第79話 君が幸せになったら②
眼下に広がる夜景は、まるで星々が地上に舞い降りたようだった。
帝都の街並みに灯る無数の明かりが、丘の斜面に沿って静かに煌めいている。
「わぁ……素敵ですね……!」
ミユキの、感嘆の声が俺の胸に沁み込んでくる。
ウィルの”命令”で訪れたのは、アポロニアの屋敷から10分ほど歩いたところにある高台だった。
帝都は丘の上に広がる街並みで、大帝のいるヴァンディミオン城に近づくほど丘の上に登っていくような構造だ。
そのため、俺たちは高台から帝都の夜景が一望できる場所に辿り着いたのだった。
灯火が星のように瞬く街の向こう、夜風が緩やかに頬を撫でていく。
どういうつもりだウィルと思ったが、ここは素直に友情に感謝しておく。
アポロニアの屋敷のパーティをミユキとこっそり抜けだすのは何だかワクワクしたし、親指をグッと挙げて俺たちを送り出したウィルの顔も面白かった。
ティアにもレオナにも気づかれていた気がしないでもないが、今宵の俺たちは珍しく酒を嗜んでいる。
なので、抜けだしたのも酒のせいにできるというわけだ。
決して二人のニマニマ顔が頭をチラついたので言い訳を考えているわけではない。
まさか異世界に来て夜景デートなんてすることになるとは、夢にも思わなかった。
何なら前世でも一回も……いや、これは俺の名誉のために伏せさせてもらう。
むしろミユキと初めての体験を行なえるというのは、俺にとっては僥倖だ。
高台は公園のように整備されており、カップルを中心にまばらに人影があった。
俺たちは設置されていた木製のベンチに腰掛け、二人で並んで街並みを見下ろす。
遠くで誰かの笑い声がして、静けさの中にも人の営みが感じられた。
「いよいよ帝都ともお別れですね……」
ポツリとミユキが呟く。
チラリと彼女の横顔を見れば、慈しむような、それでいてどこか寂しさも称えた表情が印象的だった。
「うん……色々あったね」
大陸屈指の都だという帝都。
遠くに見える仄かなオレンジ色の明かり達は、かつての世界で俺が見たようなギラつきはないが、優しい光を放って俺たちを照らしている。
「……フガクくん」
ミユキが俺に問いかける。
すぐ隣に座ったミユキの体温が、夜風の中でやけに近く感じられた
「なに、ミユキさん」
俺はミユキの名前を呼ぶ。
名前を呼ぶごとに、俺たちの距離はほんのわずかに近づくような気がした。
「ずっと聞きたかったんです……訊いてもいいですか?」
「なんだろう、もちろんいいよ」
改まって珍しいと思いつつ、俺は彼女の言葉を待つ。
一瞬だけ唇を引き結ぶような仕草を見せ、意を決したようにこちらを向く。
俺とミユキの視線は、互いを真っすぐに捉えていた。
「フガクくんは、元の世界に戻りたいと思ったことはないんですか?」
ミユキは少しだけ眉を下げた不安げな表情だった。
俺が何と答えるのかをじっと見つめて待ってくれている。
「ないよ」
俺は本心で応える。
前世の自分の人生に不満があったわけでもないが、不思議と無いのだ。
別に家族と疎遠だったとか、前世不遇な目に遭っていたとか、そんなこともない。
普通ならホームシックにでもなるのかもしれない。
しかし生憎と他の異世界転移者にも出会ったことが無いため、俺がおかしいのか、案外こんなものなのかは確かめようも無かった。
ただあの日、ティアから旅への同行を命じられたとき、俺は本当は嬉しかったのかもしれない。
異世界に転移して、絵に描いたようなチート能力は得られなかったけれど、そんな俺に”聖女”が道を示してくれたことが。
あの日俺の前で魔獣の首を叩き斬って見せた、血を浴びてなお美しい”勇者”の隣にいられることが。
「無い……んですか。そうですか……」
ミユキは、ほっとしたような、でもほっとしていることを悟られてはいけないとでも言いたげな、そんな表情に俺は笑みを零した。
「え、ど、どうして笑うんですか……?」
「ううん、ごめん、何でもないよ。ただ……君とこうして並んで座っていられることが、本当に嬉しいんだ」
ミユキは、俺からバッと視線を逸らし、自らの膝に視線を落とす。
その耳が赤いのはきっと酒か夜の明かりの所為だということにしておこう。
あれから何度も死ぬような目に遭った。
何度も彼女たちに助けられた。
自分の弱さと情けなさに打ちのめされながら、それでも彼女たちは俺を見捨てなかったから、俺はここまで来れたのだ。
「わ、私も……フガクくんとこうして旅を続けられることが、嬉しいです」
ミユキはそう言って、恥ずかしそうに俯きながら微笑んでくれた。
横顔を縁取る髪が、街の灯に透けて揺れている。
その微笑みは、息をするのも忘れるほどに美しい。
彼女のそんな顔を見られるだけで、俺はこの旅を続けている甲斐があると思った。
……気づけば、ベンチの上で、そっと彼女の手に触れていた。
一瞬だけ、彼女の指が小さく震えた気がした。
だがすぐに、慈しむようにその手が応えてくれる。
震える指先が、そっと俺の指を探し当てた。
重なった瞬間、心臓の鼓動は夜空の星よりも強く響いていた。
気が付けば、俺たちの手は、そっと重なり合っていた。
「また、この場所に来よう……君が幸せになったその時に」
ミユキは幸せな人生を生きたいといった。
誰より強く誰より傷ついてきた彼女は、ただ普通の、人として幸福に生きることを望んでいる。
その光景を、できる限り近くで見届けたいと思った。
「はい……その時は一緒に」
彼女の手から、確かな温度が伝わってくる。
彼女は指先をぎゅっと重ねると、ほんの少しだけ潤んだ瞳で笑った。
――約束が一つ生まれた。
必ず果たさなければならない約束が。
夜空にまたたく無数の灯りは、遥か遠くのものだけれど、俺たちの掌の温もりだけは、確かにここにあった。
俺はミユキと寄り添いながら、何をするでもなく、煌めく帝都の明かりを見続けていた。
またいつか一緒にこの場所へ、君と訪れる日を想いながら――。
第三章『狂気の勇者編』は今回で完結となります。ここまで読んでいただきありがとうございます。
次章は9/2から開始します。
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