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第四話

 どうにかして薄れさせてやることはできないものかと、アラナミヒコを見た。そして「アラナミヒコ」、と囁いた。けれど、アラナミヒコはツクヤメを見ずに「慰めてくれるな」と答えた。

「同じ時に同じように家の者を失った人は他にもいるんだ。中には子供がみんな流された嫗もまだ歩けない赤子もいる。兄貴の嫁など兄貴に嫁いでまだ一年だぞ。俺は姉貴や妹が近くに住んでいて飯をこさえてくれる。舟も一人で出せる。親父やお袋や兄貴との思い出もある。お前と違って村のみんなが俺のことを気にかけてくれている」

「だけど――」

「嫌だ。俺が考えたくない」

 小さな声が、

「お前には話さないと決めていたのに」

 聞いているだけでこちらの胸まで絞めつけられるほど苦しそうで、

「家に一人になったから――独りだから、急いで嫁を貰おうとしているのではないんだ……。お前を飯炊きに欲しいわけではないし、誰でもいいわけでもない」

 ツクヤメは目を細めた。それから、アラナミヒコの腕を抱き、肩に頬を乗せた。いつか森の中で見た甘噛みし合う子狸たちを思い出す。確かこんな風に互いの上に乗るようにして戯れていた。

 こうして触れ合っているうちに、悲しみが溶け出してしまえばいい。そしてツクヤメの中に流れ込めばいい。アラナミヒコの苦しみが二つに分かれて小さくなればいい。

「どうしてそんなことを気に病むの? わたしはそれでいい」

「つ……ツクヤメ?」

「独りで暮らしたくなくて貰ってくれるのなら、独りになってしまわないようともにいてくれるでしょう。わたしはそれで満たされる」

 アラナミヒコがようやく振り向いた。その顔が今にも泣きそうに歪んでいるように見えたので、ツクヤメは顔を上げ、その頬に額を押し付け直した。

「わたしこそ、だよ。早く今の暮らしから抜け出したくてお嫁に行こうとしていた。寂しかったからだ。アラナミヒコもそれでいいの? いいなら悩むことなど何もない」

 アラナミヒコの腕が動いた。気付いたら、竿は脇に置かれていた。糸は相変わらず川の中に垂らされたままだが、先ほどとは異なり、流れに任せて力なくたゆたっている。それでもいいではないか。川の流れの前では儚い。

 横から抱き締められた。アラナミヒコの腕の中に納まると気持ちが安らいだ。ずっと長い間ここに落ち着きたくてさ迷っていたような気さえしてくる。またあの汗の匂いに似た辛い香りが漂う。アラナミヒコの村の香りだろうか。

「いいのか……?」

 どうかこのままそこへ連れていって――その言葉は声にならなかったけれど、ツクヤメは黙って目を閉じた。アラナミヒコがまた小さく「ツクヤメ」、と囁いた。

「良かった。夫婦になるのに隠し事はしたくなかった」

 アラナミヒコの言う通りだ。これから夫婦になるのだ。怖いことなど何もない。

「わたし……、アラナミヒコの子をたくさん産むよ。寂しくないように。来る日も来る日も賑やかで、楽しくて、明るい声が聞こえてくるように」

 ツクヤメがそう言ったら、いきなりアラナミヒコの片腕が動いて、ツクヤメの顎を捕らえた。そして上に持ち上げた。どうしたのかと問うより先に唇が塞がれた。口が開かない。アラナミヒコの顔があまりにも近過ぎてむしろよく見えない。少ししてから分かった。唇と唇が触れ合っている――初めてのことだった。胸の中身が弾んだ。とうとうこんなことをするような仲になったのだ――そう思うと、嬉しさと恥ずかしさで体が浮いてしまいそうだ。

 しかし目蓋を下ろし、閉ざしかけたところで、気がついた。ツクヤメはたまたまホヅカサヲとその前の妻が同じように口付け合っているところを見てしまったことがある。このままあの二人がしていたように夫婦の営みへ入ってしまったらどうしよう。その前に水浴びをしたりせめて腰布だけでももう少し良いものに替えたりしたいのだが――否、まだ日が高いので夜にしてもらいたいのだが、いつそれを伝えるべきだろう。困ったことになった。

