第二話
すぐさま頷きそうになった。話をするくらいなら何でもないと思ったし、話をしたいとも思った。村の外の村に惹かれたし、そうでなくとも話すことに飢えていた。
だが、ふと、思う。ツクヤメは洗い物を放り出してここまで来た身だ。ここにいることを村の皆に知られたくないし、洗い物もしなければならない。早く帰るべきではないか。
「ごめん……。話、したいけれど、わたし、帰らないと……。洗い物をしないといけないの、放り出してきてしまった」
打ち明けると、アラナミヒコは面白くなさそうに口を尖らせた。
「それなら、これはまた次に会った時に返す」
アラナミヒコの手の中で、耳飾りが輝く。どうして忘れていたのだろう。村の外のことに驚いたあまり頭から抜けたようだ。慌ててアラナミヒコに歩み寄る。
「そっ、それはだめっ! 返してよっ」
「いいだろ、別に。俺にとっては山の中に住んでいる知り合いなどお前しかいないんだし、このまま手ぶらで帰って村の奴らにそんな話をしたらそれこそ俺が物の怪にたぶらかされたんだと思われてしまうだろうが」
「たっ、たぶらか――」
耳まで赤くなる。そんなふしだらなことをしたつもりはない。アラナミヒコはそんなツクヤメを面白がって「おっ、また赤くなった」と意地悪く笑った。
「ふざけるのはやめてよっ! 返してっ!」
「そんなにお気に入りなのか。それならなおのこと――」
「許婚に貰ったものなの! それがないとわたしお嫁に行けなくなるかもしれないのっ!」
怒鳴り終えるとすぐ、アラナミヒコの顔色が変わった。少し寂しそうだ。
「なんだ、お前、これから嫁に行くのか」
「そうよ。次のお祭りが終わったら嫁ぐの」
「次の祭りというのはいつ?」
「次の月の話。次の望月の夜」
「それは、近いな」
言ってから、アラナミヒコはしばらくツクヤメの顔を眺めた。ツクヤメは居心地の悪いものを感じて、「何よ」とつっけんどんに言った。
「その許婚はどんな男なんだ?」
「あんたと違って大人で優しいひと」
「あっそう」
「何よその言い方。嘘ではないんだから。わたしでも嫁に貰ってくれると言うのよ」
「わたし『でも』?」、とアラナミヒコが首を傾げる。
「ひょっとして、なかなか嫁の貰い手がつかなかったんだ? 気が強いからか?」
腹の中を引っ掻き回されるような苛立ちを覚えた。「うるさいっ!」と怒鳴った。
「そんなわけないでしょう! そうではなくてっ、」
けれど口に出すのはためらわれた。それで今までずっと嫌な思いをしてきたのだ。しかし、アラナミヒコはどうせ村の外の人である。話が済めば会うこともないだろう。村の中で針の筵の上に座るのは辛いが、村の外で何を言われても構いはしないのだ。
「わたしが母なし子だからなのっ!」
ところが、アラナミヒコはいともたやすく「それだけか」、と言った。
「母親がいないくらいで」
それでも、ツクヤメは辛い道のりを辿ってきたのだ。村の人々の冷たい言葉が頭の中に甦る。お前のおっとうは遊び女に騙された、お前のおっかあはお前を捨てて消えたのだ、お前もいつかああなるに違いない――祖母までが息子を穢し狩りに出られない女の子だけを残して消えたツクヤメの母を罵った。ツクヤメは村の外に消えた女が産んだお荷物だ。
「わたしの母親はわたしを捨ててどこかへ消えてしまったの。きっとおっとうは騙されたんだ、わたしを押し付けられて、村の笑いものにされて……」
父の姿が浮かんだ。それでも、ツクヤメに優しかった。口数の少ない人だったが、母のないツクヤメが寂しくないよう、狩りの他はいつも寄り添ってくれた。ツクヤメが同じ年頃の子供たちにいじめられては庇ってあやしてくれた。今はもうない。ツクヤメが十の時、狩りのさなかに、熊にやられて死んでしまったのである。
「おっとうが死んでおっとうの兄様のところに引き取られたけど、婆様も伯父様伯母様も、みんなわたしのおっかあがわたしを捨てて村を出ていった話ばっかり……」
溢れてきた涙を、拳の背で拭った。こんな弱い姿を初めて会った人に見せるのは悔しいが、思い出すと耐え切れなかった。
