第211話 魔王の帰還①
俺の意識は現世へと戻って来た。
ハッと目を開けると、メハシェファーことメルの部屋の天井が真っ先に視界に飛び込んでくる。
その傍らでは、メルが優しげな微笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「お目覚めですか、魔王様……」
俺は気が付くと、自分の目じりから一滴の涙が零れていることに気づいた。
「メル……さん」
「ああ……ようやく呼んでいただけましたね」
俺は痛む頭を押さえながら身体を起こすと、メルを見つめる。
「僕はどのくらい眠っていたんですか?」
「ほんの数時間程ですよ」
言われ、窓の外を見ると確かに日が落ち外はすっかり暗くなっている。
メルは嬉しそうに目を細め、俺の手にそっと触れた。
「メルのことを……思い出していただけましたか?」
「確かに、あなたが魔王の側近だということは分かりました……」
何かを期待するような目をしているメルに、俺は眠りにつく前までとは全く別の印象を抱いた。
彼女が俺の中にある魔王の気配や力に気づいているのは間違いないが、それでも俺は魔王本人ではない。
俺の言葉に、メルは少しだけ驚いたように目を見開く。
「……魔王様では……ない?」
「分かりません……結局僕が誰なのかは、記憶を見ても分からなかった。ただ……僕の記憶の中に魔王がいたことだけは確かだ……」
俺はまだ頭がボーッとしていた。
先ほどまでの記憶は今も目の前に鮮明に思い出せる。
だが、俺が何者なのかは、結局記憶の中では明らかにはならなかった。
そしてメルは、俺の様子が変わらないことを、不思議に思っているようだった。
「そんな……どうして……」
メルの表情が曇る。
そんな顔をされたって、俺にはどうすることもできない。
彼女の望む魔王では無かったという事実を、どう伝えればいいのかは分からなかった。
「よく思い出してくださいませ。メルが……貴方様のお傍に在ったことを」
「メルさん。僕が見た記憶は魔王のものだけじゃなかった……あなたのものでもあったんですね」
俺が魔王の内心を把握できつつも、魔王の死後の様子も見れたこと。
きっとメルが、精神干渉のスキルか何かで俺に見せたのだろう。
あなたの死後に何があったのか
それを魔王に伝えるために。
「……申し訳ありません。でも……」
「でも……僕は魔王じゃない」
はっきりと告げた瞬間、部屋の空気が凍りついたように静まり返った。
蝋燭の炎が一度だけ揺らぎ、耳に届くのは二人の呼吸音だけ。
メルは大きく見開いた瞳をこちらに向けたまま、言葉を失っていた。
俺が魔王の何かであることは間違い無いのだろうが、俺は自分のことを魔王だとは思えない。
長い沈黙。
その間に俺は、彼女の白い指が膝の上で固く握りしめられていくのを見た。
血の気が引き、関節が浮き出るほどに。
やがて、彼女の唇が微かに動いた。
「そう……ですか……」
メルはそう言葉を吐くことしかできないようだった。
俺が初めて彼女を見たときの、不気味で底知れない雰囲気はもうそこにはない。
400年思い続けた相手とようやく出会えたと思ったのに、違ったと知った彼女の落胆は見るに堪えなかった。
だから俺は、彼女に伝えるべきことは伝えることにする。
「ただ……魔王に貴女の想いは届いてると思います。今もこうして、人間と魔族の共存を実現している貴女を見て、魔王はきっと……」
「おやめください……私は、魔王様のお言葉を聞くまでは、信じることはできません」
メルはベッドの傍から立ち上がり、窓の外を眺めている。
彼女の細く華奢な肩が、震えているように見えた。
爪が白くなるほど拳を握りしめ、か細い指は今にも砕けそうだった。
「メルさん……」
「お仲間の皆様は今晩当屋敷に滞在されます。ミユキさんも先ほどまでこちらにいらっしゃいました……貴方様も、どうぞお休みください……」
メルはこちらを向かず、何かを堪えるようにそう言った。
俺はベッドから降り、靴を履いて立ち上がると、もう一度メルに声をかける。
「ありがとうございます。僕が魔王の何なのかは分からないけど、魔王の記憶やあなたのことを知れたことには、きっと意味があると思います」
「……」
メルは返事をしなかった。
俺はそれ以上かける言葉を見つけることができず、礼をして部屋から出ようと扉に手をかけたときだ。
静かな声が聞こえた。
「私は……400年待ちました」
俺は振り返る。
彼女は相変わらず窓の外を眺めてこちらを見ない。
彼女の声は、震えていた。
「魔王様の千年の悲願。私はあと数百年でも待てます……。でも、400年目にして見えた貴方様はきっと、魔王様に違いないと、今も信じています」
メルの口調は少し冷静さを取り戻していた。
