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第三話

 着物を畳もうとござの上に膝をつき、着物に腕を伸ばした時だった。後ろから名を呼ばれた。振り向くと、開いた戸の辺りにホヅカサヲが立っていた。右手には動かなくなったうさぎを提げている。ツクヤメは立ち上がり、「お帰りなさい、早かったね」と言った。ホヅカサヲが穏やかに微笑んだ。

「この毛皮で新しくツクヤメの足に合う沓を作るから、楽しみにしていてね」

「沓を?」

 ツクヤメは足元を見下ろした。ツクヤメの足は土に慣れ、強くたくましい。幼い頃村の子供にからかわれるたび林に逃げ込んで泣いたことが足を育てた。今になって革の沓が要るとは思えない。

 しかしホヅカサヲは兄のように笑んだまま、静かな声でツクヤメを諭した。

「祝いの席の花嫁が裸足だと、情けないでしょう」

 ツクヤメは胸の中が跳ねるのを感じた。思わずうつむいてしまった。けれどホヅカサヲはそれを恥じらったのだと勘違いしたらしく、ツクヤメの頭を撫で、「思い煩うようなことは何にもないよ」と囁く。

 この七つ上の従兄は優しい。気が穏やかで声を荒げることもない。何より狩りが上手い。ツクヤメが子を産んでもホヅカサヲなら養ってくれるだろう。

 ここのところのホヅカサヲは、祝いの席がどんなものかいまいちよく分からないツクヤメのために祖母を急かして色んなものを揃えている。ツクヤメも言われるがままに支度を整えていればよかった。

 それなのに、ツクヤメの心は、もう、ホヅカサヲをまっすぐ見ることもできないほど離れてしまった。

「あれ、それ、どうしたの?」

「それ……?」

「髪を結っている紐だよ。初めて見たなぁ」

 ツクヤメは唇を引き結んだ。その言葉が心変わりを咎めているように聞こえる。

「そう……だったかな、わたしが染めて、紡いだものだけど……」

「ああ、そうなのか。ここのところ染め物もよくしているものね」

 うつむいたままのツクヤメに、ホヅカサヲは「祝いの品にいただいたものだったらお返しをしないといけないなと思っただけだよ」と苦笑いをした。

「似合っているよ、可愛いよ」

 そう言うと、ホヅカサヲは戸の方へ向かって歩き出した。うさぎの皮を剥ぐのだろう。きっと血を洗い流すための水を汲みにまず川へ行くはずだ。

 川へ――アラナミヒコの村へ続くあの川へ、だ。

「あ」

 ホヅカサヲが振り向いた。ツクヤメは頭の中にアラナミヒコの姿が浮かんだのに気付いたのかと思って肩を震わせた。

「朝話そうと思って忘れていたことがあるんだけど――どうかした?」

 慌てて首を横に振り、「何でもない」と訴える。ホヅカサヲは不思議そうな顔をしながらも、「そう」、と頷いて続きを話した。

「次の祭りの火の守り役になったよ」

 次の祭り――次に月が満ちた夜に行なわれる、川の神へ供え物と祈りを捧げる祭りだ。火の守り役とは、供え物を持って川の神が祭られる依り代の岩まで行く務めの者のことである。火の守り役という名は、恐らく、供え物とともに夜を照らす松明も運ぶためにつけられたものだろう。消えることなく持ち帰られた火は、神の恵みを受けたとして、村のあちこちに燈されることになっていた。

 火の守り役は祭りの前、朔の夜の寄合で、翁たちが話し合って決める。選ばれる者は村の行く末を担う若い男だ。狩りのできる、いつか村長になるかもしれない者のみに許されるものである。

 ツクヤメは立ち上がって「おめでとう、わたしも嬉しい」と言った。ホヅカサヲは「ありがとう、でももう今年で三度目だからね」と答えた。

「やることも覚えてしまったし、これと言って喜ぶほどのことでもない気がする」

「そうなの? 幾度選ばれても良いことは良いことでしょ、あそこに行ける人は守り役しかいないし」

 自ら言ったことなのに、口にしてからまずいと思った。火の守り役しか行けないはずのあそこに、ツクヤメは行ったことがある。見つかってはいないはずだ。耳飾りはあの日の朝山へ狩りに入るホヅカサヲを見送った時と変わらず耳で輝いている。これからも気をつけなければと自らに言い聞かせる。

 ホヅカサヲはそんなツクヤメから目を逸らして、一つ息をついた。

「どうだかな」

「え?」

「僕が守り役に選ばれるのは、口が堅いからではなかろうか。何もせずに大人しく戻ってくるからではなかろうか。この務めは、爺様たちからしたら、あまり多くの人にはやらせたくないだろうし……な」

