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第12話 港町の灯り

アンジェが港の仮設事務所を訪れた頃には、外はすっかり夕暮れだった。

港には橙色の光が落ち、停泊中の船の帆柱が長い影を作っている。

事務所の中では、まだ灯りがいくつも点いていた。


「……まだ働いてる」


呆れ半分で呟きながら扉を開ける。

すると、中ではちょうど打ち合わせが終わったところだった。


「では、その方向で再度検討いたします」


恰幅の良い中年男が深々と頭を下げる。

向かいに座るエドワードも静かに頷いた。


「ええ。よろしくお願いします」


男はそこで初めてアンジェに気づき、ぺこりと会釈して部屋を出て行く。

扉が閉まると、アンジェは首を傾げた。


「誰です? あの人」


「ローザンヌ男爵です」


エドワードは疲れたように肩を回した。


「倉庫街外縁部の利権を持っています」


「あー……」


アンジェはなんとなく察した。

つまり、今回の改革で真っ先に調整が必要になる相手だ。


「なんか、貴族にしては珍しく腰の低そうな人でしたね」


するとエドワードは、微妙な顔をした。


「一見、協力的なのです」


「一見?」


「ええ。話は聞く。反対もしない。ですが――」


そこで彼は机上の書類へ視線を落とした。


「のらりくらりと論点をずらし、一部の利権だけは絶対に手放さない」


「あー……典型的な貴族タイプ」


「私は本来人の裏を読むのが苦手なのです」


エドワードは珍しく重いため息をついた。


「そんなんでよく貴族やってますね」


アンジェは思わず吹き出しかける。

エドワードがなんともない顔で言う。


「ええまあ。それで王太子を廃嫡されましたから」


なんという自虐。

アンジェは笑うに笑えず、微妙な表情でエドワードの端正な顔を見返した。

そしてふと気づいた。

エドワードの目の下に薄く隈ができている。

机の端には未処理の書類が山積みだった。


「……ちゃんと休んでます?」


「もちろん」


即答。

だが妙に視線が泳いだ。

アンジェはじとっと目を細める。


「じゃあ食事は?」


「…………」


沈黙。

分かりやすすぎた。


「食べてないんですね?」


「いえ、その、昼は――」


「何を?」


「……茶を」


「それ食事じゃないです」


アンジェは机をばんっと叩いた。


「はい終了! 今日はもうここまでです!」


「え?」


「行きますよ!」


「いえ、まだ資料整理が――」


「倒れたら元も子もないでしょうが!」


半ば無理やり、アンジェはエドワードを立たせた。

周囲の公爵家の部下たちがぎょっとした顔をしている。

だがアンジェは気にしない。


「公爵閣下、お食事の時間です!」


「子供扱いしないでください……」


「子供のほうがちゃんと食べます!」


結局。

エドワードは抵抗むなしく、港町の食堂へ連行された。



そこは港湾労働者や船員たちが集まる下町の食堂だった。

煮込みの匂い。

焼き魚の煙。

酒と笑い声。

貴族が来るような場所ではない。

店へ入った瞬間、空気が止まった。


「……え?」


「あれ、公爵閣下……?」


ざわり、と周囲が距離を取る。

エドワード本人も少し居心地悪そうだった。


「……やはり、店を変えた方が」


「ダメです」


アンジェは即答した。


「今日はちゃんと食べてもらいます」


そして勝手に注文を始める。


「魚介煮込み二つ! あと港風香草焼き!」


「お嬢ちゃん、あれ癖強いぞ?」


店主が苦笑する。


「この人好き嫌いなさそうだから平気です!」


「勝手に決めないでください……」


しばらくして運ばれてきた料理は、かなり独特だった。

香草と魚醤の匂いが強い。

イーゼルト貴族料理とはまるで違う。

アンジェは得意げに胸を張った。


「港町名物です!」


「……なるほど」


エドワードは恐る恐る口へ運ぶ。

周囲が妙に静かだった。

皆、遠巻きに見ている。

そして。

数秒後。

エドワードは小さく目を見開いた。


「……美味しい」


その一言で、空気が変わった。


「だろ!?」

「そりゃ港の魚は新鮮だからな!」

「そっちの香草焼きも食ってみな!」


一気に周囲から声が飛ぶ。

店内に笑いが広がった。

エドワードは少し戸惑いながらも、小さく頭を下げる。


「……ありがとうございます」


その姿に、さらに空気が和らぐ。

アンジェはその様子を見て、ふっと笑った。


――やっぱり。

この人、ちゃんと向き合えば嫌われる人じゃない。


その時だった。

食堂の入口で、ぴたりと動きを止めた人物がいた。

淡い茶色の外套。

控えめな帽子。

だがアンジェはすぐ気づく。


「……サラ?」


リンデン伯爵邸で働く侍女のサラだった。

サラは庶民の食堂で食事をしているエドワードとアンジェを見てさっと顔をこわばらせた。見つめる。


次の瞬間、彼女は踵を返した。


「っ、サラ!」


アンジェは反射的に追いかけていた。

外へ出ると、夕暮れの港風が吹き抜ける。

サラは少し離れた路地で立ち止まっていた。


「……お嬢様」


サラはアンジェに気付くと、ぽつりと呟いた。

アンジェはサラがかつて貴族だったことを思い出した。

本来お嬢様と呼ばれるのは彼女の方だったはず。

商人の娘である自分ではなく。


「ごめんなさい、あそこで食べるつもりだったのでしょう?」


アンジェは少し迷ってから声をかけた。


「……あの店、とてもおいしいものね。サラもよく行くの?」


長い沈黙。

やがてサラは、遠慮がちに口を開いた。



「はい、家が近いんです」


静かな声。


「今は港の街に家を借りて、通いで勤めさせていただいてるんです」


 

夕陽が、彼女の横顔を赤く染める。

束の間の沈黙のあと、サラはぽつりと語り出した。


「昔は一晩のご飯がいくらするのかなんて、知りませんでした。」


外套を握る手がぎゅっと強くなる。


「舞踏会。茶会。夜会。きらびやかなドレス。磨かれた銀食器」


サラは遠くを見るように呟く。


「そのひとつひとつにお金や手間や、人々の努力があるなんて、何も知らずに幸せに毎日を過ごしていました」


アンジェは黙って聞いていた。


「今が不幸せなわけじゃない、でもふと今が夢なのか、過去が夢なのかわからなくなるんです」


そこで彼女は笑おうとして失敗したように、暗い目で下を向いた。

アンジェは返す言葉を失う。

サラはエドワードを憎んでいる。

だが同時に。

完全には憎みきれないのだ。


「でも」


サラは静かに続けた。


「さっき公爵閣下が食べていた料理、昔はあの食堂でも食べられなかったんです」


「え?」


「あの料理に使われる魚と香辛料、手に入らなかったんですよ」


サラは港の方を見る。


「この十年で、港の流れも変わりました。」


アンジェは目を瞬く。


「……それって」


「ええ。公爵閣下の港湾整備のおかげです」


その声音は複雑だった。

誇らしさ。

悔しさ。

怒り。

諦め。

様々な感情が混ざっている。


「……感情と理性を保つのって、難しいです」


サラは小さく息を吐いた。


「悪人なら、もっと簡単だったのに」


そのまま彼女は振り返る。


「……ごめんなさい。忘れてください」


そして悩めるような顔のまま、夕暮れの街へ消えていった。

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