Case1 二者択一 ①
俺の名前は春秋。高校二年生だ。
季節は春。
満開だった桜はもうほとんど散ってしまって、駅へ向かう道には薄桃色の花びらが雨のように残っている。新学期の朝の空気はまだ少し冷たく、制服の袖口をくすぐる風に、冬の名残がわずかに混じっていた。
電車がレールを軋ませながら駅に滑り込む。扉が開くと同時に、人の気配と柔軟剤の匂い、誰かの香水、缶コーヒーの甘い香りが一気に流れ込んでくる。
俺は吊り革につかまり、ぼんやり窓の外を眺めた。
次の駅で扉が開く。
「春秋、おはよう」
「おー、鉄平。おはよー」
いつもの声。
鉄平は、いつも一つ先の駅から乗ってくる。
少し癖のある髪をかき上げながら隣に並び、当たり前みたいに笑う。こうやって並ぶのも、すっかり馴染んだ。
春。新生活の季節。
車内の顔ぶれは少しだけ変わっていて、新しい制服、新しい鞄、不安そうな表情。そんな空気の中で、見慣れた友人がいるだけで妙に安心した。
その次の駅で――ふと、視線が引き寄せられた。
ひとりの女の子が乗ってくる。
黒髪。肩より少し長い、まっすぐな髪が揺れるたび、光を柔らかく反射していた。身長は160センチくらい。派手さはないのに、妙に目を惹く。清楚という言葉が似合う、静かな存在感。
(……うちの制服だよな)
胸のバッジの色は同じ学年。
なのに見覚えがない。
「何? あの子気になる?」
鉄平が肘で軽くつついてくる。
「バカ言え、たまたま見てただけだよ――って」
言いかけて、喉が詰まった。
彼女の背後。
スーツ姿の男が、不自然な距離で立っている。
混雑を理由にしているようで、明らかに違う。
視線が合う。鉄平も同じものを見ていた。
――痴漢だ。
車輪の音が、急に遠くなる。
心臓が一拍、遅れて強く鳴った。
(どうする)
▶︎助ける
見ない振り
「鉄平。二人で止めるぞ」
「おう。次の駅でドア開く。その前に決める」
短い会話。
それだけで、もう覚悟は決まっていた。
電車が減速する。
ブレーキ音が金属を擦るように響き、車内がわずかに前へ揺れた。
「すいません。次の駅で降りてもらえますか」
男が振り向く。
「なんだお前ら!?」
「証拠写真あるから。言い訳みっともないよ」
実際には撮ってない。でも勢いで言った。男の顔色が変わる。
扉が開くと同時に、俺たちは男の腕を掴んだ。罵声が飛ぶ。ネクタイが乱れる。周囲のざわめき。
「ふざけんな!会社クビになるだろ!」
(だったらやるなよ。馬鹿なんじゃねえの)
怒りで耳が熱い。
男をホームへ引きずり出す。革靴が床を擦る音がやけに大きかった。
彼女も、少し遅れて降りてくる。
駅員におっさんを引き渡す
▶︎彼女に付いてあげる
「春秋、俺は駅員呼んでくる。お前、彼女についてやれ」
「了解」
鉄平はすぐに走り去った。
女の子は肩を小さく震わせていた。顔色が悪い。
「……大丈夫?」
「……うん。なんとか」
声はかすれている。
まだ怖さが抜けきっていないのが分かる。
春の朝なのに、ホームに吹く風は少し冷たかった。
「震え、落ち着いた。ありがと」
小さく笑おうとして、うまく笑えていない。
「朝の電車、怖かったら一緒の車両乗ろうよ。俺と鉄平、二人いるしさ。ボディーガード代わりに」
冗談半分で言うと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「……うん。考えとく。また明日ね」
その言葉が、不思議と耳に残った。
結局、痴漢騒ぎで全員遅刻。
教室に着いたときには、もう朝のホームルームが始まっていた。
⸻
♢
「聞いたよー、痴漢撃退したんだって? このヒーローども」