 ツクヤメは首を傾げた。そう呟くように言ったホヅカサヲの考えが読めない。ホヅカサヲの顔を眺めて、どういうことだろうと考える。

 ホヅカサヲはそんなツクヤメにすぐ気付いたようだった。いつもの笑みを取り戻し、再びツクヤメの頭を撫で、「川の神様は気難しいお方だからね」と言った。

「きっと僕が黙って供え物を持ってくるから神もお気に召したんだ。だから何事もなく済んでいるんだよ。ただそれだけのことだと思うよ」

 踵を返して「行ってくるね」と言い、ホヅカサヲが出ていく。その背を見つめて、ツクヤメは、はたしてそれは真かと考えた。ホヅカサヲはツクヤメをまだ子供だと侮ってそんなことを言うのではなかろうか。何せツクヤメは知ってしまったのだ――ツクヤメが川の神の依り代に辿り着いた日から幾日も経っているのに、川はまだ乱れる気色を見せない。そればかりか、この世に他の村があることと恋というものも知った。

 アラナミヒコには、ホヅカサヲに別れを告げ、村を出るよう言われた。けれどツクヤメには、ホヅカサヲにこの気持ちをどう打ち明けるべきか分からない。胸の中身が渦を巻いて回っている気がする。

 火の守り役が決まった。時は迫ってきている。



 洗い物と染め物を水にさらすのを一度でやると嘘をつき、ツクヤメは家を出た。祖母は何の疑いも抱いていないようだった。ひたすら縫い物をしていた。ツクヤメの嫁入りの衣であり、もともとは嫁の母親や姉、妹が縫うものだが、ツクヤメには誰もいないので、ホヅカサヲが祖母に頼んだのである。祖母はホヅカサヲに甘くホヅカサヲの頼みは断れない。ツクヤメに「どうしてわしがお前のために」と文句を言いながら縫い続けていた。そんな中でツクヤメが出ていくと言うのは、祖母にとって悪いことではないのだろう。

 辺りに人がいないか窺いながら川辺を小走りで動いた。茂る木々で歩きにくいと迷わず川に足を突っ込んだ。冷たい水は心地良く、足の指の狭間を流れていくのでさえツクヤメには優しく思える。

 辺りが晴れた。依り代の岩まで着いたのだ。ツクヤメは自ずと笑みが零れるのを覚えた。

 けれど、その依り代の岩の上に竿を持った若者が座り込み、川の中に釣り糸を垂らしているのを見て、ツクヤメは溜息をついた。

「なんだ、お前か。なに溜息をついているんだよ」

 ツクヤメの足が水を蹴る音に気付いて、若者――アラナミヒコが顔を上げ、ツクヤメを見る。そして口を尖らせる。

「なんだ、ではないでしょう。何をしているの」

「釣り。川魚も食ってみたいと思って……わりといるだろ?」

「いるけれど、その岩の上に座るのはやめてよ……うちの村では神の宿る岩と言われているんだから」

 「あんたのところではどうか知らないけれど」と付け足すと、驚いたことにアラナミヒコも「俺のところでもそうと言われている」と答えた。

「川のこの岩から下は神に守られていると聞いた」

「ならどうしてその上に座る気になれるの」

「神などクソ喰らえだ。そもそも岩は岩だ」

 アラナミヒコがどう返すか見たくて、わざと「ホヅカサヲはこんなことはしないのに」、と呟いた。アラナミヒコが釣り糸を垂らしたまま、「ほう、こんなこと?」と言う。

「こんな、子供みたいなこと」

「と言うと何か、神様にちゃんとおててを合わせるのが大人だと?」

「少なくともこんなやんちゃとは違うよ」

「ハイハイ、ツクヤメちゃんは大人しくて神様にぺこぺこするような男がいいのね。でもそんなことを言って試したところで俺がお前を嫌いになるわけでもないから哀れなことよ」

 考えてもみなかった言葉に、ツクヤメは目をまん丸に見開いた。けれど次には心の内が見透かされていることに気付いて、頬を熱くした。アラナミヒコは変わらず釣り糸の先だけを見つめている。勝てそうにはない。

