09
あれからイクセルは、一度も帰郷していない。理由は曖昧な『用事』。
私ももう会いに行くことはしなかった。
家令が再度イクセルに意向を尋ねようとしたが、止めた。もう噂がどうとかいう段階を飛び越えているのだ。
私は次の誕生日で二十八歳になり、イクセルがドゥエルになった歳に追いつく。それはつまり、時の流れから切り離された夫と同じ歳になるということだ。
結婚して十年のこの節目が、離縁に動こうとしないイクセルとけじめを付ける時かもしれないと、なんとなく考えていた。
領地も商会も引き継ぎは万端だし、自分の身の振り方も考えられるくらいには、心の傷がほんの少しだけ癒えた。
悩んでも縋っても、イクセルの心にもう私はいないのだとしたら、諦めるしかないのだ。
ツキリと腹が痛んだ。
思い悩み過ぎか、胃が絞られるように痛むことが増えた。
早くこの痛みからも解放されたい……そう暢気に思っていたのに。
「……残念ですが」
痛む腹を心配した侍女により医者が呼ばれ、告げられたのは治療のできない病と余命だった。
「半、年、ですか」
「おそらく、療養されて精霊師の治療を受けても延びて一月か二月……逆に予想以上に進行が早いことも考えられます」
「そう、ですか」
精霊師の治療は、精霊の力を借りて、ほんの少し痛みを和らげたり、薬草の効きを良くしたりするもの。
それだって素晴らしいことだが、ドゥエルの癒しの光のようにはいかない。
もう手立てが無いと医者から言われたというのに、自分でも驚くほど冷静だった。
ずっと心のどこかで死んでしまいたいと願う自分がいたのだろう。
もう生きなくてもよいという免罪符に安堵して、初めて気が付いた。
とうに、私の心の大部分は死んでしまっていたことを、ようやく自覚した。
夫の心を失ってもう消えてしまいたいという願望があるのに、奇跡のような逆転が起こり、イクセルとの子がいる未来を切望している自分もまだいる。
辛うじて生き残っている心もぐちゃぐちゃだ。
もう、そんな奇跡が起こって妊娠しても子は生まれない。授かっても月足らずで産んであげられない。
子を産みたかった。
この地を継ぐ、夫の子を。
イクセルの子だから、産み育てたかったのだ。
消えたい、産みたい、消えたいと、混乱した心が悲鳴を上げた。
その悲鳴を聞く冷静な自分もいて。
こちらから離縁を申し出るこれ以上ない理由ができたな、なんて思った。
「旦那様にすぐ連絡を。ドゥエルの癒やしの光ならば……」
目を閉じて思案していると、家令がそう言ってすぐさま手配しようとしたが、厳しく止めた。
「なりません」
「しかし、奥様……!!」
「ドゥエルの力を私的利用することは大罪です。子爵家が取り潰されるだけではなく、領民にまで咎が及ぶかもしれません。そのようなことは絶対に許しません」
「奥様……」
「魔物たちとの戦いのために神が力を貸してくださっているだけの奇跡。その力を乱用すればドゥエル自身にも天罰が下ると言われています。それにもしも私に癒やしの光を使ったならば、国中……いえ、大陸中の権力者たちが自分たちにもその光を使えと押し寄せて人間同士の戦となるでしょう。魔物という共通の敵がいるからこそ国同士はバランスが保たれているのです。ドゥエルの力は前線でのみ。最初のドゥエルが当時の国王陛下と決められたこの取り決めをけして破ってはなりません」
それだけは、国民としても領民の命と生活を預かる者としてもドゥエルの妻としても、絶対にドゥエルに求めてはならないのだ。