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第一話

 村はいつも川とともにある。菜や木の実を茹でるのも川の水だし、盛った器を洗うのも川の水である。布をさらすもこの川で、衣を洗うのもこの川だ。産まれた赤子の産湯となるのも川の水だし、黄泉へ発った者の体を洗う水も川から汲み取る。

 村の長たちが言うには、昔々は乱れた川の水が村へ押し入ることもあったそうだ。家が流され、女子供が水に呑まれたこともあったらしい。それでも人々は川を離れようとしなかった。幾年も知恵を絞った末、川と村の境に柱と梁を組み、土を盛り、堤を造り上げた。ツクヤメが生まれてからこちらは、川がその堤を越えて村を濡らすことはなかった。

 とは言え、川の乱れることがなくなったわけではない。幾日か前にこの辺りを襲った嵐で、川の水かさが増えた。いつもの岸を超えて水が溢れた。堤ができる前の話を聞かされて育った人々は、川に近寄らず家にこもって過ごした。ツクヤメも同じだ。村の男たちが川の様を確かめ、鎮まったことを伝えにくるまで、祖母と従兄と家の中にいた。

 川が落ち着いたことを知り、ツクヤメは着物を洗いに出た。溜まった衣をすべて洗って干さねばならない。これはツクヤメの仕事だ。片付かなければ祖母の怒りを買う。ツクヤメもさすがに十六で、今でも祖母の怒りを恐ろしいとは思っていないが、できるだけ穏やかに過ごしたかった。

 着物を盛った籠を二つの腕で抱えて、川に向かった。堤に開いた門を抜けると、山盛りの衣を洗う女たちがすでに岸辺を埋めていた。それを見たツクヤメはたじろいだが、必ず洗わねばならぬ。お喋りに花を咲かせる女たちの間、わずかな隙間を見つけて、恐々しゃがみ込んだ。右隣の女はツクヤメに気付いたが、何も言わずにお喋りへ戻った。

 気付かれぬよう密かに目をやった。そこにいた女二人は、いずれも背中に赤子を負っていた。しかし二人ともツクヤメと変わらない年頃だ。

 思わずうつむいた。その弾みで肩より少し短いくらいの髪が前へ垂れ、左目を覆った。耳にかけようとすると手に硬いものがぶつかり、弾みでそれが水の中に落ちた。まずい。耳飾りだ。従兄から貰った夫婦になる誓いの証の耳飾りが川へ落ちてしまった。

 持っていた着物を籠の上に放って、大きめの石に右手を置き、左手を伸ばした。だが、耳飾りは軽く押し流されてしまう。水かさは引いても流れはいつもより少し速かった。

「待って!」

 川の中に足を突っ込んだ。川底の石や砂に足を取られながらも、川の中を走った。水飛沫が飛び散ってツクヤメの着物の裾を濡らした。

 碧い石や銀の枠が日の光で輝く。そのため見失うことはない。けれどどんどん流されている。川の中を転がり、石の間を抜け、ツクヤメが慣れぬ川の中を駆けるより速く先へ流れていく。早く捕まえて戻らねばならないというのに、ツクヤメを置いて進み続ける。

 やがて岸辺は遠くなり、茂る木々の陰が増してきた。梢と梢の狭間から漏れる光はなおも耳飾りを輝かせたが、辺りが様変わりしたのに気付いて、胸に影が落ちるのを感じた。焦りが生まれる。早く拾って戻らないと良くないことが起こる気がする。しかしそんなツクヤメの思いも知らず耳飾りはさらに進んだ。

 木々は濃くなったが、岩は小さくなった。川底はむしろ見えやすくなってきた。だがそれは引っ掛かるところが減り耳飾りが流れやすくなったということでもある。

 ツクヤメの焦りが膨らみ切った時、にわかに目の前が晴れた。そして右手に大きな岩が現れた。

 ツクヤメは息を呑んだ。

 岸辺の大きな岩に、縄が巻かれていた。

 縄の目に見覚えがある。村の真ん中の社や村の外れの祠に吊り下げられるしめ縄と同じ目だ。それは神の居所を示す。

 ツクヤメはこの岩を知っていた。川の神の依り代だ。初めて見るがそうと分かる徴を聞いていたので判る。この岩には祭りの夜に神が宿るのだ。この川の水を治める神である。村に恵みをもたらし、時として溢れ乱れる川の流れを司る神だ。

