鍛冶屋の火入れ前
鍛冶屋ゴンズと娘メノウの、とある一日の物語です。
朝靄のまだ濃い山あいの町に、かん、と小気味よい鉄の音は響いていなかった。鍛冶屋ゴンズはいつも通り、夜が明けるより早く目を覚まし、軋む階段をおりていく。大きな体の割に足音を忍ばせるのはもう習慣だった。目を覚まさぬよう娘を気遣って、こっそりと台所へ向かうのだ。
火を扱う前の朝のひととき、ゴンズの仕事は鍛冶ではない。小さな鍋でスープを温め、香ばしいパンを炙り、焼き肉を一皿。娘メノウのための朝餉をこしらえる。鍛冶屋にしては繊細な手つきだが、これも毎日の鍛錬のようなもので、もう慣れっこになっていた。
「さて、そろそろ起こしてやるとするか」
太い腕で腰に手をあて、階段を見上げる。寝起きの悪い娘を呼びに行くのも楽しみのひとつだ。布団から顔を出してぐずぐずする彼女を、にやにや笑いながら引っ張り起こす。そんな毎朝を思い浮かべながら、ゴンズは分厚い声で「おーい、メノ――」と声を張ろうとした。
と、その時。
トントン、と軽やかな足音が階段をおりてきた。珍しいことに、娘のほうから起きてきたのだ。まだ幼さを残す顔にはしっかりとした意志が宿り、しかも今日は、ちょっと大人びたおしゃれな服を身につけている。
「お、おう? 今日は早いじゃねぇか……」
ゴンズは大きな口をあんぐりと開けたまま、持っていた皿をテーブルに置いた。
「いただきまーす!」
メノウは椅子に腰を下ろすやいなや、ぱくぱくともぐもぐと勢いよく食べはじめた。パンをかじり、スープをすするその様子は、いつもよりずっと急いでいる。
「なんだなんだ、まるで遠足にでも行くみてぇだな」
ゴンズの冗談も耳に入らないようで、娘は皿をきれいに平らげると、口を拭きながら立ち上がった。
「ごちそうさま! ちょっと出てくるね!」
「はぁ!? おいおいどこ行く――」
言い終えるより早く、メノウは玄関をバタリと開けて「たたたたっ」と軽快な足取りで駆け出してしまった。
ぽかんと口を開けたまま、取り残されたのは父親ひとり。やれやれと頭をかきながら、ゴンズは冷めかけたスープを一口すすった。胸の奥にふと、言葉にできない小さなざわめきが生まれる。
「……まぁ、若い娘ってのは、時々分からんもんだな」
その朝は、火を入れる前から不思議な空気に包まれていた。
鍛冶場の扉を開けると、湿った朝の空気がひんやりと肌を撫でた。まだ薄暗い工房の中で、ゴンズは手際よく炉に薪をくべ、ふいごを押して火を起こす。ごうっと炎が息を吹き返すように揺らぎ、赤黒い煤の壁に影が踊った。
火の熱はいつものはずなのに、今日は妙に胸の奥まで染みる。鉄槌を手にしたとたん、娘の慌ただしい足音と、おしゃれをした姿が思い出される。
「……そうか」
ゴンズはゆっくりとふいごの手を止めた。炉の赤に照らされた顔に、わずかな陰りが落ちる。
――今日は、おまえの命日だったな。
気づけば、もう一年。忙しい日々に追われ、季節の移ろいとともに心の奥で折り合いをつけてきたはずだったが、こうして改めて数えると胸の奥がじんと熱くなる。
彼女がいなくなってから、家の静けさに押し潰されそうな朝もあった。鍋を振る手がぎこちなくて、パンを焦がしてしまい、泣きそうな顔で娘に出した日もあった。メノウが幼い肩を精いっぱい張って「おいしいよ!」と笑ってくれたことを、ゴンズは忘れていない。
――あの子も、気づいていたんだな。
今朝のあの装い。急ぎ足の背中。あれはきっと、母のために。そう思うと、不思議と鉄を打つよりも胸が熱く、まぶたの奥がじんわりと曇った。
「……ったく。いい娘に育ちやがって」
ごつい手で涙をぬぐうと、ゴンズはもう一度ふいごに力を込めた。火の粉が勢いよく舞い、工房は再び熱に包まれる。今日も鍛冶屋は鉄を打ち、娘は前に進んでいく。――そのことが、何よりの救いだった。
鍛冶場の中で、鉄槌の音が少しだけ長く響いていた。ガン、ガン、と重たく鳴る音は、いつもより力がこもっている。火花がぱちぱちと飛び散るたびに、ゴンズは過ぎた一年を思い返していた。
妻がいなくなってからの日々は、どれほど早く、そしてどれほど遅かったか。仕事に没頭しても、夜にふと気が緩むと、からっぽの椅子が目に入る。小さな食卓に座るのは自分と娘だけ。その景色にも慣れたつもりだった。だが、命日という節目に思い至ると、慣れではごまかせぬ痛みが胸に顔を出す。
