第五話
祖母に聞かれないよう、ホヅカサヲが狩りのために家を出た後少し経ってから、ホヅカサヲを追い掛けた。林の中へ入っていく背を目指して走り寄り、服の裾を引く。ホヅカサヲは驚いた顔で振り向き、小さく「ツクヤメ」と漏らした。
「どうかした? お婆に何かあったか」
ツクヤメが首を横に振ると、「お婆に何か言われたか」、と問うてくる。眉根を寄せた険しい顔に反して、ホヅカサヲの声は優しい。ツクヤメのために気を揉んでいるのだ。ホヅカサヲがこんな顔をするほど、こちらは思い詰めた顔をしているのか。きっとしているのだろう。ツクヤメはずっと悩んでいたのだ。そして今、とうとう気持ちを固めたのである。幾ばくもせずアラナミヒコに嫁ぐ日が来るのだ。もしこれでホヅカサヲに蔑まれることになったところで何の苦しみがあろうか。
「明日のお祭りのことでホヅカサヲにお願いしたいことがあるの」
眉根の皺を寛げつつ、ホヅカサヲが首を傾げる。ホヅカサヲの考えていたような騒ぎは起こっていないことを知って強張りは解いたようだが、そんな問い掛けは考えていなかったらしい。
服の裾を離すと、拳を握り締めた。手の平に汗をかいていた。喉が渇いている。ともすれば声が震えてしまうかもしれない。
それでも、黙って見てなどいられない。
「神様に会うのは守り役のホヅカサヲ一人だけよね? 他は誰もついてこないのよね?」
「そうだけど――」
「わたしも連れていって」
ホヅカサヲが目を見開いた。
「ホヅカサヲが一人で発つまで、どこかに隠れているから。わたしも神様のところへ行きたい」
そうすれば、アラナミヒコとホヅカサヲが鉢合わせてしまうかもしれないその場にツクヤメも立ち会うことができる。
「ホヅカサヲ一人で行くなら、村の他の人には見つからないでしょ? 戻ってきても誰にも言わないから。ついていって見ているだけだから。ね」
手を伸ばした。ホヅカサヲの次の言葉を急かすつもりでホヅカサヲの腕をつかんだ。
「お願いホヅカサヲ」
分かっていた。すぐには頷くまい。ホヅカサヲは真面目だ。ツクヤメが少し頼み込んだくらいでは村の掟を破ってツクヤメの願いを聞くとは思えない。だが、今ばかりはツクヤメもすぐには引こうと思っていなかった。もう少し強く押してホヅカサヲの言うことを聞くと言い張れば聞いてくれるだろう。
そう思っていた。
「何を言っているんだ」
強い言葉が吐き出された。勢い良く手を振り払われてしまった。
次はツクヤメが口を薄く開けたままその場に立ちすくんだ。
「誰に何を言われた!?」
ホヅカサヲがこうして声を荒げるところを見たのは、初めてのことだった。
「誰かに何か言われたんだろう。答えるんだ」
手首をつかまれた。その手の力が強くて恐ろしかった。違う人になってしまったかのようだ。そうと知らず良くない獣の魂を呼んでしまったように感じた。ホヅカサヲに何か憑いてしまったのかのようだ。
「や……っ、ホヅカサヲ、痛い」
「お前の母親のことを言われたんだろう。こんな時に限って……っ、もう許さないからな」
母親という言葉に引っ掛かるものを感じた。どうして今ツクヤメの母の話が出たのだろう。ツクヤメはあくまでアラナミヒコとホヅカサヲのことを危ぶんでいたのである。
だが聞けるようでもない。握り締められた手首が痛みを訴える。ホヅカサヲの目が刺すように睨んでいる。
「みんな僕の気も知らないで……っ! 僕がこの三年どれだけ悩んだと思ってっ」
「ちっ、違うよっ」
やっとの思いで声を絞り出した。「どうしていきなりそんなことっ」と叫んで首を大きく横に振った。ホヅカサヲはすぐさま「ならなぜ」と続けたが、あまりのことに驚いたらしい喉がなかなか声を出さない。あらかじめ考えておいて良かったと思った。もし何の支度もなくこんなことになったらいつまで経っても何も言えずに真のことを述べねばならなくなっていただろう。
「わ……わたしっ、婆様やホヅカサヲに怒られると思ってずっと黙っていたけど、その、先の月の末に、あの、ほら嵐の後の日、川の水が増えていた時によ、洗い物をしていて、帯を一筋流してしまったの……!」
幾度も詰まり、ところどころ言い淀んでしまったが、どうにかこうにか吐き出した。
「だからそれ、どこかに引っかかっていないか、見に行きたくて……」
そこまで口にする頃には、気持ちも落ち着き始める。ホヅカサヲの手にこもる力も弱まり、和らぎ始める。
