Case4 ダイエット④
【主人公:雄大視点】
――7月。
期末試験も終わり、教室の空気がどこか浮つき始める頃だった。
窓の外では、蝉が鳴き始めている。
まだ本気の夏じゃない。でも確実に近づいてくる、あの熱気の予感。
俺は――変わった。
数字が、それを証明していた。
体重。
90kg。
そこから――75kg。
制服のズボンが明らかに緩い。
ベルトの穴が二つ、三つと奥へ移動している。
最初の二週間で6kg落ちたのは、本当に大きかった。
食事を変えて。
歩いて。
ゲームに夢中になって気づけば何キロも移動して。
気づいたら、汗をかくことが当たり前になっていた。
鏡の前に立つ。
以前の自分なら、なるべく見ないようにしていた姿。
でも今は違う。
輪郭が出ている。
首が細くなっている。
肩の位置が、少し上がっている。
――そして。
身長。
172cmだったはずが、175cm。
最初は測り間違いかと思った。
でも何度測っても同じ数字だった。
中学で止まったと思っていた成長が、まだ続いていたらしい。
栄養バランス。
運動。
姿勢。
猫背気味だった背中が伸びただけでも、視界の高さが違う。
廊下を歩くと、前より遠くまで見える。
世界が、少し広い。
……いや。
世界が変わったんじゃない。
俺の目線が、視界が、変わったんだ。
♢
最近。
結衣と、よく目が合う。
前は――気づきもしなかった。
いや、違う。
気づいていたのに、見ないふりをしていたんだと思う。
視線が合う。
少し驚いたみたいに目を丸くして、でもすぐには逸らさない。
それから、遅れてふっと目を伏せる。
たぶん結衣は、俺が変わったことに気づいている。
痩せたこととか、背が伸びたこととか、そういう表面だけじゃなくて。
前より下を向かなくなったこととか。
歩く速さとか。
話しかけられた時の声とか。
そんな細かいところまで、見られている気がした。
胸の奥がざわつく。
♢
授業終わり。
教室にはチョークの粉の匂いが薄く漂っていた。
日直の結衣が、黒板を消している。
背伸びしても、上の端に手が届かない。
何度もぴょん、と跳ねる。
その仕草が、妙に可愛く見えてしまって――
気づいた時には、体が動いていた。
▶︎「手伝うよ。ここ消しとくね」
「ごめん、なんでもない」
黒板消しを受け取る。
指先が少し触れる。
「……!」
結衣が振り向いた。
その顔は、ただ驚いたというより――
少し信じられないものを見たみたいだった。
前の俺なら、たぶん席を立たなかった。
立てなかった。
「ありがとう」
今度は少し小さめの声だった。
でも、そのあとすぐに笑う。
「助かった。全然届かなくて」
その笑顔を、真正面から受け止める。
昔みたいに、慌てて目を逸らしたりせずに。
結衣が一瞬だけ黙る。
それから、じっと俺を見る。
「雄大くん、背、伸びたよね」
少し目を細める。
「あと、前より……なんか、ちゃんとしてる」
胸の奥が熱くなる。
「ああ……ダイエットしてたら、ついでに身長も伸びてたんだ」
自分でも信じられない言葉だった。
昔なら絶対に言えなかった。
結衣が少し身を乗り出す。
「私も聞きたいな。どんなことしてたの?」
――チャンスだ。
喉が鳴る。
「それはね……」
その会話が。
すべての始まりになった。
♢
それからだった。
結衣は、ときどき俺の席に来るようになった。
「ねえ、間食ってやっぱ我慢してるの?」
「歩くのって、どれくらいやればいいの?」
「ジュースってやっぱダメ?」
最初はダイエットの質問ばかりだった。
でも、そのうち話題は少しずつズレていった。
好きなゲーム。
夏休みの予定。
暑いのが苦手だとか、アイスはチョコミント派じゃないとか。
話すたびに思う。
結衣は、思っていたよりずっとよく笑う。
そして、会話が終わるたびに、ほんの少し名残惜しそうにする。
……たぶん。
俺だけじゃなかった。
この時間を、楽しみにしていたのは。
♢
夏休み。
告白。
そして――
俺たちは、付き合うことになった。
二人で並んで歩く帰り道。
沈みかけた夕日が、アスファルトをやわらかく染めていた。
「最初はね、痩せたなって思っただけだったの」
結衣が、少し照れくさそうに笑う。
「でも、それだけじゃなかった」
「え?」
結衣はすぐには答えず、少しだけ前を向いたまま歩いた。
揺れる髪。
夏の終わりに近づく、ぬるい風。
「ちゃんと続けられる人なんだって分かって……なんか、すごいなって思った」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
痩せたこととか。
背が伸びたこととか。
そういうのが全部きっかけだったのかもしれない。
でも、結衣が見てくれていたのは、たぶん――そこじゃない。
三日坊主で終わるかもしれなかった俺が、やめなかったこと。
少しずつでも、変わろうとしていたこと。
たぶん、そういうところを見ていてくれたんだ。
「……そっか」
それしか言えなかった。
けれど、そのたった一言が、自分でも驚くくらい嬉しかった。
隣で結衣が小さく笑う。
「うん。だから、気づいたら……目で追うようになってた」
一歩ぶんだけ、心臓が跳ねる。
蝉の声が遠くなる。
代わりに、自分の鼓動ばかりがうるさい。
繋いだ手が、少しだけあたたかい。
夏が始まる前の俺には、きっと見えていなかった景色だ。
変わったのは、体だけじゃない。
世界でもない。
ちゃんと前を向けるようになった俺の隣に、今、結衣がいる。
その事実だけで、胸の奥が満たされていく気がした。
♢
夕焼けの帰り道。
オレンジ色に染まるアスファルトの上で、俺は鉄平と並んで歩いていた。
「ありがとうな、鉄平」
自然に言葉が出た。
「いいよ。俺もすごく楽しかったし」
俺は首を振る。
「たった一つのやり取りから、ここまで来れたのは……お前のおかげだよ」
少し沈黙。
そして、気づく。
一番大事だったこと。
「……楽しかったから続けられた」
苦しいだけだったら、絶対やめてた。
「それが全部だよ。本当にありがとうな」
鉄平は笑って肩をすくめた。
「ああ。でもリバウンドしたら彼女泣くぞ?」
「食事と運動、気をつけろよ」
思わず笑う。
拳を差し出す。
コツン。
軽い音。
でも確かな実感。
ここまで来れた証。
そして。
鉄平は満足そうにやり遂げた顔をしていた。