彼女はこの400年、一体どんな人生を送ったのだろうか。
メルは今公爵夫人だ。
彼女の心の中には今も魔王への想いがあるようだが、ガレオン公爵とは婚姻関係にある。
また、エリエゼルやエフレムといった養女も取っている。
学校や孤児院を運営し、王国の貴族から名を知られ、フレジェトンタには多くの魔女がいるはずだ。
メルは今も魔王の理想のために生き、人と魔族の共存を実現している。
今日ここに来たばかりの俺が、知ったようなことは言えないが。
復讐も自害も禁じられ、永遠の牢獄のような人生に囚われながらも、今も魔王との約束を果たし続けるメルの生き方は、尊いものであるように思えた。
俺は彼女の魔王にはなれないが、魔王の記憶を知った俺だからこそ、彼女の生き方には敬意を払える。
少ないとも、最初の恐ろしい魔女像も、ティアをして"関わりたくない人物"という印象も、もう俺の中からは消えてなくなっていた。
「……僕はシェオルに行くつもりです。僕が何者か分かったら、メルさんに伝えに来ます」
「はい……おやすみなさい――」
ほんのわずかに言葉が途切れる。
唇が震え、呼び慣れたはずの名を飲み込むように。
「――……“フガク”様」
「……おやすみなさい、メルさん」
俺は扉を閉め、メルの部屋を出た。
廊下の前に控えていたシエラに、ミユキ達の元へと案内してもらうことにする。
その際、俺はもう一度メルの部屋へと繋がる大きな扉に振り返る。
愛しい人を、400年待つ。その気持ちは一体どんなものなのだろうか。
俺はわずか数時間だと言うのに、長い年月を旅してきたような感覚を持った。
長命種である彼女の時間感覚は俺達とは違うかもしれないが、400年という途方もない時間の中でも諦めずに待ち続けることは、並大抵のことじゃない。
ようやく現代に戻ってきた俺は今、ミユキやみんなに会いたいという気持ちでいっぱいだった。
俺の胸にはまだ、魔王が感じた喪失と、未来へのわずかな希望の感触が残っている。
魔王と俺の繋がりは、きっともう手の届くところに答えがある気がしていた。
―――
「フガクくん!!!」
俺が今晩の居室として与えられた部屋に、シエラがミユキ、ティア、レオナの三人を連れてきてくれた。
扉を開けるなり、ミユキは俺に飛びつくように抱き着いてきた。
「おっと……! ど、どうしたのミユキさん?」
その瞬間、脳裏にまだ焼き付いている魔王の最期の光景——血に塗れた玉座、冷たく横たわる死体、嗚咽するメルの姿——が閃いた。
思わず心臓が跳ね上がり、体が強張る。
だが。
ミユキの胸元からふわりと石鹸のような香りが漂い、柔らかな温もりが俺の全身を包んだ。
震える記憶の残滓は、次第に現実の温かさに溶けていく。
そうだ、俺は今ここにいる。過去じゃない。
抱きしめ返す手に、ようやく力が戻った。
「フガクくん……ですよね?」
ミユキは心配そうに俺の顔を覗き見る。
俺が魔王の記憶を知ることにはリスクもあった。
俺が俺でなくなるのではという心配をしていてくれたのだ。
「うん、大丈夫、何ともないよ」
ただ、実際俺の心境や人格に何の影響も与えなかったかと言うと、実はそんなこともない。
俺は魔王の記憶の中で多くのことを知った。
400年前の、魔王と勇者と聖女を取り巻く戦いの真実。
魔族が滅びた理由。
メルやアリシアがその生き証人であること。
勇者の恐ろしさと、封印と言う結末。
そして……魔王が放った呪い。
もう元の俺ではいられない。
とはいえ、俺の中身は俺のままだ。
メルの予想とは違ったようだが、少なくとも当初に心配していたようなことにはならなかった。
「よかった……本当に……!」
ミユキはシャワーでも浴びた後なのか、さきほどからすごく良い匂いがしている。
抱き着かれる度に当たる柔らかな感触に、俺は現実に戻って来たのだと改めて実感する。
「ん! んんッ!!」
「二人とも付き合った途端露骨にイチャつくようになってきたね」
そして、ティアの咳払いが室内に木霊する。
その後ろには、レオナのニヤニヤ顔もセットだ。
俺達は慌てて距離を取る。
「大丈夫なのね? フガク」
ティアも、少し安心したような顔をしていた。
「うん。心配かけてごめん」
「ええ。で、何か分かったことは?」
俺の返事に言葉少なくそう返してくるティア。
俺は皆の顔を見渡し、安堵する。
魔王の死という悲劇を見た後だからか、彼女らの普段通りの表情に妙な安心感があった。
「……少し長くなるけど、聞いてくれるかな。僕が見た、魔王と勇者と聖女の記憶を……」
俺は3人を部屋の椅子やベッドに腰かけるよう促す。
時刻は夜の21時を回ったところだ。
俺が魔王の記憶を覚えているうちに、彼女らに語って聞かせることにする。
きっとそれは、俺達のこれからの旅路にも影響を与えるものだったから。