「庇ってくれたのは従兄のホヅカサヲだけだった。ホヅカサヲはそれでも、わたしなどでもいいと言ってくれた。前のお嫁さんが死んでもう四年になるから、次にわたしを娶ってくれると……」
そこまで語ると、腕を伸ばして「耳飾りを返して」と訴えた。
「それは形見の品なの。ホヅカサヲが初めてのお嫁さんに贈った、ホヅカサヲの思い出の品なの。それをわざわざわたしにくれたんだ、だからわたしが守っていかないと」
涙でかすんだ向こう側のアラナミヒコは笑みを消し、眉尻を垂れ、ツクヤメを見つめて黙っていた。ツクヤメは声の震えを抑えて「なに」と強く出た。侮られたくなかった。泣き止まなければならない。そして耳飾りを取り戻し、村へ帰るのだ。何事もなかった顔で着物を洗って干さなければならない。そうでなければ村にいられない。
「早く返してよ」
アラナミヒコは耳飾りを握っている手を持ち上げた。ツクヤメは受け取るためにもう一足アラナミヒコへ近付いた。
次の時、アラナミヒコの両腕が伸びた。そしてツクヤメの体を包むようにツクヤメの背へ回った。
抱き締められた。
頬が熱くなった。触れ合う自らの頬とアラナミヒコの首筋の肌をとても熱く感じた。かすかに辛い香りがする。
初めてのことだった。
「それでは息が詰まってしまわないか? 辛いことばかりではないのか?」
大きな手が、頭の後ろを撫でている。死んだ父を思い出す。胸の音は速くなったのになぜか気は安らぐ。
「そんなけったいな村、お前も出ていってしまえ」
蝉の音と川の音と彼の声が混ざって、耳に心地良い。髪をわずかに揺らす風も梢が作る陰も何もかもが優しい。
「何が優しい奴だよ、前の嫁が死んで次の嫁が決まらないからお前で間に合わせようとしているだけだろ。耳飾りをなくしたくらいで、しかも前の嫁のものを持たせておきながら、取り止めにするかもしれないような奴」
肩の力を抜いて目を細めた。このまま眠ってしまいたい気持ちに駆られる。そんなことをしている場合ではないはずなのにずっとこのままでいたいと思わされてしまう。
「それでも……いいんだもの……。他に貰い手がないし……。それに、ずっと、独り身は……。石女は山に捨てられる……女は男を産むためにいるのに」
「何なんだ、そんな酷い村初めて聞いたぞ」
アラナミヒコの腕にこもる力が強くなる。
「俺の村では女は尊いものだ。女は、男が海に出ている間家を守ってくれるし、よその村との商いのやり繰りもしてくれるし、何より女が子供を産んでくれるからこそ村が続くんだぞ。俺の村ではなぁ、良い魚をたくさん獲ってきて嫁にたらふく食わせることのできる男こそ良い男なんだ」
「そんな村に女として産まれたら逃げたくもなるわ」と、アラナミヒコが吐き捨てる。ツクヤメの母が庇われたのは初めてのことだった。
「お前も逃げろ。そんな村にいることはない」
そう言ってもらえるのも嬉しいことだ。それだけで胸がいっぱいで涙が溢れそうになる。できることならどれだけ良いことか。
「でも、どこにも行くあてがない。村の外には何があるのかまったく知らないの。村の外にも人が住んでいることも今日知ったばかりで……。村の外には、川の続きがあることしか、わたしには分からない」
すると体を離された。体が浮いてしまいそうな気がして、影が胸をかすめるのを感じたが、次にアラナミヒコの真面目な顔を見た時には、
「俺の村に来い」
喉が詰まるほど胸が満たされた。
「俺が世話をしてやる。俺の嫁になれよ」
言葉が出なかった。人はこんな時、ただただ息をしてそのひとを見つめることしかできないのだと、ツクヤメは初めて知った。
「俺ならお前にたらふく魚を食わせてやれるから。海に出ている間は留守にしないとならないが、そのほかでお前に嫌な思いをさせることはない。お袋が死んでいない分忙しいかもしれないけど、すぐ近くに姉貴も妹も住んでいるし、村中の女が世話焼き婆だから、きっと助けてくれる」
「お前がよその村の出だからと嫌がる奴もいない」と言い、アラナミヒコは大きな手で再びツクヤメの髪を撫で始めた。