 しかしアラナミヒコはそんなツクヤメの胸の内を読んだかのように身を離し、頬を赤く染めて「悪い」と呟いた。

「ま、まだ早いよなぁ!? と言うかこんなところで……っ、ちょ、ちょっと落ち着くっ」

 ツクヤメは、胸や脇腹に触ったくせに、とか、いろいろ言ってやりたいような気もしたが、やめた。岩から立ち上がり、外を向いて竿を拾い上げているアラナミヒコの背中を見ていると、それさえも含めていじらしい気持ちになってくる。これが愛しいというのか。やはり嫁いで子を産んでやらねばならぬと思わされるのだ。

「いや、それで、話がずれた、だから、俺は神様など信じていないということだ」

 釣りは止めにしたらしい。糸を引きながらアラナミヒコが言う。ツクヤメは「そう」と答えた。何の話か頭から消えかかっていた。そんなことより早くあなたの家に連れて帰ってと言いたいのを耐えていた。けれどアラナミヒコはツクヤメに背中を向けたまま話を続ける。

「これもこれで恥ずかしい話だけど……、お前に初めて会った時も」

 話が自らのことに及んだと気付いて、頭を話へ切り替える。

「分かってはいたんだ。そんなことをしてもどうしようもないと。でも、家で一人でいるとむしゃくしゃして。何にもしないでいるよりは気が晴れるかもしれないと思って、川をさかのぼり始めた。それで、川の神に会えたら、殴ってやろうと。どうしてお袋を裏切ったのかと、問い詰めようと思っていた」

 「でも俺が会ったのは川の神ではなくお前だった」と言った時、ようやくアラナミヒコがツクヤメの方を見た。その顔は先ほどよりも少し晴れているように見えた。

「川の神様などいない、いるのは人と魚と虫だけだ、とも、思った。けれど今となっては――神様なりにさ、俺に申し訳なく思って、償い代わりにお前に会わせてくれたのかな、とも、思っている」

 ツクヤメはただ、微笑んだ。そして、黙って頷いた。確かに、川の神が導いてくれたのかもしれない。あの時ツクヤメの落とした耳飾りがここまで川を下らなかったら、アラナミヒコに会うことはなかったのだ。

「そう思ったら、あんまりないがしろにしたら良くないかもな」

「そうだね。神様が会わせてくれたのだったら、お礼を言わないといけないね」

 岩から下り、岩のすぐ傍に膝をついて手と手を合わせた。そしてアラナミヒコの分までという思いで目を閉じ、頭を下げた。もしそうだったら、今こんなにも満たされた思いでいられるのも、すべて川の神のおかげだということになる。アラナミヒコの親や兄を奪ったのは憎いが、酷いばかりではないのだ。

 目を開けて、岩を見る。縄が曲がっていたので、岩の窪みにはめ直すように整えた。

「何かお供えできるようなものを持ってきたら良かった」

「釣れたら置いていったんだが、残念だな」

 ところが、アラナミヒコは笑って「と言っても」、と付け足した。

「またすぐに供え物を持ってここに来ることになっているのだった」

 それを聞いたツクヤメは手を止めた。そして「どういうこと」、と尋ねた。アラナミヒコはツクヤメの抱いた疑いに気付いていないらしく、なおも明るい声で「実はさ」と答えた。

「次の望月の夜、村で川の神に供え物を持ってくる祭りをするんだけど、俺、その祭りで、川の神に供え物を持ってくる務めに選ばれた」

 ツクヤメは目を丸くした。立ち上がり、まっすぐアラナミヒコを見た。アラナミヒコもツクヤメに気付いて顔から笑みを消した。

「アラナミヒコの村もその祭りをするの」

「ん? そちらの村でも同じ祭りをするのか?」

「言ったでしょう、次のお祭りの後にホヅカサヲに嫁ぐと。そのお祭りではうちの村もここに選ばれた人がお供え物を持ってくることになっているの。もともとここはお祭りの時にお供え物を持ってくる人しか来れないことになっていて、そのお供え物を持ってくる人も選ばれた大人の男だけと決まっていて」

 思い出したらしく、アラナミヒコが「この祭りのことなのか?」と眉根に皺を寄せた。

「まさか、嘘だろう? 他の村にも同じ祭りがあるなど聞いたことがない」

 胸が冷えるのを覚えた。

「寄合では、翁たちが、今年は俺の兄貴にやらせるつもりだったと言っていた。でも死んでしまったから、代わりに俺に、と。うちの村では、その、火の守り役と呼ばれる務めをするのは、すごく誉れあることなんだ。俺はまだ独り身だが、俺が守り役をやれば、兄貴の弔いにもなる、親父やお袋もきっと喜ぶはずだ、と」

