」

 急いで立ち上がった。

 止めなければならない。

「俺は認めない」

 アラナミヒコは丸腰だが、ホヅカサヲは弓矢と青銅の剣を携えている。

 ツクヤメが木の陰から飛び出した次の時、アラナミヒコが怒鳴った。

「あんたなんかにツクヤメは渡さない!!」

 ツクヤメは確かに見た。

 ホヅカサヲの目が見開かれた。アラナミヒコと会ってから初めてホヅカサヲの顔に心の動きが燈った。

「今、何と言った」

「あんたなんだろう? ツクヤメの許婚というのはっ」

「そうか。ツクヤメに手を出したのか」

 ホヅカサヲの右手が動いた。腰元の剣の柄に伸ばされた。

 川面を踏むつもりで走った。最も深いところでは腿の半ばまであるはずの深さも気にならなかった。水飛沫が上がったが止まらない。止められない。

 止めなければならない。

「殺してやる」

「やめて!!」

 手を伸ばした。アラナミヒコがこちらを向く。しかしホヅカサヲは剣を薙ぐように振った。アラナミヒコの右肘の少し上が裂けた。雫が空を舞った。松明の炎が揺れて音を立てた。

「アラナミヒコ!!」

 アラナミヒコが一足ほど下がった。ツクヤメはそうしてできたアラナミヒコとホヅカサヲの間に入った。大きく腕を広げた。まっすぐホヅカサヲを見据えた。

 ホヅカサヲは目を見開き、口を薄く開けてツクヤメを見ていた。

「ツクヤメ、お前――」

「やめてホヅカサヲ、お願いっ」

「僕の言い付けを破ったんだね」

 悲しそうな声で言うホヅカサヲはツクヤメがよく知っているホヅカサヲで、けれど今までに見たこともないほど悲しそうな顔で、

「あれほど言ったのに……、僕がツクヤメを守ってあげると、だから大人しくしているようにと言ったのに」

 それに答えたのはツクヤメの後ろに立つアラナミヒコだった。アラナミヒコはツクヤメの腕をつかむと「退け、危ない」と告げてからホヅカサヲに言った。

「偉そうに、何が『守ってあげる』だ、今の今までツクヤメがどんな思いをしていたか知らないで放っておいたのに」

 ツクヤメは三度「やめて」と訴えたが、そんなツクヤメには目もくれず、ホヅカサヲが頬を引きつらせて「そう言うお前は知っているのか」と問う。

「僕がどれだけツクヤメのために悩んできたのか……ツクヤメを村に残すためにどれだけのことをしてきたのか」

 初めて聞く話に、ツクヤメも思わず「え」と呟いた。ホヅカサヲが悲しそうに笑って「知らないでしょう」と言った。

「そうじゃ、お前は何も知らんのじゃ」

 いきなり違う声が入った。ここには自らとアラナミヒコとホヅカサヲしかいないと思い込んでいたツクヤメは、驚いて肩を震わせた。

 松明の明かりを頼りに、声の源――ホヅカサヲの後ろを見た。

 ツクヤメは喉が詰まるのを覚えた。

 そこに、村の男たちが並んでいた。そしてその真ん中に祖母が立っていた。

「お婆」

 振り向いたホヅカサヲに、祖母が「もう良かろう」と言う。

「この恩知らずのあばずれめ。だからわしはさっさと追い出せと言ったのじゃ。それをタケタカヲやホヅカサヲが憐れんで家に置くと言うからかようなことに」

 後ろに立っている男たちが「そうだそうだ」、「この遊び女め」と囃し立てる。ホヅカサヲが苦虫を潰したような顔でうつむく。

「裏切り者の娘も裏切り者じゃ。あれほど言ったのに村の外の男と、それもよりによって川下の愚か者どもの村の男と通じよったのだぞ。情けはもう要らぬ。ホヅカサヲよ、この罪びとどもを斬っておしまい」

 アラナミヒコに身を寄せた。アラナミヒコはそんなツクヤメを抱き留めたが、その体も震えたような気がした。

 そこでまた別の足音がした。違うところから声が聞こえてきた。

「気圧されるな、アラナミヒコよ」

 驚いて振り向くと、川下の方から男たちが歩いてきていた。真ん中に立つ翁が、「ついてきて良かったわい」と呟く。

「このド阿呆。ここのところ浮かれておると思ったらやはり女子か。それもよりによって鬼の村の娘に手を出すとはのォ」

 アラナミヒコが黙る。翁が「まあよい」と言って話を切る。どうやらこちらは海の村の人々らしい。冷たい目で山の村の人々を睨んでいる。山の村の人々も負けじと睨み返す。

「この娘がヒサヲメの娘のツクヤメか。哀れな娘だ」

 ぽつり、ぽつりと、頬の上に雫が垂れてきた。とうとう雨が降り出したようだった。冷たい雨だった。今や数え切れないほどに増えた松明の炎が震える。人々の怒りと憎しみに満ちた顔も大きく揺らいで見えた。