 ツクヤメはまっすぐアラナミヒコの方へ向かった。アラナミヒコが「おい、あんまりばちゃばちゃやると魚が逃げる」と言ったが、気にせず隣まで歩み寄る。

 川から上がり、アラナミヒコの左隣に寄りかかった。自ずと尻が岩に乗る。アラナミヒコが横目で見、「神様の岩ではなかったのか?」と笑う。

「何ともない」

「だろ?」

 静かだった。川の流れの音と自らの胸の音だけが聞こえる。蝉の音もいつの間にか止んでいた。渡る風も涼しい。アラナミヒコの体の左に触れる己の右肩だけが熱を持っているように感じる。ふと目を落とせば、アラナミヒコの左手首にツクヤメがこの前まで首飾りにしていた魔除けが巻かれている。細く息を吐いた。

 目蓋を下ろした。それでも目蓋の向こう側の明るさが見えていた。

 もし真に神がおわすならば我が声を聞きたまえ、この時を止めて永久のものにしたまえ。

「――俺も、神がいるのだと思っていた」

 やがてアラナミヒコの声が聞こえてきたので、ツクヤメは目を開けた。アラナミヒコはやはりまっすぐ竿の先を見ていた。

「川の上、山の中には恐ろしい鬼が住んでいて、人を喰らうと云う。でも、川の半ばに神がいて、この神がその住まいより下に鬼が下りていかないよう見ていてくださるんだと」

 同じ川に住む神の話をしているのに、ツクヤメの住む山の村で語り継がれた話とは違う話だ。

「だけど、川の神は気難しくて時々川を暴れさせる。それでも人々が神を祭り拝んでいる間は人々を守ってくださる――と、俺は聞いていた」

 そこまで言った時、アラナミヒコは眉と眉の間に皺を寄せた。

「俺のお袋は川の神にも海の神にも日ごと夜ごとに手を合わす人だった。そんなお袋に育てられたから、俺もお袋が拝んでくれているから大きな病や大きな怪我に見舞われることなく大きくなったような気がしていた」

 「だけど神は裏切った」、と吐き捨てる。その言葉は強くツクヤメも恐ろしくなるほどだ。己が怒られているわけでもないのに、アラナミヒコの見せる怒りに背が震える。

「この前――お前と初めて会った日の幾日か前、すごい嵐が来ただろ?」

 ツクヤメは頷いた。嵐が過ぎ去ったあと川の水が溢れ、幾日も洗い物ができなくて、ようやく川に近付けるようになった日に、アラナミヒコと出会ったのだ。

「その嵐の時、この川が大暴れしたんだ。岸を超えて溢れて、このままでは村が水浸しになる、作った畑が水に浸かると、うちの村では大急ぎで川の傍に土を盛ることにした。ところが土を盛っているさなかに、いきなり、川の水のかさが大人の男の背丈を越えたんだ」

 いつか聞いた話を思い出した。ツクヤメの村でも、堤ができる前はそういうことが幾度も起こったのだ。川の神は川の中へ幾人も連れ去った。

 まさか、と思ってツクヤメが己の口元を手で覆うと、アラナミヒコは一度唇を引き結んだ。それから、抑えた声で言った。

「川の水は瞬きするよりも速くみんなを呑み込んだ。俺の親父も、兄貴も、あっと言う間に、俺の目の前で――ずっと先、海まで、流れていってしまった」

 アラナミヒコの村に堤はないのだ。ツクヤメの村を通り過ぎていった川の水は他の村を襲って食い散らかしたのだ。

「親父の亡き骸はすぐ浜に上がった。でも兄貴はなかなか見つからなくて」

 そう語るアラナミヒコの声もまた震え出す。抑えていたはずがまた溢れるように乱れ始める。

「お袋は気がふれてしまったんだな。捜しに行くんだと言って、俺や村の他の男たちが止めるのも聞かずにあの嵐の中川に入った。次の日に浜に上がった。でも、お袋は兄貴を見つけられたのかもしれない。同じ日に、同じ浜で――お袋が見つかったのからそう遠くないところで、兄貴も見つかったのだから……」

 ツクヤメの父が亡き骸で帰ってきた日のことを思い出した。熊に襲われて死んだ父は血みどろで、縋りついて揺さぶり真に動かなくなってしまったのか確かめたいと思ったにもかかわらず、身動きできなかった。村の人々が森の墓に埋めている間も、ツクヤメはホヅカサヲに肩を抱かれて泣いていただけだった。

 後になって悔んだ。死んだ人には何もできない。育ててくれた恩を返したくても叶わない。すでに六年が過ぎたが、その思いはまだ拭いきれない。ただもう泣かなくなっただけだ。

 アラナミヒコも同じ思いを抱えているのだろうか。それも、一度に三人も――ツクヤメにはもう考えられない。

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