 しまった。いつの間にここまで来たのだろう。ここには祭りの夜に選ばれた者が供え物を運ぶほかで来てはいけない習わしになっていた。神に障ってはならないからである。神の眠りを妨げれば、神の怒りに触れ、川が乱れると聞いた。もしもそうなったら、村から若い生娘を選んで神に捧げねばならない。堤ができる前は幾人もの娘が屠られたと云う。

 神の怒りに触れたらどうしよう――背筋が震えた。堤を越えた水が村を呑み込んでいったら、人々が耳飾りのように流されていったら、いったいどうしたらいいだろう。そんなことになったら、若い娘を選んで、贄に出さねばならぬ。子をまだ産んでいない女といったら、ツクヤメも当てはまる。否、ツクヤメが選ばれるに違いない。怒りに触れたのはツクヤメだ。その上、ツクヤメがいなくなっても、村は痛くも痒くもない。人々は何のためらいもなくツクヤメを推すだろう。

 神の怒りも恐ろしかったが、村の人々も恐ろしい。もしもツクヤメがここに来たことを知ったら、村の人々は怒り狂うだろう。嫁ぐ話もなかったことになる。祖母が嫌がるからだ。そんな恐ろしい娘を、一人目の息子のまた一人目の息子である愛しい孫の嫁に欲しいと思うだろうか。そうでなくとも疎まれているのだ。村を出て山に行くしかない。そして獣に食われる日を待つのだ。

 耳飾りは諦めようと思った。従兄には申し訳ない。けれどそれくらいなら謝れば許してくれるだろう。耳飾りをなくして呆れられるより、この岩を超えて耳飾りを探しに行ったことを知れてしまう方が、もっと、ずっと、恐ろしいことになる。

 一つ溜息をついてから、川上へ戻ろうとした、その時だった。

 川下の方から、水を蹴る音がする。何か大きな生き物が、川を上ってこちらに向かってきている。

 狼かもしれないと思った。人の匂いを嗅ぎつけ、食べに来たのかもしれない。逃げなければならない。けれど逃げれば逃げるほど獣は追ってくるのではなかろうか。弓のできる村の男は周りに一人もいない――否、いたらいたでツクヤメがここにいると知られてしまって困る。

 体が動かない。

 やがて音だけでなく影も見えてきた。その姿を目で捉えて、ツクヤメは手が震え出すのを感じた。

 人の形をしている。

 まさか、川の神が人の形をとってやって来たのかもしれない。ツクヤメが神の眠りを乱したから――匂いでツクヤメが若い生娘であることを嗅ぎ分けて――食べに来たのかもしれない。

 恐ろしかったが、そうであればなおのこと、逃げてはいけない気がした。ツクヤメがここで贄になれば川は乱れずに済む。村の掟を破り村に災いを招いたということを知られなくて済む。山に入ることも、死ぬまで祖母や従兄の目を気にして過ごすこともなくなる。固く目を閉じる。拳を握り締める。心の中で唱える。召さまほしければ召せ。

 音が目の前で止まった。いよいよだ。そう思ったのに、

「おい」

 声をかけられた。若い男の声だった。まさか神が人のように語りかけてくるとは思わなかった。

「おい、そこの。こんなところで何をしているんだ」

 恐る恐る目を開け、顔を上げて前を見た。神を間近で見るなど畏れ多いと思ったが、目の前におわすので仕方がない。

 しかしその姿を見た時、ツクヤメは胸が高鳴るのを覚えた。

 そこに立っていたのは、ツクヤメと同じくらいの年の若者だった。背は高く、上の衣から出ている腕や膝までの筒袴から出ている足はたくましい肉を纏っている。肌は日に焼けて浅黒く、髪も焼けて毛先が明るくなっていた。これが神の真の姿か、それともツクヤメの前に出るため人の形をあえてとったのかは知らないが、なかなか美しい男だ。こんな男に食われるのならば諦めもつきそうだ。

「なんだ、聞こえないのか? それとも言葉が分からないのか?」

 言われて、ツクヤメははっとした。神に見惚れて問い掛けに答えぬとは罰当たりなことである。ひざまずいた方が良いのかと考えたが、ここは川の中だ。とりあえず頭を下げ、顔を見ないように気をつけながら答えた。

