第61話 聖餐の血宴<サクラメント・カルナヴァーレ>①
それは、恐るべき怪物が生まれるほんの10分ほど前のこと。
ミラはドロッセルと共に戦場を駆け抜けながら、次々と湧いてくる狼たちを斬り払っていた。
「はぁ……! はぁ……! ええい鬱陶しいね!」
斬っても斬っても、次が来る。
ミラは息を切らしながら、忌々しげに語る。
取り付く狼たちは地面の裂け目、岩陰、斜面の上──まるで計算された配置で彼女を囲むように集まってくる。
「ミラ、右だ!」
「わかってるっての!」
ドロッセルの警告に反応し、振り返りざまに剣を一閃。
光の粒子と共に、飛びかかってきた狼の首が吹き飛ぶ。
しかし。
――その刹那だった。
地面から、白い煙のように這い出してきた一体がいた。
もはや現れ方が生物のそれではない。
ミラの死角から現れた狼が、彼女の視界の端にチラついたとき。
「ちくしょう、やばいッ!」
ミラが気づいたときには遅かった。
その狼は、地を滑るようにミラの背後に回り込むと、彼女の外套に縫い付けられていた袋を一撃で裂いた。
ゴトッ、と地に落ちた赤い石――赤光石が、陽光を浴びて不気味に輝く。
赤く輝くその輝きを見た狼の眼が、獣とは思えぬ知性と執着を帯びる。
「ちょ、待――!」
まるで“それ”こそが本来の目的だったかのように、狼は素早く赤光石を口にくわえると、後退するように跳ねた。
「そいつ……石を狙っているのか!」
ドロッセルの叫びにミラも戦慄する。
「なに、冗談じゃない……! 返しなッ――!」
ミラが追おうと一歩踏み出した瞬間、他の狼たちが一斉に動いた。
まるでその一体を守るように、包囲網が一段と狭まり、視界が白色に埋め尽くされていく。
ミラにはあと一歩で届く距離にあった――だが、届かなかった。
伸ばした手が、空を切る。
指先には、何も残らない。
「囲むつもりか……! ドロッセル!」
「やってはみるが! グランドウェイブ……!!」
ドロッセルの魔法が、大地を隆起させ、狼の行く手を阻むかのように盛り上がっていく。
しかし、狼の最高速はドロッセルの魔法よりも早い。
また、追手を防ぐかのように大量の狼がミラたちと赤光石を持って逃げる狼との間に立ちはだかった。
「くそっ……! 追うよドロッセル!」
「待てミラ……! さすがに間に合わない! リュウドウが取り返すはずだ!」
「ちくしょうっ!」
二人の言葉を遮るように、石を奪った狼が丘の斜面を駆け上がっていく。
馬にも乗っていない二人では、行く手を阻む狼を蹴散らしても石には決して届かないだろう。
ミラは舌打ちをしてその背を見送るしかできなかった。
見送る狼の背からは、赤光石の光がにじむように拡散していた――まるで主への贄のごとく。
―――
狼が捧げた赤い石の供物により、美しき白い天使へと変貌したミューズを前に、ミユキは逡巡する。
ミューズの咆哮は、胸に直撃をくらったミユキが口から血を吐きだすほどの威力だった。
ミユキは口元を手で拭いながら、眼前に立つ怪物を見る。
その顔のない女神は、まるで“見る”という行為すら超越した存在のように、無感情に咆哮する。
目がないのに、全てを見透かしているような威圧。
神聖と不浄が混在する、見るに耐えない美。
獣のような足先と、しなやかな女の指先には、どちらも赤い爪が不気味に輝いている。
ふわりとした髪を揺らし、顔の無い天使は再び絶望の叫び声をあげた。
「アァァァァァアアアアーーーーー!!!!!!!!」
鼓膜を引き裂き、骨の髄まで震わすような咆哮が、空間そのものを圧し潰すように放たれた。
物理的質量を持ったかのような破壊の絶叫は、辺りで狼狩りに苦戦する騎士や冒険者たちを薙ぎ払っていく。
眷属を無数に召喚し、その中心で神のように佇む白き獣は、もはやこの場にいる誰よりも恐ろしく強いものとなった。
「リュウドウ、大丈夫か?」
咆哮を受けて倒れたリュウドウに、マルクが駆け寄りポーションを渡してやる。
「ああ、問題ない」
