第210話 魔王と勇者と聖女の後奏曲<ポストリュード>
勇者シルビアを封印する。
先日アリシアは、シェオルにはまだ魔王の残骸が残り、勇者は封印されていると言っていた。
魔王は死に、残るは勇者だけだ。
つまりこれは、魔王と勇者と聖女が奏でる物語の、最後の結末に至る瞬間なのだろう。
シルビアの言葉にアリシアは唇を噛み、視線を逸らす。
メルはその光景を、壁の穴に身を潜めて覗き見ていた。
「……ふ、封印なんてしなくてもいいんじゃない。呪いを解く方法を一緒に探してあげるわよ……!」
アリシアはシルビアを封印したくないといった様子だった。
彼女なりに思うところがたくさんあると言いたげだ。
だがシルビアは表情を変えない。
咥え煙草の紫煙が霊廟の天井へと立ち上り、消えていくのを見上げていた。
「未来の勇者に、私の呪いを背負わせるつもりはない」
俺はシルビアの言葉に驚いた。
同時に、魔王ネメシスがメルに復讐を禁じたことを思い出す。
シルビアも、ネメシスも、未来に生きる者へ復讐をさせない道を選んでいることに気付く。
だからこそ、彼女らの悲哀が際立つ。
勇者は復讐のために魔王と魔族を殺し、自らを封じる。
魔王は復讐のために勇者を呪ったが、生き残ったメルに復讐を禁じる。
どちらも周囲の者を報復の連鎖から降ろそうとしているのに、自分たちはそこから降りられなかった。
いや、降りなかった。
復讐は正しく行われなければならないという言葉の重みと、彼女らの執念にも似た矜持を感じた。
「……ここで封印するの?」
アリシアはシルビアに視線を向けることができないまま、そう問いかける。
「そうだな。時の石もそこに……いや、やめておこう」
「は、はあ?」
シルビアが一瞬壁際の、メルが身を潜めている場所に視線をやったかと思えば、急にそんなことを言い出した。
メルは自らの口を必死で抑え、物音をたてないよう身を固めている。
シルビアの突然の方向転換に、アリシアは怪訝そうな表情を浮かべた。
「……魔王城の裏に湖があるからそこでいい。自らの居城に勇者が封印されていては、奴も寝ていられんだろう」
そう言ってシルビアはメルが隠れているところとは反対の壁から一つの水晶を取り出し、スタスタと霊廟を出ていった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……!」
アリシアはシルビアの背中に声をかけるが、彼女は言葉を返さない。
ため息をつきながらアリシアもその後を追うが、彼女は部屋の入口でピタリと立ち止まった。
「……誰だか知らないけど、そこにいるんでしょ?」
俺は一瞬ドキリとなったが、それは俺にではなくメルに対して向けられた言葉だと気づいた。
メルは必死で声を出さないようにして、アリシアの様子を伺っている。
「シルビアもあんたのこと気付いてたけど、魔王への復讐は終わったわ。だからあんたを殺さなかった……その意味を、ちゃんと汲み取りなさいよね」
そう言って、アリシアも部屋を出ていく。
コツコツと靴底が階段を叩く音が聞こえなくなったのを見計らって、メルは再び穴の中から這い出てくる。
「……あの女、偉そうに」
メルは先ほどよりは少し落ち着いた様子で、アリシアへの悪態を口にした。
そしてしばらく後、メルは一人霊廟を後にする。
魔王城の玉座の間は綺麗なままだった。
だが、その奥に見える光景は、地獄だ。
血の河を形成する魔族の死体の山が、荒野の遥か彼方まで広がっている。
避難民や、バルカスなど戦場に出ていない一部の幹部たちはどうなったのか。
一瞬そんなことが頭を過ったが、もはやメルにとってはどうでもよいことだった。
愛する魔王を失った。
ただその事実だけが、彼女の頭の中から消えなかった。