そんなとき、鍛冶場の扉が勢いよく開かれた。
「おとうちゃん!」
小さな声とともに、軽やかな足音が飛び込んでくる。メノウだ。両手には色とりどりの野の花を抱え、頬をほんのり赤くしている。朝のうちに町外れまで走っていったのだろう。スカートの裾には草の露が残り、手のひらは少し土で汚れていた。
「はぁ……はぁ……ただいま! これ、見て!」
ゴンズは鉄槌を持つ手を止め、目を丸くした。
「お、お前……花を摘んできたのか」
「うん! 母ちゃんにあげるんだよ。……ね、おとうちゃん、行こう!」
子どもの澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見上げてくる。強いようでいて、どこか寂しさを隠している瞳。ゴンズは一瞬、胸を突かれたように息をのんだ。
あの日、妻を見送ったときも、この娘は小さな拳を握りしめて泣きはらした顔で「おとうちゃん、大丈夫だよ」なんて言った。その幼い強がりが今も心に刺さっている。
「……おう。いい娘だ」
口の奥が震えて、自然と笑みがこぼれる。ゴンズは鉄槌を置き、炉の火に蓋をするように鉄網を被せた。火が鎮まるのを確認し、大きな背中をぐっと伸ばす。
「ちょっと待ってろ。靴を履きかえてくるからよ」
「早くー!」
メノウは小さな靴をぱたぱた鳴らして先に工房の外へ走っていく。両腕いっぱいに抱えた花束は、まるで太陽の光を集めたように鮮やかだ。
その背中を見送りながら、ゴンズは深く息を吸った。鍛冶場の煤の匂いの奥に、ひんやりとした秋の風が入り込み、どこか澄みわたるように感じられた。
「……ったく。母ちゃんが見てたら、きっと驚くだろうな」
ごつい指で髭をなで、顔に残る煤をぬぐいながら、ゴンズは扉を押し開けた。外には待ちきれない様子で花を抱えた娘が立っていて、その姿は朝日に照らされて眩しいほどだった。
石畳を踏みしめながら城壁近くの墓地へと向かう道すがら、ゴンズは娘の横顔をちらりと見た。メノウは胸の前で花束を抱え込み、転びそうなほど大股で歩いている。時折、花びらが風に揺れてひらひらと落ち、それを拾おうともせず、そのまま前へ前へと進む姿に、幼かった頃の面影と、もう子どもではない成長の気配が同居しているように思えた。
墓地に着くと、静けさの中で鳥の声だけが響いていた。灰色の石の並びの一角に、妻の名が刻まれた墓がある。そこへメノウは小さな膝をつき、両手で花をそっと供えた。色鮮やかな花々が、冷たい石の上に春を呼んだように咲き誇る。
「母ちゃん、また来たよ」
メノウは少し声を震わせながらも、しっかりと言葉を紡ぐ。その背中に寄り添うように、ゴンズも膝を折り、太い腕を胸の前で組んで深く頭を下げた。
「……おう。今日も俺たちは元気だ。仕事もちゃんとやってるし、この娘は……まっすぐ育ってる。お前に似て、よく笑うし、気の強いとこもな」
声が詰まり、少しだけ言葉を途切れさせる。目を閉じれば、柔らかく笑っていた妻の顔が浮かんできた。あの日と変わらぬまま、心の奥で生きている。
ゴンズは無骨な指先で墓石を軽く叩いた。まるで「聞いているか」と問いかけるように。
「だから安心しろ。俺が必ず守る。この家も、この娘も」
隣でメノウが顔を上げた。涙で光る瞳が、それでも笑みを浮かべている。
「母ちゃん、心配しないでね。あたし、ちゃんと頑張るから!」
父娘の声が重なり、墓地に静かに溶けていった。風が吹き抜け、供えられた花が揺れ、どこか応えるように香りを放つ。
しばらく手を合わせたのち、メノウはぱっと立ち上がり、両手を腰に当てて言った。
「よし! おとうちゃん、お昼ごはんはなに食べる?」
ゴンズは一瞬きょとんとした後、ふっと笑みを漏らした。重たかった胸の奥が、少し軽くなるのを感じる。
「……ははっ。お前ってやつは。そうだなぁ、帰りに肉でも買って帰るか」
「やった!」
メノウは大きく頷き、先に歩き出す。ゴンズはその背を見ながら、ぽつりと呟いた。
「これからも、きっと大丈夫だな」
鍛冶屋の父と娘は、花の香りを背に、未来へと続く道を踏み出していった。
哀しみは消えないけれど、それでも前を向いて進んでいく――。
そんな父娘の姿を少しでも感じていただけたなら幸いです。