口から血を流すリュウドウは、ポーションを一気に煽って瓶を投げ捨てた。
既に十を超える騎士や冒険者が、その咆哮一撃で肉片と化した。
手足のちぎれた亡骸が転がり、地面に赤い線がいくつも引かれていく
戦場はもはや、白い天使と赤い血だけが支配する地獄と化していた。
近づこうにも狼たちが円環を形成し、容易には近づけない。
「まずいな……こちらの戦力が減ってきた。ティア殿が大軍を引き連れてくれているからまだ何とか持っているが……」
剣も、魔法も、この化け物の前では何の意味も持たない。
誰もが気づき始めていた――このままでは全滅すると。
ミユキは降り注ぐ咆哮をかわしながら、どうにかあの本体に近づく方法はないかと考える。
―――いや、ひとつだけある。
「クリシュマルド殿……?」
周囲の狼たちを掃討しながら、ウィリアムがミユキに声をかける。
ゆらりと、ミューズを取り囲む狼の群れに向かってミユキが一歩足を踏み出したからだ。
ぐるぐると円環のように回り続ける顔の無い狼たちは、侵入者を決して主の元へは通さない。
翼のない人間には飛び越えることはもとより、駆け抜けることすらできはしないだろう。
ただ放たれる咆哮で、この場にいる人間たちは蹂躙されることしかできない。
だが、ミユキは、その円環に向かってゆっくりと歩いていく。
「なにを……!」
「王子……どうか皆さんが、私の視界に入らないように、守ってくださいますか」
ミユキはウィリアムの方を見ず、ただ眼前で咆哮を放つ怒れる獣の女神を見据えた。
ミユキには、切り札があった。
それは、勇者の力の全てを解放する、乾坤一擲の奥義だ。
だが、奥の手はいつでも使えるわけではない。
使わないからこその奥の手だ。
そしてその技には、致命的な欠陥があった。
……この技を使えば、誰が敵で、誰が味方か、ミユキにはもう見えなくなる。
それでも、やらなければならないと思った。
「わかった。あなたがそう言うのなら。私は貴女の力を、あの日からずっと信じている」
ミユキの信奉者であるウィリアムは、その神妙な面持ちを見て頷いた。
感謝の意味を込めて、微笑みを返す。
そしてミユキは、眼前に立ちはだかる大いなる敵を見つめ、やがて瞳を閉じる。
ウィリアムが周囲に撤退を命じる声が、遠くに聞こえる。
先日の地下水道での"彼"も、こんな気持ちだったのだろうかと、ミユキは思った。
たとえそれがどんな困難な道であろうとも、それしか道が無いというのなら。
きっと"彼"は選ぶのだろうと知っていた。
だからミユキも決めたのだ。
―――私ももうなりふり構いません。
あの日彼と語り合った夜。
臆病な自分の背中を押すように宣言したあの一言を、今実行する。
(フガクくん、私も決めました――)
"彼"のように、覚悟を体現するのだと。
それはきっと、祈りに似ていた。
ただ遍く弱者を救うため。
あらゆる敵を葬るため。
勇者は己を犠牲にしても役目を果たす。
ミユキはそっと拳を握り、額の前に置く。
そして、その美しい爪を握り込み、手のひらに突き刺していく。
ポトリと一滴、まるで陽光に煌めく朝露のように。
空気が震えるような感覚。
血が地に落ちた瞬間、周囲の音が止んだ。
誰もが理解した――何かが始まると。
溢れ出る血は、大地に捧げる贄となる。
この流れる赤い血を持って、全ての争いを消し去ることを誓おう。
「遍く弱きを救うためにーーー」
それは、天と大地とあらゆる生命への誓いの儀式。
血を捧げ、ただ一つの荒ぶる力となる。
ミユキはただ一つの願いをこめる。
どうか再び"戻って"こられたときは、大切な人が失われていませんようにとーー。
「―――『聖餐の血宴』……!!」
そしてそこに舞い降りたのは、血を贄と捧げ、自らの人間性すら喪った恐るべき勇者だった。
暴力を携え、全ての敵を討つため己を投げ打つ狂気の使者だった。
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