第63話 聖餐の血宴<サクラメント・カルナヴァーレ>②
「―――『聖餐の血宴』……!!」
大事に己の血を捧げ、祈るように放たれた言葉と共に、静かに狂気が降る――。
――ミユキの中で、世界は沈黙した。
音が消え、色が褪せ、風さえも動きを止めたように感じられる。
けれど、それは錯覚ではない。
「……血を捧げ、あるべき場所に還りなさい――!」
ミユキは呟いた。
その口調は、凛とした静けさに満ちていた。
悲しみでも怒りでもない。まるで、神官が儀式の文言を唱えるような、厳かさ。
すでに彼女の瞳には、狼たちの姿は見えていない。
彼女の赤い瞳からは光が消え、ただ目の前にあるものが映っているだけだ。
そこに映るのは、ただ“命の気配”――赤く光る灯火が、無数に揺らめいている。
それはまるで、深い夜の中に浮かぶ紙灯篭のように、儚く鮮やかだった。
強きものと弱きもの、ただ二つの命がひしめく大地で、勇者の断罪がはじまる。
彼女は静かに、息を吐いた。
ミユキは倒れていた冒険者の剣を一振り拾い上げる。
最初の狼が飛びかかった。
しかし、それがミユキに届くことはない。
音もなく、光もなく――ただ一閃。
狼の身体が断裂して青白い光と化して消えた。
「……失礼。そちらを通ります」
青白いミューズの眷属たちが形づくる円環の中を、ミユキはただ歩いていく。
大地に真っすぐな線を引くように。
歩くたび、空気が小さく悲鳴をあげるように軋み、銀の線が後を引く。
次の瞬間には、側面から襲い来る狼たちの首が地に転がり、泡沫のごとく消滅してゆく。
大地に還ることもなく、はじめからそこに何も無かったかのように、狼たちは勇者の剣にて絶命する。
それはもはや“戦い”ではない。
ミユキの貌に微笑みは無く、あるのは無慈悲な処刑。
慈悲無き"祝祭"――すなわち“カルナヴァーレ”。
しかし、狼たちはミューズの眷属。
恐怖もなければ生存本能すらもない。
ただそこを歩く彼女に命を捧げるかのように、飛び掛かっては消えていくのを繰り返す。
剣の軌跡が風を裂き、血の代わりに絶命する狼から迸る光が戦場を覆っていった。
ミユキは歩き、眼前にある大きな命の灯へと向かっていく。
それが果たして何であるのかは、もう彼女の眼には見えてはいない。
だが、すべての弱者を救うため、勇者の前に立ちはだかるものは須らく敵だ。
「……きなさい」
ミユキはまるで語りかけるような口調で、ミューズと対峙する。
この祝祭に、
「アァァァァァアアアアーーーーー!!!!!!!!」
次の瞬間、異形の咆哮が轟いた。
人の形をした白き獣が、狼が走る円環の中に向けて、破壊の絶叫を解き放つ。
地が裂け、光の粒子と化しながら、青白い狼は宙を舞う。
嵐の中心、白い女性の姿をしたそれも、今のミユキとってはただ”大きな”命のエネルギーに過ぎない。
ミューズが吠える。
地が揺れ、衝撃波が放たれる。
だがミユキの姿は、すでにそこにはなかった。
――ガッ!!!
しなやかな体は跳躍し、放物線を描きながら、刃が煌めく。
真上から叩き込まれる刃の雷。
まるで地上に降るかのように、ミユキはミューズの肩に直撃を加えていた。
ボトリと、ミューズの肩から腕が落ちる。
「ギィィィィヤアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
それは怒りか、苦しみか。
ミューズは破壊の咆哮をまき散らしながら叫び声をあげた。
狼とは違い、赤い血が断面から噴き出ている。
「では、終わらせます―――!」
聖餐の宴の幕を引くため、ミユキは血だまりの大地を蹴り再び駆け出した。
―――
リュウドウは、目の前で起こっている光景を見て、「危険だ」と感じた。
今目の前では冒険者の女が、先ほどまで周囲に破壊と混沌を撒き散らしていたはずのミューズを圧倒している。
その人を超えた力に、周囲にいる冒険者たちも騎士たちも唖然として見守ることしかできない。
狼たちが主を守ろうと飛び掛かっても、もはや太刀筋を視認することすら難しいほどの速度で斬り捨てられ、光の粒子と化していく。
現在リュウドウたちを含む冒険者や騎士には、あの戦いの中に近づかないようにという指示が出ている。
近づけば何が待っているのかは分からない。
だが、確かに人ではないもの同士が、命を削り合っている光景がそこにはあった。
「リュウドウ……! マルク……! 何ごとだいこりゃ」
ミラとドロッセルが駆け寄ってくる。
「ミラ! お前ら狼はどうしたんだよ」
マルクが、敵の囮になっているはずの二人が戻ってきたことに驚いている。
「先ほどミューズが持っていた赤光石はミラのものか?」
リュウドウはミューズを人間が圧殺しようとする悪夢のような光景を見据えたまま、ミラに静かなトーンでそう言った。
あの眷属たちはミラの持つ赤光石を狙っていた。
あれだけの数だ、奪われても無理はないとも思っている。
そして赤光石を失ったのなら、ミラにもはや用は無いと狼たちも散開したのだろうと予測できた。
「ああ……すまない」
ミラも神妙な面持ちで頷いた。
リュウドウは「そうか」と呟き、軍刀を抜いてゆっくりとミューズの方に歩いていく。
「どこ行くんだよリュウドウ! お前も重症だぞ」
「問題ない。赤光石は取り戻す必要がある。あのミューズの中には今2つの石があるはずだ」
リュウドウは敵の咆哮を受けて内臓や骨に衝撃を受けた。
おそらく何らかの損傷があるが、リュウドウもまた普通の人間ではない。
この程度で、戦線から離脱するようなやわな肉体ではないと自覚していた。
「近づけるのか、あそこに」
ドロッセルは冷や汗を流しながら、その光景を見ている。
獣型のミューズが2つ目の赤光石を取り込むことで人型となり、ただでさえ強力だった力は著しく向上した。
特にその咆哮は、一撃で人間の体を砕くほどだ。
だがそれ以上に、中心で戦うミユキ=クリシュマルドという女の強さが異常だった。
先ほどまでは大量の狼たちがそれを囲うように走っていたが、もはやあの女によってほとんどが壊滅させられている。
もはや狼たちが形作る円環の体すら成していないほどに。
「今なら近づける」
「ありゃヤバいよ……あそこに飛び込んで赤光石を持ってこれるってのかい」
「ギルドの規約では、魔獣からの取得物は討伐者に権利がある。俺がミューズを殺さなければ赤光石を失うことになる」
リュウドウは極めて冷静だったが、仲間たちは止めるべきかを逡巡しているようだった。
「あの女は間もなくミューズを殺すだろう。援護は不要だ。むしろ余計な邪魔が入らないように警戒しろ」
「分かった、リュウドウ。勝算はあるんだろうね?」
「無い」
そう言い残し、リュウドウは地獄の中へと駆けていく。
リュウドウは自らの実力を見誤らない。
「無いって……まじかよ」
マルクはゴクリと唾を飲み込む。
「可能性は俺が一番高い」
行かねばならない理由はただそれだけだ。
勝算は無くとも、任務である以上戦いを避けて通ることはできないのだから。
あの場所で戦っているのは、ただの人間と魔獣ではない。
もう一段上のレイヤーにいる、得体の知れない生き物たちだ。
リュウドウもまた、ただ一振りの剣だけを頼りに、その領域に片足を踏み込んでいくのだった。
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