「ああ……、そう。なんだ、それだけのことか」
ややすると、ホヅカサヲの手が離れた。肩から力が抜けていったのも見て取れた。目を斜め下に落としたものの落ち着いた声音はいつものホヅカサヲの声音だ。ツクヤメはほっと息を吐いた。
「ご……ごめんなさい……。怒っている?」
「いや、そんなこと。そもそもまったく気付かなかったよ」
「わたしのだったから……。でも、お祭りの前に新しいのをおろして、叱られると思って……ただでさえ嫁入り支度で物入りだというのに……」
「まあ、それは、そうだ。次から気をつけなさいよ」
「お前にばかり家のことをさせているから、疲れているんでしょう」、と呟くように言ったホヅカサヲの声こそが疲れているように見えた。
「とにかく、お祭りの話だけれど。何が何でもだめだ」
言いながら踵を返して、山の奥を向く。ツクヤメからは背中しか見えなくなる。
「恐ろしいことだよ。女子が――まして嫁入り前の娘が、川の神のお目にかかるなど。川の神は人を喰らう神だよ」
ツクヤメは頷いた。けれどホヅカサヲは向こうを向いているのでそれが見えなかったのだろう。「分かった?」と押してきた。ツクヤメは小声で「はい」と答えた。
「では、僕はもう行くよ。ツクヤメも早く戻って夕餉と明日の朝餉のために芋を掘りに行きなさい」
「ホヅカサヲ……、あの、」
「そう、今宵は守り役の支度で長の家に泊まるから、明日の朝餉は要らないよ。それから、明日の祭りの間は、お前はずっと家の中にいなさい。いいね?」
ツクヤメには、もう、何も言えなかった。
今宵の空は雲が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだった。木の葉は絶え間なくざわめき続けている。風が強く吹き荒んでいるのだ。雲の流れも速いというのに、空はなかなか晴れない。月が顔を見せるのは稀であり、望月の夜とは思えぬ暗さが村を覆っている。この祭りの夜がこんなに暗いのは、ツクヤメが物心ついてから初めてのことだった。
嫗の間には良からぬ兆しだと言い出す者もあったらしい。今宵の祭りは取り止め、次の望月の夜に持ち越すべきである。なぜならば今宵の神はお怒りだ。そうでなかったら何ゆえ今宵に限ってこのように夜を暗くなさるのか。神は恐らく今誰にも会いたくないに違いない。こんな中をあえて行けば川は荒れ村に災いがもたらされるだろう。
そんな嫗たちを黙らせ、翁たちは祭りの支度を進めた。祭りはどうしても今宵でなければならない。次の望月には他の祭りがあるので、一つの夜に二つの祭りを催すことはできない。また、供え物の中には果物があり、今宵を逃せば腐らせてしまうかもしれない。何より、今宵の火の守り役はすでに守り役に慣れたホヅカサヲだ。ホヅカサヲほどの男であれば何の滞りもなく祭りは済むだろう。
村の至るところにかがり火が焚かれた。炎は風に揺られ今にも消えそうだったが、男たちは獣の脂をいつもより多く使ってその火を守った。
やがて村の広場に人々が集まり出した。人々は円くなるよう並んで座り、真ん中のかがり火、その下に置かれた供え物の詰まっている籠とまだ火の燈っていない松明に見入った。人々を掻き分け、村長が巫を連れてくる。周りの人々が額づいた。
その流れを、ツクヤメは家の窓から見ていた。
先ほど、祭りが始まる前に少しだけ戻ってきたホヅカサヲは、祖母だけを連れて家を出た。祖母は嫗の中で最も年のいった者から数えて二人目の誉れある長の一人だ、祭りに出ないわけにはいかない。けれどツクヤメは許されない。家の窓から祭りの場が見えるので、ホヅカサヲはそこから見ているようにと言った。
ツクヤメは初めのうちこそ嫌がったが、抗っているうちに気付いた。祭りが始まれば老いも若きも皆あそこに集まる。あそこに集まっている村人たちに気付かれなければ、ツクヤメがいつ家を出てどこへ行ったのか見つからなくて済む。しぶしぶ受け入れたふりをして、ツクヤメは黙って抜け出すことを選んだ。
人々を掻き分け、新しい麻の着物に身を包み、弓と矢を背負って、腰に青銅の剣を提げたホヅカサヲの姿が現れた。かがり火に照らされたホヅカサヲの顔は引き締まっており、朝夕と見ているホヅカサヲとは少し違って見えた。ホヅカサヲに神が移っているかのようだ。