「ツクヤメの母親を知っているのか?」

 翁は大きく頷いた。そして答えた。

「我が村で生まれた娘であったからな」

 ツクヤメは再び目を丸くした。

「酷い話じゃ。川に石を拾いに行ったら、下りてきた山の男に犯されたのじゃ」

 山の村の人々が「嘘をつくな」、「戯れでも許さんぞ」と大きな声を上げる。

「ヒサヲメがタケタカヲをたぶらかしたのじゃ! わしの息子を誘っておいて、子が出来たら養ってくれと押しかけてきよって――」

 海の村の人々が「この人でなし」、「まだそのようなことを言うのか」と大声で怒鳴り返す。

「子の親として子を養うのは当たり前の話ぞ。それをいじめ抜いて村から追い出したのはどこのどいつだ」

 雨が、降る。冷たい雨が、ツクヤメの上に降り注ぐ。

「自ら腹を痛めて産んだ娘を置いて海に逃げ帰った女じゃ、罰が当たって然るべきじゃ」

「あの娘は死に間際まで娘を恋しがっておったわ」

 「哀れな娘じゃった」と翁は声を震わせた。

「世を儚んで自ら死んでしもうた……! おぬしが殺したのだぞ!?」

 もう聞きたくない。

「やはり山の村と海の村は一つになるべきではない。出会うべきではなかったのじゃ」

 嫗が呪いの言葉を紡いだ。

「わしがまだ娘じゃった頃、村の二つに分かれし時より、山の村と海の村は再び一つになることはないというさだめに導かれ今日に続いておるのだ」

 翁も呪いの言葉を紡いだ。

「それだけはこちらも同じじゃ。儂らは再び川を上ることはない。おぬしらが築いたあの壁で隔てられてよりこちら我々は二つに分かれてしまったのじゃ」

 呪い声が山に木霊する。

「貧しい山を捨て豊かな海に逃げた裏切り者どもめ」

「厚い壁で里を覆い里を奪った山の鬼どもめ」

 村の大人たちが少しずつ、少しずつ、互いに歩み寄ってくる。けれどそれは手と手を取り合うためではない。山の男たちは弓を構えた。海の男たちは石斧を構えた。

「アラナミヒコよ」

 海の翁が言った。

「その娘を捨てるのじゃ。その娘は山の鬼どもに育てられもはや我々とは違うものに育ってしまった娘よ。行く末のあるお前に相応しゅうない。嫁ならば探してきてやる。諦めるのじゃ」

 山の嫗が言った。

「ホヅカサヲよ、二人まとめて亡きものにしてしまえ。お前がいくら庇ったところで海の娘の血を引くあばずれじゃ。これほどまでにお前が気を揉んでもまったく汲みやせんかった愚か者。ここですべてを洗い流すのじゃ」

 ホヅカサヲが剣を構えた。その顔に水が細かな流れを作って頬から顎へと伝っているのが見えた。これほどまでに雨が強くなったのか。そう言えば寒さも感じ始めた。

 そう思った時、ツクヤメを抱く腕に力が込められた。

「離さない」

 ツクヤメは目の前が滲むのを覚えた。これも雨のせいか。

「俺、ツクヤメは諦めないから」

 ただアラナミヒコの、声が、腕が、思いが、想いが、熱い。それだけが熱くて、ツクヤメは苦しくて、

「離して、アラナミヒコ」

 嬉しいのが悔しい。

 皆の言う通りだ。ホヅカサヲもアラナミヒコもそれぞれの村の先のために要る若者なのである。二人とも、幾年もの間続いた山の村と海の村の争いに揉まれてもやっていけると思われ選ばれた、火の守り役を担えるほどの人なのだ。

 ツクヤメはそれを誇らしいと思った。そしてそれだけでもう満ち足りた気がした。

 ツクヤメは、どちらの村にとっても要らない娘だ。

 アラナミヒコの胸を押し、体を離そうとした。

「わたしはもういいの。皆の言う通り、知らなかったし、知ろうともしなかった。だからもういいのよ。おっとうとおっかあのところへ行く」

 アラナミヒコが腕に力を込め直し、「何を言っているんだ」と言った。そんなアラナミヒコにツクヤメは微笑みかけた。

「もう何もかも忘れて海に帰って。お願い」

「ツクヤメっ」

「わたし……、わたし、」

 雨で肌が滑った。アラナミヒコの腕を擦り抜けた。この隙にと、ツクヤメは岸辺まで後ずさった。川はこの強い雨で水かさを増やしていた。先ほどまではこんなに近くなかったはずだが、ツクヤメが三度足を後ろに動かしただけで足が水に浸かった。流れが速い。呑まれそうだ。

 きれいさっぱり消えてしまえばいい。

「お嫁さんにしてくれると言ってもらえて、嬉しか――」

 空が光った。稲妻が轟いた。人々が「雷だ」と騒ぎ声を上げた。

 すぐその後だった。上の方で何かが弾けた音がした。壊れて溢れて流れてくる音がした。

「ツクヤメ!!」

 ただ、アラナミヒコが腕を伸ばしたのだけが見えた。

 あっと言う間だった。

 体が横から何か強く大きく激しい力を持ったものに押された。初めての肌触りだった。冷たい。強過ぎて痛い。息ができない。自らの体も動かせない。足が地につかない。肩が岩にぶつかる。

 そんなに深い川ではないはずであだった。けれど荒れ狂う水面は遠く暗くて腕をいくら伸ばしても届きそうになかった。底に沈んだり水の中に浮かんだりするのは分かる。でも何もできない。どうしようもない。ただただ苦しい。

 そうか、もう終わりなのだ。

 ツクヤメはそっと目を閉じた。

 これこそ望んだことだった。

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