「うるせーよ、夏海」
ボブカットで活発な印象の少女――夏海は、ニヤニヤしながら机に肘をつく。
中学からの腐れ縁。
俺と鉄平、そして夏海はボードゲーム部所属だ。とはいえ部員は三人だけ。活動はゆるく、オセロ大会に出ても記念参加みたいなもの。
「はいはい、仲良しだこと」
鉄平が手をひらひらさせる。
「春秋、今日部活来るでしょ? 今日は負けないよ」
▶︎「もちろんだ!」
「今日はサボって帰ろうかな」
即答すると、夏海は満足そうに笑った。
……実際、仲はいい。
最近は、目が合うと軽口を叩き合って、少し照れたような空気になることも増えた。
そんな中――
「遅れたけど、転校生の紹介だ」
担任の声で教室が静まる。
ドアが開く。
そこに立っていたのは――
朝、電車で助けたあの少女だった。
「よろしくお願いします」
静かな声が教室に落ちる。
名前は、千冬。
彼女は俺を見て、ふっと笑った。
「短い別れだったね」
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねる。
▶︎「良かった笑えて」
「……そうだね」
言葉を返すと、千冬は目をぱちくりさせて、少し嬉しそうに笑った。
その一方で――
夏海が鉄平越しに「むむむっ!?」と分かりやすく反応していることに、俺はまったく気づいていなかった。
♢
その後、俺は千冬の通学を気にかけるようになった。
朝の電車は相変わらず混んでいて、扉が閉まるたびに車内の空気が押し潰される。柔軟剤の匂いと、誰かの整髪料、ブレーキの焦げたような金属臭が入り混じって、息苦しい。
電車が大きく揺れた瞬間、隣にいた千冬の肩がぴくりと強張った。
そのわずかな変化に気づいて、俺は何も言わず立ち位置をずらす。千冬と、押し寄せる人波のあいだに入るように。吊り革を握る腕に少し力を込めると、車体の揺れが肘から肩へ鈍く伝わってきた。
「……ありがと」
消え入りそうな声だった。
「ん? 何が?」
本気で分からず聞き返すと、千冬は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく視線を逸らした。
「……別に」
窓から差し込む朝の光が、黒髪の先をやわらかく透かしていた。まだ少し強張りの残る横顔が、けれど前よりはほんの少しだけ穏やかに見えた。
向かい側では、鉄平がなんとも言えない渋い顔をしていた。
その日の放課後。
西日でぬるくなった廊下を抜けて、自販機の前に立つ。部活帰りのざわめき、遠くで鳴るボールの音、缶が落ちる乾いた響き。春の夕方の空気は少し汗ばんでいて、制服の襟元に熱がこもる。
「夏海、今日なんか機嫌悪くね?」
「別に?」
「いや、別にの声が低い」
そう言うと、夏海はむっとしたままそっぽを向いた。
俺は自販機の光るボタンを見つめて少しだけ迷ってから、ミルクティーを押した。機械の奥でごとん、と鈍い音がする。取り出し口から出てきた缶は、ひんやりと冷たかった。
「ほら」
「……なんで分かったの」
「お前、機嫌悪いと甘いやつ飲むじゃん」
夏海は缶を受け取りながら、少しだけ黙る。指先が缶の冷たさを確かめるように止まって、それから、拗ねたみたいに小さく唇を尖らせた。
それを少し離れたところで見ていた千冬が、ほんのわずかに目を伏せる。
千夏は千夏で、面白くなさそうに口を尖らせていた。
その場にいる俺だけが、誰の胸の奥にどんな波が立ったのか、まるで分かっていなかった。
このときの俺は、まだ知らない。
無自覚なまま選び続けた“誰にでも優しい選択”が、
やがて静かに火種を積もらせて、逃げ場のない修羅場を呼ぶことになるなんて。