「ごめんなさいっ! わたしはクマスサビヲの息子タケタカヲの娘ツクヤメでございます、衣を洗っていたら耳飾りを片方落としてしまいまして、追っているうちにここまで参ったのでございます」

 男は慌てて「ちょっと、何だよ」と言った。

「俺、そんな偉い人でもないから。見たところ年も同じくらいだし、気軽に話したら?」

 「えっ!?」と叫んで顔を上げてしまった。男は眉根を寄せ、困った顔でツクヤメを見ていた。

「とりあえず、これ、お前のものなんだな。さっきそこで拾ったんだ」

 言いながら右手を持ち上げる。その指には、ツクヤメの落とした耳飾りが摘ままれていた。ツクヤメは「あっ」と呟いて手を伸ばした。けれど男はわざと手を上に持ち上げた。背の低いツクヤメでは届かない。「どうして返してくれないの」となじると、「俺にもいろいろあるから」と返された。

「誰の息子の誰の娘の誰と言ったか? その何とかというのは、お前の村では何かこう、村長だか何かをやっているのか?」

 神なのに村の者の名前も知らぬとは、いったいどういうことか。

「あっ、あんた川の神様ではないの!?」

 声が裏返った。すると男が、「俺が神様!?」と言ってから腹を抱えて大笑いし出した。顔が熱くなるのを感じた。なんとただ人なのだ。

「はー面白い。神様ね。どれだけ世の中を知らないのか、いったいどんな村で育てばこんな娘になるのか――ん、なんだ、泣くなよ」

「な……っ、泣いてなど……っ」

 目の前が霞んだような気がして、悔しさのあまり唇を噛み締める。おかげで言葉も切れてしまった。若者が目を逸らしながら「悪かった」と呟く。

「俺はシラヅの村のアラセヒコの息子アラナミヒコという者だ。年は数えで十七、十の時から漁を生業にしている」

 しかしそう聞くと、やはり、神と出会ったように思った。

「しらづのむら……?」

 若者――アラナミヒコが「ん?」、と首を傾げた。

「どういうこと……? あんた、どこから来たの」

「だから、シラヅのむ――」

「『シラヅ』の村? 何、それ。どこにあるの」

 アラナミヒコが川下の方を指した。

「え、この川の末、海辺の村だけど……」

 ツクヤメは今まで、『村』とは、『家』より大きな人々の集まりのことを言うのだと思っていた。否、その考えは間違っていないのかもしれない。ただ、その大きな集まりが山の下にもあったということだ。山の外にも人が住んでいて、他の村を作って暮らしている――考えたこともなかった。

 黙りこくったツクヤメの顔をアラナミヒコが覗き込んだ。

「どうした?」

「まさか……村の外に他の村があるなど……知らなくて……」

 次はアラナミヒコが驚いた顔をした。

「村の外の人に会ったことがないのか?」

 ツクヤメは黙って頷いた。

「今までに一度も?」

 再び頷いた。

「村の外に出――ることは、女だからそんなにないかもしれないけれど……、村に他の村の人が訪ねてくることもないのか……?」

 三度頷いた。

「そんなことがあるのか? 暮らしはそれでも成り立つのか?」

「成り立っているよ。それどころか、村の外に住んでいて人の言葉を話すものなど、神様か物の怪くらいだと……」

 しばし考えた様を見せ、「だから俺を神様だと言ったのか」と呟く。

「物の怪だと思われるよりは良かったと思うべきか」

 先ほどのことを思い出してうつむいたツクヤメに、アラナミヒコが「悪かった」と言って笑った。

「言われてみれば、俺もお前のことを笑えない」

 顔を上げてアラナミヒコを見ると、向こうもまっすぐツクヤメを見ていた。

「俺も、川の源には鬼がいると聞いてここまで来た」

 次はツクヤメがアラナミヒコの顔を覗き込んだ。そんな話は聞いたことがなかった。確かに、川の源には、大きな獣が棲んでいる。そのため女子供は行ってはならないことになっていたが、男たちは狩りに行くことがある。鬼のような、ただ人にはどうにもしがたいものが棲んでいるというのは初めて聞いた。

「さっき言った『俺にもいろいろある』というのはそのことだ」

 アラナミヒコが改まった顔で言う。

「もしお前が川上の村から来たなら、山に何がいるのか教えてほしくて……。話を聞かせてほしい」

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