第74話 魔女と三極将②
それはティア達がミューズ/ライカンスロープと対峙する少し前のこと。
ティアたちの旅するゴルドール帝国の西、ロングフェロー王国北部。
魔女たちの自治領『フレジェトンタ』に魔女エフレム=メハシェファーは戻ってきていた。
エフレムはゴルドール帝国内において、魔女リリアナ=デイビスの追跡任務に失敗したことを報告し、屋敷へと戻ってきた。
報告先であった母にはきつく咎められることこそ無かったが、きちんと姉にも報告するようにと申し渡された。
――帰ってきてしまった。
前庭の花々の香りすら、今の彼女にはただの逃げ場のない現実の匂いだった。
エフレムは母や姉、そして大勢の使用人と共に広大な屋敷に住んでいる。
エフレムも姉も、元は母が自治領内にいくつも運営する孤児院の出身だった。
二人は幼い頃その才能を見初められ、母メルエム=メハシェファーの養女として育てられたのだ。
「お帰りなさいませ、エフレムお嬢様」
前庭で出迎えた執事に槍を預け、マンティコアのデュランも牧舎へと戻してもらう。
グルル……と喉を鳴らす相棒をそっと撫で、エフレムは屋敷の中へと向かった。
「お姉さまは?」
「テラスにてティータイムでございます」
恭しく頭を下げる執事の顔も見たくないほど、エフレムはとにかく気が重かった。
まずは部屋に戻り、身支度を整える。
白いドレスの上から装着していた鎧を外し、新しいドレスへと着替える。
先日姉が見繕ってくれた薄緑色の、繊細な意匠が特徴的なドレスだった。
公爵家の長女として育てられた姉は、淑女としてあまりにも完璧だった。
男性とすれ違えば誰もが振り返る麗しい容姿、ふわふわとした漆黒の髪は、日々手入れを欠かさずふわりと花のような香りが仄かに通り抜ける。
姉は幼い頃から左目が見えないため、魔獣の革を鞣した金色の刺繍が入った眼帯を着けている。
しかし、それすらも”完璧でないからこそ美しい”と言うかのように、彼女の妖しい色香を彩る装飾のひとつとなっていた。
エフレムは化粧台の前に座り、その絹糸のような髪をメイドが梳かしていく。
身だしなみの一つにも粗相があれば、姉は「レディとして相応しくない振る舞いだ」と叱るだろう。
「どんなに整えても……私はお姉さまのようにはなれない」
「お嬢様はとてもお可愛らしく魅力的でございますよ」
鏡の前で無表情な人形が整えられていく様を見ても、姉のようには到底なれないと思った。
メイドの定型句のような美辞麗句も、エフレムは聞き飽きていた。
メイク直しなど一通りの身支度を終えたエフレムは、スカートの裾が翻らないよう、ゆっくりと静かな足取りで2階のテラスへと向かった。
自分にとってはコンプレックスでしかないが、サラリとした金色の髪に、鮮やかなライムグリーンの瞳、人形のような顔立ちは姉からも褒めてもらえることが多かった。
だから、できるだけ姉の好むような見た目に整えてから向かっている。
中庭に咲く薔薇を見下ろせるテラスは姉のお気に入りの場所で、エフレムも一人では滅多なことでは立ち入らない。
エフレムは心底姉を尊敬し、それ以上に畏れていた。
自分よりも遥か上の美しさ、公爵令嬢としての振る舞い、そして――。
テラスに向かう長い廊下を通り、やがて陽光が差し込む大きなガラスがはめ込まれた扉を、両側から使用人が開いた。
「失礼いたします、お姉さま」
エフレムはスカートの裾をつまみ、片足を斜め後ろに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げてカーテシーを行う。
テラス席では白い椅子に、黒いドレスを纏った姉がエフレムに背を向けて座っていた。
「ごきげんよう。エフレム」
姉は涼やかに、小さな鳥が鳴くような声で応えた。
ティーカップが皿の上に「カチリ」と音を立てた瞬間、エフレムの背筋がピシリと伸びた。
「お姉さま、ご報告に参りました」
「失態を犯したそうですわね」
エフレムの方を見ず、姉はただ薔薇園を静かに見下ろしながらそう言う。
「申し訳ございません」
姉の背中に向かって、エフレムは頭を下げる。
しかし、姉は優雅な仕草でティーカップに口を付ける。
それを再び皿に戻すまで、エフレムは顔を上げなかった。
「わたくしに謝る必要はなくてよ。軍の任務であるならまだしも、魔女としての務めでしょう。わたくしの与り知るところではありません」
エフレムは顔を上げる。
気が付けば、指先が少し震えていた。
姉は決して声を荒げたり、厳しい口調で叱責したりしない。
だが、エフレムのためだと言いながら、容赦のない罰を下すことはある。
だからエフレムは、ただ無言で姉の出方を伺うことしかできなかった。
「エフレム、貴女も座ったら?」
「ありがとうございます。しかし、私はここで……」
姉は一人で静かなティータイムを過ごすのが好きなことも知っている。
姉の誘いには乗らない。
恐ろしくて、その隣には座れないからだ。
「そう? ああ、それで貴女、どなたに負けたの?」
「お姉さまのご学友でいらした、アポロニア卿です」
あの金髪の女たちのことは伏せておく。
話せば面倒なことになりかねない。
「嘘おっしゃい」
敗北した原因、相手が誰であったのか。
自分でもよく分かっていないのに、姉は全てを見透かしたような声でピシャリとそう言った。
エフレムに再び緊張が走った。
この姉は、どこまで知っている?
姉はロングフェロー王国軍の上級士官だ。
エフレムが共に連れて行った部下たちの報告書などを読んだのかもしれない。
「ねえ、エフレム」
姉は、立ち上がり、ゆっくりと振り返ってエフレムの前まで歩いてくる。
背丈は自分の方が高いのに、どうしようもなく姉が大きく見える。
床を叩くヒールの音が、まるで空気を裂くような鋭さで鼓膜を打った。
そして、その深い闇のような紫色の右目で、エフレムを見据えて笑みを浮かべた。
「貴女の戦った相手は、わたくしとどちらが強いかしら」
姉の名は、エリエゼル=メハシェファー。
楚々とした立ち居振る舞い、麗しき美貌。
見る者の心を奪うような微笑は、エフレムですら見惚れるほどの気品に溢れている。
彼女は完璧な淑女だ――
――斬り合いが何より好きなことを除けば。
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