メルは魔王城を出て、死体が並ぶ瓦礫の上を歩く。
本当に生きている者が一人もいない。
メルも俺も、シルビアの絶望的な力に改めて戦慄させられた。
そして。
「ああっ……!」
メルは、魔王ネメシスの遺体の前で膝から崩れ落ちた。
喉笛に剣を突き刺され、頭や体から血を流してなお美しく。
眠るように絶命している彼女の遺骸に、メルはすがりつく。
「魔王様……ネメシス様……! どうして、メルを一緒に連れていって下さらなかったの……!」
貴女と一緒なら、死ぬことすら惜しくはないのにと、メルは両目から涙を零す。
「……戻りましょう。メルがお連れいたしますね……」
一頻り泣いたメルは、やがて涙を浮かべたまま口元に微笑を滲ませる。
魔王の喉に刺さった剣を引き抜き、メルは魔王の遺体に肩を貸すような形で、どこかへと歩いていく。
片手には、神槍アレクトも携えながら。
「魔王様……メルは……ご命令に従います……」
一人呟きながら、いや、メルは”魔王と言葉を交わしながら”、魔王城の中へと入っていく。
折れた手で、痛みに顔を歪めながら、涙でぼやける視界の中で、メルは玉座の間へと魔王を運んでいく。
「……酷い人。メルがお供することも……許してくださらない」
メルは、魔王を玉座に座らせると、自らの長いドレスの裾をわずかに破り、一度霊廟へと降りて行った。
霊廟の中を流れる水にそのドレスの切れ端を浸し、魔王の元へと戻る。
「……魔王様、メルが綺麗にして差し上げますからね」
メルは玉座で眠る魔王の血まみれの身体を、そっと濡れた布で拭っていく。
彼女の目からはずっと涙が零れたままだった。
それでもメルは確実に、魔王の白い肌に付いた血を綺麗にしていく。
これが、最後の奉仕と言うかのように。
「魔王様、メルはこれからの永い時を、貴女無しで生きねばなりません……」
美しく整えられた魔王の遺骸の傍らに膝をつき、メルはその顔を覗き込む。
愛しい者の復讐を禁じられ、後を追うことも禁じられた。
「貴女と出会った時から色づいたメルの世界は……再び灰色に戻ってしまうのでしょう」
悠久の時を生きる長命種に、果たしてこれからの人生はどんなに辛く厳しいものとなるだろう。
俺はメルの震える唇から、彼女がどれほどの覚悟の元それを口にしているのか、言葉にすることもできない。
「またいつか……貴女の元で生きられる日を想うことを、メルにお許しください……」
そしてメルは、魔王のもう冷たくなった頬に手を添え、その唇にそっと口づけた。
温かい彼女の涙がポトリと落ちて、魔王の膝の上に雫を垂らす。
「我が愛しき神、ネメシス様……しばしのお別れです。貴女のメルでいられたこと……私は幸福でした」
メルは唇を離し、最後に魔王に微笑みかける。
一人の女性として、魔王を愛した。
その屈託のない微笑みは、これまでのメルの想いが全て込められたような、美しい貌だった。
そしてメルは、名残惜しそうに魔王の手にそっと触れると、傍らの神槍アレクトを手に取り、立ち上がる。
魔王に背を向け、メルは一度も振り返らず、謁見の間を後にした。
俺はこのとき、ようやく気付いた。
俺がこれまで見て来た記憶は、魔王のものだけではない。
きっとメルのものでもあった。
メルエム=メハシェファーという魔女が、魔王の記憶を通して、俺の中の魔王に必死に訴えていたのかもしれない。
"私はここにいて、400年後の未来であなたを想い生きている"と。
今も魔王との約束を守りながら、魔族の彼女が、人間と共存していることを。
ネメシスとメル、二人の女の物語は、きっとまだ今も続いている。
目が覚めたら、俺は彼女に伝えようと思う。
あなたの想いはきっと、魔王に届いていると。