「丘の上の村と商いのやり取りもあるし、浜によその村の者が流れ着くこともしょっちゅうだからな。言葉が通じないのが流れ着くこともある。そういう奴らはよその器の作り方や家の組み方を知っているからもてなすんだ。お前も、山の食べ物のことや、山の木や草のことや、海の村の奴らが知らないことを教えてくれたら、きっと喜ばれる」
行ってみたいと思った。今からこのひとについて行って他の村を見てみたい。ハマとか、ウミとか、知らないところにあるものをこの目で確かめたい。山での苦しい暮らしを捨てて新しい暮らしを始めたい。
だが、村の掟は村を出て山に入った者が再び村に入ることを許さない。戻れない――それは恐ろしい。
アラナミヒコの胸に額を押し付けた。アラナミヒコが「何だよ」と笑った。そうやって笑われると何にも気に病むことはないような気がしてくるのに、足は動かない。
「アラナミヒコはそれで困らないの? そんなにいきなり決めてしまって」
「いや、まったく。俺ももう十七だし、妹にも子が出来たし、そろそろ誰かに来てもらわないとと思っていたところだ。まあ、強いて言うなら、俺に恋焦がれる村の娘たちは嘆き悲しむかもな」
思わず「何を言っているの」と笑った。このひととともにいればずっとこんな感じで楽しいのではないかと思えた。
それでも、幾年もの間庇ってくれていたのは、ホヅカサヲの方なのだ。そんなにたやすく裏切ることはできない。
「すごく嬉しい」
「そうか、では――」
「でも、今すぐ決めてしまうのは……いろいろ々片付けもしないといけないし……もともとは一月後に嫁ぐはずだったから」
そう告げて顔を上げると、アラナミヒコはあからさまに悲しそうな顔をして、「そうかよ」と小声で言った。
「それはまあ、そうだ。二人目と言っても、お前を娶るはずだった男がいるんだものな。これまで庇ってくれていたんだろう? それなりに気があったということだろうから、いきなり消えたら悲しむ。別れ話ぐらいしてもいい」
「優しいんだね……」
「嫁の前では心の広いところも見せないと。俺の心は海より広いんだ、覚えておいてくれ」
「何を言っているの」
言ったら、アラナミヒコが笑ってまた頭を撫でてきた。
「今の顔。今の笑った顔、すごくいい。俺のところに来たら、ずっとそんな風に笑ってられるようにしてやるからな」
どうしてだろう。今の今までこんなことなどなかったのに、今はその言葉一つだけでなぜか胸がいっぱいになって色んなものが目から涙とともに溢れてきそうになる。
「耳飾りは返す。その、ホヅカサヲ、だったか、許婚に返してやれ」
ツクヤメの頭から手を離したアラナミヒコは、次こそ手に握っていた耳飾りを差し出した。ツクヤメが手を伸ばすと、手の平に置いた。
「代わりに何か、貸してくれ」
「何か? 何を?」
「何でもいい。ただ、また会えるように」
「お前が山の鬼ではない証に」、と言う。
「俺からは、これを」
そう言うと、アラナミヒコは帯に吊るしていた朱の紐を解いた。よく見てみると、朱だけでなく、黄や緑の糸も編み込まれている綾紐だ。
「死んだお袋が髪結いに使っていた紐で、お守り代わりに結んで歩いていたんだが、お前にやる」
ツクヤメは頷くと、首飾りを外してアラナミヒコに差し出した。藍や紅で染めた木の玉を連ねて作られている魔除けの首飾りだ。
胸がまた、一つ弾んだ。これもまた、夫婦の契りを交わすための一つの呪いなのだ。ホヅカサヲに耳飾りを貰った時より胸が熱くなる。これだけで泣いてしまいそうだ。
アラナミヒコの差し出した紐をつかんだ。ツクヤメの首飾りも受け取られた。これで契りは交わされた。あとは杯と枕を交わせば夫婦だ。
「今は村に戻る。村の外の男とやり取りしていたと知られたら、お前の立場が悪くなるだろ? でも、また近いうちに会おうな」
アラナミヒコに言われて、ツクヤメは深く考えずに頷いた。
「そうだな……、次の朔の夜が明けた昼、またここに来る」
ここ、と言われてようやく恐れを思い出して胸が冷えたが、
「お前も、来てくれるよな……?」
獣も神も、ない。アラナミヒコに会うだけだ。それだけのためなら障りはないはずだ。