 まったく同じ祭りだ。火の守り役という名さえ違わない祭りが、ツクヤメの知らない村で行なわれようとしている。

「うちの村でも同じ務めを火の守り役と呼ばれる人がするの。年をとってから村長になるかもしれない、狩りが上手くて村の他の若者から頼られる若い男だけが選ばれる務めなの」

 アラナミヒコも目を丸くした。

 ツクヤメは気持ち悪さを覚えた。ともすれば吐いてしまいそうだった。ツクヤメの知らないところで、ツクヤメの生きる世を、誰かが動かしている。それが神であるならばまだいい。けれどその名まで同じというとどうしても恐ろしさが先に立つ。ツクヤメの知らない理がアラナミヒコを呑み込もうとしているように感じる。

「いや、ありえなくもないか」

 ややしてから、アラナミヒコが呟いた。ツクヤメが弾かれたように顔を上げ、「どうして」と問い掛けると、「同じ神を拝むなら重なることもあるだろ」と答えた。

「それだけのことで? まだ夏が終わったばかりで実りのお祭りもまだ先にまたあるのよ。しかも守り役という名や守り役の選び方まで同じとか」

「お前の言うことももっともだ。近くの他の村にはない、シラヅの村にだけある祭りだし」

 「でも、おかしいだろ?」とアラナミヒコが言う。

「お前の村はよその村とはまったく交わらないんだろ? たまたまではないのか? 祭りなら火を焚くのは当たり前のことだ」

「そう……だけど……」

「それにもしかしたら、昔そこでお前の村の誰かと俺の村の誰かがかち合って、気が合って話を合わせたから同じ呼び名にしたのかもしれない」

 背中が震えた。

「わたしが嫌なのはそれなの」

「え?」

「今年の、火の守り役。うちの村、ホヅカサヲなの」

 さすがにその名は忘れていないようだった。アラナミヒコがわずかな間黙った。そしてしばらくしてから、「よりによってそいつか」、と呟いた。

「お前の元の嫁ぎ先、だよな?」

 ツクヤメは頷いた。次の時目の前が霞んだ。

「どうしよう……ホヅカサヲとアラナミヒコがこんなところでぶつかってしまうと……わたしどうしたらいい……?」

 右左の手でそれぞれの目を押さえる。アラナミヒコが「わっ、泣くな、泣くなよ」と大きな声を出す。

「まだ何かが起こったわけではないんだからっ、気が早過ぎだろ!」

「でも――」

「同じ頃に辿り着くとまでは限らないんだから会わないかもしれないだろ? 会ったら会ったで、向こうは大人の男なんだろ? 俺と違って神の上に胡坐をかくような男ではないなら、いきなり取っ組み合いになることもなかろうよ。俺もきちんとどういういきさつでどうなってこれからどうしたいのか話をするから――と言うか、俺が先に話をすべきだ。お前、親父さんが亡くなって、今家にいる大人の男はそいつだけなんだよな? そうしたら、嫁を貰いたい俺が嫁を出すそいつに話を通すのが筋だ」

 大きなアラナミヒコの手が頭を撫でてきた。

「前向きに考えよう。むしろ良かったと思おうぜ」

 アラナミヒコの言う通りだ。すべてアラナミヒコの言った通りに事が運んでくれれば、ツクヤメは何の懼れもなくアラナミヒコに嫁げる。ホヅカサヲを裏切ることに変わりはないけれど、少なくとも逃げなくても済むし、向こうも帰ってこないツクヤメを待つはめになるまい。誰にとっても悪い話ではないはずだ。

 それなのに、この胸騒ぎは何だろう。どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。

 その恐れを取り除きたくて初めて自ら手を伸ばした。アラナミヒコの胸に顔を埋めた。アラナミヒコは驚いたのか「おっ」と声を上げたが、すぐに抱き締め返してくれた。

「守り役として情けないことをしたら村のみんなにも申し訳が立たないし、俺がちゃんとする。だからお前は待っていろ」

 後ろから髪を撫でられた。この手を失いたくない。

 彼の身に恐ろしきことを降りかからせ給わぬよう――贄が要らば我が身を召し給うよう。

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