ホヅカサヲが巫の前にひざまずいてから、巫が祝いの呪いを唱えて、かがり火から松明に火を移した。松明の先が勢い良く燃え上がり煙が雲まで上がった。
巫が松明を高く掲げた。そしてホヅカサヲに差し出した。ホヅカサヲがその松明を受け取った。村人たちが手を叩き囃す声が聞こえ始めた。
女たちが右左から現れ、ホヅカサヲの左肩に供え物の詰まった籠の肩紐をかけた。囃子が変わった。川へ祈り神を拝む声が黒い雲の中へ溶けてゆく。ホヅカサヲが三度松明を掲げた後、堤へ向かって歩き出す。村人たちも堤を向く。
ツクヤメは傍らに置いておいた袋を手に取った。ツクヤメの手の平より少し大きな袋の中には、昼間のうちに拾い集めた木の実が入っている。前にアラナミヒコと依り代の傍で会った日の帰り、次に来る時はアラナミヒコと会わせてくれたことへのお礼の品を持ってこようと考えていたのだ。
音を立てぬよう気を使いながら家を出た。ゆっくり戸を閉めたが、外の囃子の声を聞いているとそんなに気を使わなくても良かったかもしれない。否、気を抜いてはいけない。引き締めていかなければならない。
村の外れに向かって走り出した。堤を乗り越えて行こうと思った。門のところには火の守り役を見送る村人たちが押し寄せ、ツクヤメが出入りする隙はない。
やがて見えてきた盛り土はツクヤメの背よりも高かった。けれど腕を伸ばせば上に手が引っ掛かる。その上堤の下は広がっていて小さな坂になっていた。できなくはない。裾の辺りを踏み締め、土をつかんで乗り上げる。雨に打たれたせいか飛び出ている杭に足をかけ、上を見て、登っていく。
足元が滑った。爪に痛みが走った。思わず膝をつく。土の中に膝がめり込み、滑って下まで落ちる。だがここで倒れ込んだらお終いだと手の指の爪を立てて土に食い込ませた。
堤の真上に辿り着いた時だった。空が明るくなった。ツクヤメは驚いて頭の上を見た。雲と雲の隙間から円い月が顔を見せていた。堤の向こう側、川の岸辺が見えて足場は分かりやすくなったが、ツクヤメは手と手を合わせて神に祈った。どうかこのまま月を隠したまえ、我が姿を村の者に見つからぬようはからいたまえ、ツクヤメを村に戻したまうな――今見つかったら村に殺される。目を閉じ肩を縮める。闇が訪れるまで息を潜めていようと胸に決める。
それから間もなく辺りの暗さがさらに深まった。再び目を開けると、月は雲に覆われどこかへ隠れていた。助かったのだ。
先ほど月が足元を照らしてくれたおかげで、堤を下りるのは思っていたより滑らかにできた。ツクヤメは木と木の間を走りながら胸が高鳴るのを覚えた。神はやはりいるのかもしれない。ツクヤメを見ているのかもしれない。神は今ツクヤメの方についている。
草に脛や腕が擦れて痒いような熱いような疼きをもたらしたが気にならない。足を止めずに走り続ける。こんな闇夜なのに林の向こう側まで見えそうな気がした。
道半ばで足を踏み外した。体が背中側から下へ落ちるのを感じた。いつの間にか川べりに来ていた。濡れた岩に足を滑らせ転んでしまったのだ。
背中を岩に打ちつけた。音と体中に降り注ぐ冷たくて濡れた感じから水飛沫が上がったのを知った。目立つことをした。痛みよりも先に恐れが来る。急いで身を起こし辺りを見回す。誰もいなかった。ツクヤメは胸を撫で下ろした。腰元に手をやる。供え物は腰にあり、袋に穴が空いているようでもない。あと転んだ弾みで川に落ちてしまいそうなものと言ったら耳飾りくらいしか身につけていないし、もはや落ちても何とも思わないだろう。今宵は恵まれている。着物がずぶ濡れになってしまったがむしろ気持ちが良いくらいだ。
村からはかなり離れられたと思う。そもそも村人は川の限られたところしか使わず堤や林を超えてまでこちらへ来ようとはしないものだった。何せここから先には神の依り代しかない。そしてそこには火の守り役しか来てはいけないのだ。
月明かりを頼りに岸へ上がった。そして林の木々伝いに歩き始めた。ここまで来れば焦ることはない。後はゆっくり火の守り役に追い付けばいいだけだ。火の守り役は神の依り代の前で呪いをしなければならないので、すぐには帰らない。今から行ってもどんな呪いをするのか見ることができるだろう。
すぐに声が聞こえてきた。ホヅカサヲの声だった。もうすぐ近くまで来ていたのだ。
木の陰に身を寄せ、岩のある方とは異なる岸から依り代の岩を見た。